チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2010年4月23日
地震はそんなに大きかったのか? ジェクンドの建築物の耐震性等について
色んな写真やビデオで被災地のガレキの山を見ていると、もちろんその下に今の埋もれたままになっているであろう犠牲者のことも思うが、自分が建築に関わる者なので、その壊れ方を観察することも多い。
今回は被災地の建築物の種類やその強度について気が付くことを書いてみたい。
丘の上から撮った写真を見ると、中心地のビル街の建物は形を残しているものが多く、南や特に西の住宅地は全滅に近いことが分かる。
最初のころは建物の9割程度が破壊されたと言われていたが、今では当局は61.7%が倒壊されただけだと発表している。
まずは地震の規模と震度の話だが、私は結論的に言って、この地震はそれほど大きなものではなかった、震度でいえば、6弱であった可能性が高いと思う。
規模についてはアメリカの地震局が6.9と発表したのに対し、中国は7.1と主張する。
マグニチュード2は1の32倍ということはご存じと思う。
アメリカと中国の差はたったの0.2だが、この間には約2倍のエネルギーの差があるのだ。
違いは小さくない。中国はアメリカ発表の2倍の強さの地震だったというのだ。
震源地の深さをアメリカは33kmと発表した。それに対し中国は最初10kmだったが、後から33kmと言いだした。
震源地に一番近い地表とジェクンドの街の距離は30km。
ちなみに、阪神大震災はM7.3、震源の深さ16km、震度は7の激震だった。
地震による建物の倒壊はマグニチュードではなく、もちろん現地の震度が基準となる。
中国はジェクンドの震度を9強と発表した。
http://j.peopledaily.com.cn/94475/6955989.htmlもちろん震度については国ごとに基準が違うので何とも言えないが、中国が9強というのはおそらく10段階方式に基づく話と思われる。
最大級の地震だったと言いたいのだろうが、日本人にはよく解らない数字だ。
とにかく、中国は今回の地震は学校も倒壊してあたり前の大地震だったと言いたいらしい。
サーチナの記事によると
http://www.excite.co.jp/News/china/20100415/Searchina_20100415093.html
「結古鎮には、学校・大学4カ所がある。他の写真と総合した結果、第二民族中学校では、主校舎前の平屋建物3棟が倒壊したことが分かった。
三完小学校では平屋建物4棟が倒壊、玉樹広播電視大学は平屋建物4棟が倒壊し、2階建て以上の建物も1棟が倒壊した。玉樹衛生職業中級専門学校は、すべての建物のうち4分の3以上が倒壊したことが分かった。」
また、その学生の犠牲者はというと、17日、同じくサーチナに掲載された記事によると
http://www.excite.co.jp/News/china/20100417/Recordchina_20100417004.html
「玉樹県の70%の学校が倒壊し、現在判明しているだけで少なくとも生徒66人、教師10人が死亡した。生徒数3000人余りの玉樹県第3完全小学校では建物の80%が倒壊し、救出された生徒61人のうち34人が現場で死亡。200人以上ががれきの下に生き埋めになったままだという」。
さらに、
「08年5月12日に発生した四川大地震では、大量の校舎が倒壊、多くの生徒や教師が犠牲となり、手抜き工事や建築資材のごまかしなどが指摘された。これを受けて中国政府は各地区の小中学校、特に辺鄙な地区の小中学校に対し、地震に対する強度検査と補強工事の徹底を求め、マグニチュード7の地震に耐えられるような校舎づくりを指示した。しかし、今回玉樹県で発生した地震はマグニチュード7.1で、中国政府が求めた耐震基準を超えており、当局がこれを校舎倒壊の理由にする可能性が懸念される。四川大地震による校舎倒壊の初期調査時、四川省教育庁は中国教育部に対し、倒壊原因の1つとして地震の震度が強すぎることを挙げていた」そうだ。
しかし、現地の人の話によれば四川地震後に建て替えられた学校は一つもないという。
であるならば、地震が強すぎたわけではなく、設計耐震強度が最初から十分ではなかったという疑いが濃い。
私は今回の地震はそれほど大きくはなかった、日本の震度でいえば6弱ではなかったかと推測する。
実際には現地に行かないとすべて、はっきり言えないのだが、学校の建物がもともと震度6弱にも堪えられぬ、おから建物であったことは写真からも推測できる。
今、大事なことは、倒壊した学校の建物が証拠隠滅のためにすっかりかたずけられる前に、ちゃんとした外国の調査団が現場を見ることだ。
見れば、一目でわかる。写真を残しておくことも大事だ。
(倒壊した学校の写真はあるのだが、今ブログに載せられるものが手元にない)
私もインドの山奥で学校の設計などに長らく関わって来たので、他人事とも思えないところがあるのだ。
もしも、ダラムサラに大きな地震が来たらどうなるか?
自分が設計した校舎や寮、ホールの下敷きになって子どもが死んだらどうする?
おそらく自殺したくなることであろう。
この設計強度は最大の関心事ではあるが、じゃ自分が設計した学校が震度7に耐えられるかというと、それは無理と分かってる。
今の日本の世界最高の耐震基準を下回っていることは十分承知している。
低開発国の建物の予算の中では、鉄とセメント代がそのほとんどだ。
人件費はただのように安いが、鉄とセメントは高い。
どうしても予算を合わせるために、この両方をできるだけ削らないといけないという場合もある。
というか、日本級に設計すると施主も現場も驚いて冗談と思い作ってくれない可能性が高い。
私はこれを「難民仕様」と勝手に呼んで、自分を納得させている。
それでも、周りの建物よりはよほど強く作ってある。
いくら大きな地震が来ても真っ先に倒れることだけは避けたいからだ。
デラドゥンにある60mの仏塔とダラムサラTCVのホール、ツクラカンの拡張部分だけは日本基準に限りなく近い数値で設計されている。
ここに来て、もう25年近くなるが、その頃にはまだ鉄筋を使わずに家を建てる人が周りにはいた。
しかし、それはまれで、こんなインドの田舎でも鉄筋を使わずに家を建てると地震の時危ないと人々は知っていて、だいたいは柱の中には鉄筋を入れていた。
10年ほど前からはインドでもやっと構造基準ができ、基準を満たさない建物は建てられないことになっている。
もっとも、これは建前で、多くの建物はこの基準を守っているとは思えない。
それにしても鉄筋を入れない建物が建てられることは、今では皆無にちかい。
インドの山奥のダラムサラの建築事情と中国の山奥のジェクンドの建築事情を比べるというのは簡単ではないが、
壊れ方を見れば、近代化を売り物にする中国の山奥はダラムサラより、余程ひどかったことは一目でわかる。
もっとも鉄筋の入った建物の強度についてはダラムサラと似たり寄ったりと見受けられる。
その仕様は3~4階建では柱と梁に16~20mm筋が4~8本。柱の太さは30cmX30cmが標準といったところであろう。
平屋や二階までなら柱と梁に12~16mm筋4~6本、柱の太さ25cmX25cmほどか。
実際、この程度では震度6弱でも倒壊して不思議はない。
外壁や間仕切り壁に中空セメント・ブロックを使い、床にプレキャスト・コンクリート板を使っているのも強度を落とす元になっている。
6強ではそれぞれの耐震性に従い、半分程度は倒壊するであろう。
今回の地震はこの程度だったと思う。
もっとも、今回問題にしたいのは、お金がある人たちが作ったRCC造(鉄筋コンクリート)の建物ではない。
もちろん学校が倒壊し、多くの子どもたちが亡くなってしまったということは悲惨なことだ。当局は当然責任を取るべきと思う。
でも、さらに私は一般のチベット人たちが住まいとしていた家々の、今は見渡す限りのガレキの山を見て、悲しく思うのだ。
これらの家はバラックに毛が生えたほどに安普請だったことがわかる。
外壁は幅20~30cmほどの中空セメント・ブロック、または幅30cmほどの日干しレンガが積み上げられているだけ。
多くは平屋で屋根は陸屋根か切妻。陸屋根の場合は丸太などの架構の上に小枝と泥が載せてある。切妻は中国式で木造トラスの上に瓦やトタンが載る。
柱と梁がなく、壁は繋ぎがなく脆い。これではちょっとした地震でも崩れる。
今回のような大きな地震にはひとたまりもなく、逃げる間もなく、一瞬にして倒壊したはずだ。
壁のブロックも日干しレンガも木材も瓦も崩れ落ちれば、下にいる人を強打する。
ガレキの堆積には隙間ができにくく、埃が充満し、窒息死し易い。
これに比べ、RCC造の方は倒壊した後、隙間ができ易く、助かる確率は比較的高いと言えよう。
チベット人はいつから、こんなバラックのような建物に、あたり前のように住むようになったのだろうか?
一般に周辺の民族に比べてチベットの伝統的民家は大きく2,3階建てで、手が込んでいて、立派な家が多かった。
壁厚も40~60cmあり、日干しレンガではなく、現場で土を打ち固めたものが多かった。耐震性も悪くはなかったはずだ。
貧しくなったということか?
実際、この地方のチベット人の収入の半分以上は夏場の冬虫夏草採取によっているという。
牧草地を追われた遊牧民は、今ではこの冬虫夏草の採取のみを唯一の収入源とするものが多いと聞く。
結局、多くのチベット人には遊牧民から採集民に落ちるしか生きる道が無くなったということなのか、、、
そして、今回、広々とした草原と大きなヤクテントを追われた者たちの多くが、街中でセメント・ブロックの家の下敷きとなり死んでしまった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)