チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年4月26日
ジェクンドそのものが無くなる?/子供たちを強制移住
<町そのものを移転して、エコ観光都市にする/子どもたちを内地に教育のためだと言って強制的に移動させる>
大地震で町がまるごと破壊されたら、その後は死体が埋まったまま、片付けるのも面倒だからと、その町を放棄する、というやり方は、この前の四川地震の時にブン川などで実際に起こったことだ。
朝日新聞のネット版によれば、当局は「被災地の復興会議を初めて開いた。結古鎮は再び地震発生の恐れがあるため、町そのものを移転させることを検討している」という。
http://www.asahi.com/international/update/0422/TKY201004220557.html
この「結古鎮(キグド/ジェクンド)は再び地震発生の恐れがあるため」というのは一体何を根拠に言ってるのであろうか?
一般には大地震の後は、地下に溜まっていたエネルギーが放出された後ということで、その地域は以前より安全と考えられるのが普通だ。
余程長期に渡る群発地震が予想されない限り、その土地を放棄することは考えられない。
関東大震災があったからと言って、東京は放棄されなかったし、阪神大震災があったからとて、神戸は放棄されなかった。
地震が多いからと言って居所を変える人はまれだ。
将来の強い地震に備えて、建物を強くするだけだ。
例え、真下に活断層があろうと、人は先祖代々住んできた土地を離れたいとは思わない。
第一、キグドはチベットの中でも特に地震が多いという場所ではない。
右の資料はチベット高原で1990年以降に発生した地震のプロットマップだ。
星印のある場所がジェクンド。
http://neic.usgs.gov/neis/eq_depot/2010/eq_100413_vacp/neic_vacp_h.html
これを見れば、チベットで地震が多いのは特にヤルツァンポの大曲部であることが解る。
ここには沢山のダムが建設中であったり、計画中である。
地震は北の西寧辺りのほうがよほど多いことも解る。
チベット・プレートの周辺部が地震の巣といえる。
キグド(ジェクンド)には300年ほど前に大きな地震があったと言い伝えられている。
それ以後は目立った大きな地震はなかったといわれる。
ではなぜ、中国政府はジェクンドをごっそり移動したいのか?
それは、このチベット人ばかりが住む、チベット文化の中心地の一つを、根こそぎにしたいからだと私は思う。
この計画を知った現地のチベット人は次のように話していた(RFA)
「自分たちは誰も地震があったからといって他の土地に移る気なんか全くない。
中国は自分たちの土地を取り上げようとしてるだけだ。
新しい場所に新しい家を用意して、これがお前たちの家だという。
もうその時には自分たちの土地はなくなっているのさ。
それでなくても、文革のあとには町の名前も、町の通りも全部中国式の名前が付けられ、人民大路とか、革命路とか訳のわからん名前ばかりだ。町や村も名前を聞いても分からなくなってしまった。
建物も昔のようなチベット様式のものはほとんど無くなった。
中国が建てた長屋ばかりが目立っていた。
もうそれも消えたが、、、
俺たちはどこにも行くつもりはない。
新しい町は中国人を呼ぶために造られるだけだ」
と。
実際、震災後の町づくりには、被災者たちの意見を最優先するのがあたり前だ。
それを、勝手な金儲けと文化破壊の手段に利用すれば、チベット人被災者たちの強い反発を招くことは目に見えている。
もう一つ気になる動きは被災地のチベット人たちを、当局は勉強のためだと言って、内地に強制移動させていることだ。
例えば、青海省教育局のツェリン・ツァル副局長は「震源地玉樹にある第一民族中学校は、すでに授業を再開した。また玉樹について、当局は、中学生以上の子供たちを西寧など地震の被害がないところに移動させ、そこで勉強させることにしている。その第1陣が23日に出発する予定だ」と言ってる。
http://japanese.cri.cn/881/2010/04/22/144s157632.htm
その他、孤児となった子どもたちを、中国のどこかに連れていくという話も聞いた(今このソース見つからず。思い違いなら幸い)。
チベット人はこのような話を聞くと、かつて文革の間に多くのチベットの青年、子どもたちが中国内地に連れ去られたことを思いだすのだ。
その中で後に故郷に帰ることができたものはほんのわずかだったという。
孤児についてはカムのリンポチェが一括面倒を見るという申し出を行なったとも聞く。
チベットの子どもをチベットで(或いはインドで)、チベット人として育てたいとみんなは願っているのだ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)