チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年7月21日
法王を乗せ、ヌブラに向かった飛行機が、、、!
ダライ・ラマ法王は昨日ダラムサラを発たれた。
先のブログでカルギル方面に行かれると書いたが、それは延期になったとのことで、その次に予定されていたヌブラ(ヌップラནུབ་ར་西の峠)の谷へ直接飛ばれたようだ。
これから、一週間ほどラダックの北、パキスタンと中国国境がすぐ目の前というインドの最北の地、ヌブラの谷で法話等を行なわれる。
以下スケジュール;http://dalailama.com/teachings/schedule
今日と明日:スムル村にあるサムテンリン・ゴンパ(ゲルク派、僧70人)で法話。
23日:サムテンリン・ゴンパの対岸にあるヤルマ・ゴンボ・ゴンパ(チャラサ・ゴンパ)で「金剛般若経」の伝法。
25日:ディスキット・ゴンパ(15世紀創建、ゲルク派)でマイトレーヤ(弥勒菩薩)像の開眼法要。
26日と27日:デェスキット・ポタン(今回の訪問用に新築された小パレス)でゲシェ・ランリ・タンパの「心を調える八偈の教え(ロジョン・ティク・ゲマ)」とジェ・ツォンカパの「菩提道の三要素(ラムツォ・ナムスン)」の講義。
私も、このまさに最果ての地と呼べるこのヌブラの谷に行ったことがある。
ここに行くにはレーの北にある、世界一高い自動車道とインドの言う5606mのカルドゥン峠を越えないといけない。
普通の人は高山病になる。
この北側は夏でも雪が多く、道は積雪を切り裂いた狭間を抜ける。
ヌブラの谷は広々としており、風景は抜群だ。
この地はある本によれば、かつて、といって紀元前からチベットと東トルキスタンを結ぶ交易路として栄えていたという。
今は北の中国、東のパキスタンとの国境が閉ざされているので、静かなただのチベットの田舎である。
ただ、国境最前線である北のシチュアン氷河を守るためにインド軍の大きな駐屯地がある。
法王はこのところ夏には必ず、インド最北のラダックやスピティのチベット仏教地区を訪問される。
もちろん、常に招待されるということがあるが、他にも色んな理由が考えられる。
まず考えられる理由は、この時期ヒマラヤの南側にあるダラムサラは雨季でうっとうしいので、チベットのすがすがしい夏を楽しむため?
実際、この辺は高度といい、気候、風土といい、まるでチベット本土と変わりない。
集る人々も真っ黒く日焼けした、田舎の信心深いチベット人たちばかりだ。
法王はこんな田舎の人々に仏教を教えるとき、きっと本土に帰ったような気がするのではなかろうか、、、
実際、ここから一山越えればそこは中国領チベットだ。
もちろん、勘ぐれば、政治的な要素もあるかもしれない。
ここは国境地帯であると同時に東のイスラム世界とも接している。
この地域が末永く自由なチベット仏教の砦として機能してほしいと願う気持ちもあるだろう。
それにしても、法王はもう75歳だ。いくらチベット人だと言っても高地に突然ヘリコプターとかで飛べば高山病になるのが普通だ。
実際、随行員たちは高山病に苦しむものも多いと聞く。
でも、法王は全くその様子もなく普通に次の日には法話を行なわれる。
このへんは地震被災地のジェクンドとかに無理して飛んで高山病に苦しめられたという、温家宝とかと比べるとまるで違う。
法王はよほど高地にお強いと思われる。
チベット人はもともと遺伝子的に高地に強いという話もあるが、私の知っているチベット人の多くが、平地生活の後チベットに行って、高山病にかかったと言っている。
ここで、ヌブラと法王に関する、とんでもない話を一つ紹介しよう。
法王は何と40年前、35歳の時にこのヌブラの谷を訪問されている。
でもこの時、法王を運んでいた飛行機は空中で事故を起こし、法王の命も危うかったのだ。
この時、法王をコックピットに迎えた元インド空軍のパイロットであるNestor D Conceicao氏が、法王の75歳の誕生日にちなんだ思いでとして語った、という話がネットに載せられていた。
http://www.bangaloremirror.com/article/81/20100717201007172117062003663aca1/Up-in-the-Air-.html
1970年10月23日、ダライ・ラマ法王がヌブラを訪問されるというので、インド政府がダラムサラに近いパタンコットの空軍基地から小さな軍用機を飛ばしてくれることになった。
Conceicao氏は朝の5時半に空軍基地に現れた法王をコックピットに座るよう促したという。
飛行機が高度5400m、レーまで10キロという地点でトイスと呼ばれるヌブラの軍用飛行場に向かうために左旋回を行なった。
そのとき、事故が起こった。
「突然、大きな爆発音とともに右のエンジンが火を噴いた。
私は直ちにエンジンを切った。
高い山々が目の前にせまり、状況の深刻さを知った。
ヌブラに向かうことを断念し、高度を下げ、レーの空港に緊急着陸することに決めた」という。
この時乗っていた、双発のパケット機はエンジントラブルで有名だった。
その飛行機は朝鮮戦争に使われたものを中古で購入したものだった。
この事故の後その飛行機はスクラップにされたという。
緊急降下の最中Conceicao氏はダライ・ラマ法王に状況を説明した。
「この間中ラマは高度計をずっと見ておられた。私は命にも関わる重大な問題が発生したので、申し訳ないが、機をレーに着陸させないといけない、しかし、目的地へのフライトもアレンジした、と説明した。ラマはそれを笑顔で受け入れてくれた。ラマは全くパニックになったり、ナーバスになったような様子を示されなかった」と彼は回想する。
「無事にレーの空港に到着すると、大勢のラダックの人たちが白いスカーフ(カタ)を持って飛行機に向かって走り寄った。ラマが機体から出ると直ちに、ラダックの人たちは目の前で地にキスし(半五体投地)白いスカーフを差し出した。私はその中の一人に、どうしてラマがレーに来ることが判ったのか?と尋ねた」
その答えは彼を驚かせた「私たちは法王がとトイスに行かれることを知っていた。でも私たちはここにも来てくれるようにと祈ったのだ」という。
彼は「その時、祈りの力にショックした」そうだ。
法王はこれまでに様々な冒険を楽しまれて来たということだ。
とんだ祈りの力だが、とにかく何事もなくてよかった、よかった。
それにしても、エンジンの爆発、炎上を見の前にして、少しも動ずることが無かったとは、さすが法王!
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)