チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2009年2月25日
第8,9,10日目チュレ、ターメ村
今日、広島の家に帰ってきた。
家と言っても、海のすぐそばに、空家があるだけで、今は誰も住んではいない。
庭の梅の花だけが散り初めの満開だった。
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写真、特に今日はヤクの写真が多いです。
日本にいる時だけできることだから、この際沢山載せたくなったのです。
遅ればせながらN2の作ってくれた地図を載せます。
クリックして大きくして見てください。
この日はそのままチュレに留まることにしていたので、朝からのんびり起き上がる。
ガワン達は山に放っておいたヤクを集めに川を渡り、反対側の険しい山に登って行った。
この日は朝から雲が多かった。ナンパ・ラの方はすっかり雪雲の中に隠れた。雲はじょじょに下に降りて来て、午後にはチュレにも雪が降り始めた。
細かな粉雪だ。
あたりは見る間に真白になった。
ナンパ・ラに行くのが一日遅れていたら、雪でクレバスも隠れ、道も隠れ、到底辿りつけなかったであろう。
山に行ったガワン達を気遣い、対岸の山肌を眺めるとヤクが豆粒のように見えた。
ヤクが急斜面を横切っているのが見えた。
とその時、ヤクが続けて三頭、斜面を滑落するのが見えた。仰向けになり滑り始めたヤクは中々止まらず数十メートル下でやっと止った。
しかし、落ちたヤクはなかなか立ち上がらず、怪我をしたか、死んだのではないかと心配になった。
しかし、しばらくして三頭とも立ち上がった。大丈夫のようだった。
左の写真の真ん中あたりにヤク滑落の跡が見える。
下の方に落ちたヤクも二頭確認できるはず。
やがてヤクたちは、川を渡り20頭のヤクが小屋の前に勢ぞろいした。
さっそくガワン達はツァンパとだん茶を混ぜ合わせた、▲おむすびを何個もみんなに与えた。
我々は蒸かしジャガイモをたくさん食べた。ここは4300mぐらいだが畑があり、ジャガイモがとれる。この高地ジャガイモはすこし赤身がかっており、甘味があってとても美味なのだ。もっとも毎日、朝からジャガイモばかりで少々食傷ぎみにはなるが、、、、
第10日目ターメ泊。
雪の中、20頭のヤク、2頭のゾッキョと共にのんびりターメまで下る。
往きとは違う川の反対側の道を通る。
高度が下がるにつれ、じょじょに這松状態だったシュクパの木が立ち上がりターガでは森も現れ始めた。
ターメにはホットシャワーとまともな飯が待っている。
ターメのロッジに着き250ルピーのホットシャワーを浴びると、峠行きもこれで終わったな、、、との実感が湧いてきた。
ターメは気持ちの良い処だし、ターメ計画の話もあるし、、、なので二泊することにした。
ガワンとアン・サンポの家に遊びに行った。
アン・サンポの家には彼がチョモランマに何度も登頂した時の写真が掲げられていた。
「チョモランマに登るのは簡単かね?」と訊くと、
「あんなとこに行くのはニョンパ(気違い)のやることだよ。
でも一度登頂に成功すれば三年分の稼ぎになるからね。
いやだけどやるだけさ。隊にもよるよ、ある隊はシェルパを気遣ってくれて無理をいわないし、成功した時はボーナスをたんまりくれる。
ある隊はやたら沢山我々に荷を負わせ、先に行って引き上げるように要求する。
この前のベトナム隊は最悪だったね。軍人のグループだったけど、自分たちは全く登れないくせに、登れなかったことを全部シェルパのせいにしていた。
ピーク前の数日は気ちがい沙汰だ。
ほとんど眠らない。それで頂上に立った後、降りる頃はふらふらだ、だから降りるときに死んだりするやつが多いんだよ」とのことでした。
アン・サンポの家でチャン(チベットどぶろく)を勧められ、今までは欲しくても全く飲まなかったのだが、もう終わったというので、この日は頂くことにした。
そのチャンが又濃くておいしい。奥さんと可愛い娘が盛んにもっと飲めとすすめる。
3杯も飲まなかったが二人ともしっかり酔った。
酔ったどころか、ロッジに帰ったころには息が上がりハアハアになった。頭も痛くなってきた。それから二人とも何時間もベッドに倒れ込み、こんな低地で高山症状を呈することになったのでした。
こんな強いチャンを毎朝歩き始めに飲んでいた3人は信じられないやつらだ、と今更ながら痛感しました。
ところで、この時期ターメに来るトレッカーなど一人もいないはずなのに、なぜか同じ時間に大きなグループが同じロッジに入ってきました。
外人にチベット人の若者、シェルパなど総勢30人は超えています。
最初はなんだか騒々しい大げさな奴らだな、機材もすごいし何かの撮影隊のようだな?と思っていました。
夕方、食道でボスらしい女性の顔を見ながら、N2が「ひょっとしてあの女性<マリア>という例の<ヒマラヤを越える子供たち>を撮った監督じゃないかな?あの顔はネットで見たことがあるよ」と言い始めました。
「へえ!そうなの。道理で大掛かりだよな。また撮影なのかね?」と
隣の隣にいた、その<マリア>さんに私が声を掛けました。
「ひょっとしてあなたはあの有名な<Escape over the Himalayas>を撮った監督じゃないか否」と尋ねると、一瞬戸惑った顔をした後「そうだが、どうして分かったのか?」と聞いてきた。
「連れがあなたの顔をネットで見たと言ってるからね」
と言う会話から始まり、それからいろいろ話しをした。
第二作目を2007年に出し、今回は三作目を撮影するために来たとのこと。
詳しい内容は教えてくれなかったが、どうも15,6歳の亡命チベット人の高校生を連れていたから、彼らを使って何か回想録風な映画をとるものと思われた。
もっともナンパ・ラまではいかないとのこと。向こうからくる難民を待って撮影するつもりでもないらしかった。
医者も含む外人スタッフはドイツ人とスイス人合わせて5,6人。チベットの子供が6人、もっとも彼らは別にナンパ・ラを越えてきたわけじゃないと言ってた。
見てると彼らのスケジュールはきっちり決まっているようで、常に細かい指示が飛び交っていた。「さあ、7時だ、みんなこれから手を洗って!」と医者が指示していたがこれには笑えた。
歌の練習の時間が何度もあった。
道に出て、何度も同じシーンを撮ったりもしてた。
シナリオが最初からしっかり決まっているようだった。
「ドイツ人はすごいですね、こんな山の中でも時間どうり進めないと気が済まないようですね」とN2.
「ドイツもA型社会だからね」と私。
ヤク30頭に乗せたテント、充電用太陽パネルなどが先に送られているとも言ってた。
我々とは大違いの、いかにも金の掛った撮影隊を見てN2は「山に入っても気持ちいいテントに寝てうまいディナー!を毎日食べるんでしょうね、、、、でも奴らはどう見てもナンパ・ラなんかには聞けそうにないですよね」と少々うらやましそうな、小馬鹿にしたような口調。
「ま、我々も今度来るときはI氏といっしょにヤク50頭で登るかね!N局も来たがっていたしね、、、でも今回は十分二人で楽しんだじゃないか、仲間は最高だったしね!難民には会えなかったけどね、、、
君はもう<山渓>とかに写真持ってくしかないかもね!?ヒヒヒ。でも十分沢山いいインタビューも撮れたし、本でも映画でもできるんじゃない」
と私。
「ううう、、、僕はこれから今度はダムの方に行ってどうしても難民を捕まえますよ!」と
まだまだ熱く、疲れと、足るを知らないN2でした。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)