チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2008年9月16日
法王召集の重要会議の日程、日本人がネパールでチベットのために4回のデモ
昨日の法王の御様子についての話はあくまでも非公式の裏情報の一つとみなして頂きたい。
特に報道関係の方は他の情報筋も参照されますように。
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先に発表された法王ご自身が特別に招集された「特別会議」の日程と場所が議会により決定された。
http://phayul.com/news/article.aspx?id=22807&article=Tibet+Emergency+Meeting+In+November
来る11月17日から22日までの6日間、ダラムサラのTCVホールで行われる。
会議の出席者は現大臣及び大臣経験者、チベット議会現議員及び議員経験者、政府副書記以上経験者、各チベットNGO代表、チベット人知識人、専門家、青年その他という。
もっともこの決定は議会の草案として法王に提出されるものであり、法王の意見を入れて変更される可能性もある。
議会では外国のNGOを参加させるべきかどうかの議論が盛んに行われたが結局、チベット人限定の会議と決定された。
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だいぶ前のことになってしまったが、ある友人(日本人)にインタビューした。
彼は4月に24時間のハンストをいっしょにやった仲間でもある。
短期間にチベット語もマスターし、今ではすっかりチベット化されてしまった一人だ。
以下は同席したT女史が彼女のブログ上でまとめて下さったものです。
http://newborder.exblog.jp/
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先日、ダラムサラに滞在していた日本人の方が、カトマンズでチベット人たちと
「フリーチベット」のデモに参加し連行されたそうだ。数日して帰ってくると聞いていたが、偶然ルンタの隣のカフェでお会いしたので、私たちはデモの話を伺うことにした。
S氏は元自衛隊員。今は休職し、一年ほどネパールやダラムサラなどチベット文化圏を旅している。
今年の8月7日から3日間、カトマンズの中国大使館前でデモを行いネパール警察に連行された。
ポカラのチベタンキャンプからカトマンズのベースキャンプまでは、大勢のチベット人と一緒にバス2台で移動した。
オリンピック前夜ということもあり、検問はとても厳しかったが、なんとか無事に切り抜けた。
そして、合計4回のデモに参加した。
一回目、8月7日のデモ
S氏一行に加え、カトマンズに住むチベット人たちが大勢集まり、大規模なデモへと
発展した。するとネパール警察がやってきて、ダライラマ法王の大きな写真を棒で
殴りながら、「ただちに解散せよ!」と叫んできた。トラックに詰め込まれたが、ガソリンがないから帰ってよいと言われた。
チベタンキャンプからやってきた一行はカトマンズの工場跡地をベースキャンプにしていた。
スパイなどもいるため、カムフラージュでデモを決行するといって、突然中止になることもあった。
次の決行をいつにするか、ベースキャンプでそのタイミングを待っていた。
2回目、8月9日のデモ
一行を束ねているボスの号令がかかり、再び中国大使館の前でデモを行った。一度目はポカラからなので検問が厳しかったが、二度目はベースキャンプからタクシーでの出動だったので、パスポートを見せ観光客を装い、フリチベTシャツや国旗も隠し持って行くことができた。
それぞれ近くのレストランで着替え、中国大使館前へ向かった。
そこには100人のネパール警官隊が待ち構えていた。
ジャーナリストがカメラを回しているときは何もしないが、カメラのないところでは手荒な暴行を加えたり、時計や身につけているものを奪い取ったりしてきた。友人の女性は棒で顔面と脚を強く殴られ、目がひどく腫れて片目がつぶれてしまい片足も負傷したが、次の日もデモに参加していた。
みんな決死の覚悟でここまで来ているので、何があっても引き下がらない、根性が座っているのだ。
S氏も棒でお腹に一発食らったが、気合が入っていたので大した痛みではなかった。
オリンピックの開幕式の次の日ということと、ニュース報道が来ることもあって、1000人近くの群衆がデモに参加していた。けれども、みんな塊でなくバラバラにやってくるので、ネパール警察に一網打尽にされてしまった。2,3人の警官に担がれ、次々にトラックへ放り込まれた。
お婆さんが悔しくてずっとすすり泣いていた。
群衆全員を収容仕切れないため、ネパール警察署の二、三か所の運動場へ別々に連行された。法律で何かあるのか、夜の10時には釈放され、みんなでベースキャンプへ帰った。
3回目のデモ(日付不明)
2回目と同様にして捕まり、別の運動場へ収容された。
トイレに行こうとしたら警察にダメだと言われた。怒りが沸点に達し「叩かれたので日本大使館に電話してください!」と抗議した。
すると上の者が出てきて、「お前は日本人なのか。それなら帰っていい。」と言われ
たが、仲間を裏切れないし、ベースキャンプまでの道も定かでないため、みんなと一緒にとどまることにした。そして、同じように夜には釈放された。
4回目、8月14日のデモ
みんながポカラに帰ってしまい、S氏はボドナートの宿に移った。近くの店のオーナーや従業員たちが店を閉めてデモをやるというので、一緒に参加することにした。
例の如くすぐにトラックに放り込まれ連行される途中、3,4人の警察にボコボコに殴打され、立てなくなっている老人の姿が目に留った。
それは、楽しんでやっているようであまりに惨たらしい光景だった。
S氏は頭にカーっと血が上り、「やめろー!」と叫びながらトラックから飛び降り、気がついたら警官3,4人の足を無心に蹴り倒していた。
そして当然のごとくボコボコに殴打されたが、その時S氏は怒りのあまり頭の中が真っ白だった。
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一連の騒動では、警官による僧侶や老人に対しての暴力が特に酷かった。激しく殴打され、歩けなくなるお婆さんもいた。女性は体を触られ、ポケットに入れていた財布を抜かれる者もいた。
ネパール警察が、1000人もの人をわざわざ形だけ逮捕するのには理由がある。
チベット人を一人捕まえると、中国から500ルピーもらえるのだ。ガソリンが買えないくらい金銭的に窮している彼らにはチベット人逮捕は小遣い稼ぎなのだろう。
捕まると必ず回覧板のような紙が回って来て、名前と国籍などの個人情報を書かされる。
その数が、彼らの小遣いに比例するわけだ。
以前、S氏はカトマンズでマオイストのデモを見た。彼らは木の棒を振り回し、石を投げ、過激な破壊行為に及んだが、ネパール警察はただ見て見ぬ振りをしていたのだ。
今や、ネパールではマオイストが60%の支持率だ。国家の言いなりの警察は、結局長いものに巻かれるのだ。
以上、S氏から伺った話の概要です。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)