チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年7月9日
先に火事で焼死と伝えられた僧院長と尼僧は焼身
先の4月6日、カム、ミニャック地方ラガンの(ニンマ・シェタ)ダクガル僧院において、僧院長とその姪である尼僧が火事で焼け死んだという事件があった。しかし、その時点でも地域の人々は「2人は焼身したに違いないと噂していた」という。(参照、過去ブログ>「高僧とその姪が焼身者を追悼中火事で焼死 人々は焼身したに違いないと噂」http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2012-05.html#20120506)。
私は5月中頃このラガンを訪れた際、ダクガル僧院に足を運び、現場である火事の跡が残る僧坊を見て来た。本堂のすぐ裏にあるその燃えた僧坊(左の写真)は小さな一階建てで、燃えた部屋からはすぐに外に逃げる事ができると思われた。部屋の燃え方から見て大きな火事であったとは思えず、明らかに意図的に火事を起こしたか、中で焼身した結果、部屋も燃えてしまった、と見る方が自然だと思われた。
僧院の僧侶にも話を聞いたが、その僧侶はためらいながらも「焼身したのかどうかは分からない」と言った。それでも携帯の中にあるその僧院長の写真を見せてくれた(写真2枚目)。その時点では亡命側には焼身したという証拠となる証言は伝えられておらず、ただ、僧院長はその日の10時半頃家族に電話し、その中で「今、これまでの焼身抗議者を供養するために沢山の灯明を捧げているところだ」と話した、と伝えられていた。
しかし、今月4日付けRFAチベット語版http://www.rfa.org/tibetan/chediklaytsen/ukaylatsen/f42f66f62f0bf60f42fb1f74f62f0bf51f54fb1f51f0bf42f4ff58f0d/dzogchen-monastery-abbot-and-niece-self-immolated-07042012124636.htmlはこの事件に関し、新たに「2人は焼身抗議を行い死亡していた」と、伝えた。RFAは最近現地から彼らが焼身したという新たな情報を入手したというのだ。それによれば、僧院長であるアトゥップ・リンポチェは家族に電話で「今、これまでの焼身抗議者を供養するために沢山の灯明を捧げている。私も彼らの行為を讃え、後に続く(ために焼身する)」と伝えていたというのだ。
彼らが焼身した後、直ぐに僧院には大勢の警官が押し掛け、「焼身の事実を外部に漏らせば、僧院を閉鎖するぞ。焼身ではなく火事だったと言え」と脅された。僧院側も僧院閉鎖を恐れ、これを承諾した。また、家族に対しても警察は事実を公表しないよう脅され、さらに口止め料として1万元の金を渡されたというのだった。
焼身したアトゥップ・リンポチェ(ཨ་ཐུབ་རིན་པོ་ཆེ་、別名トゥプテン・ニェンダックཐུབ་བསྟན་སྙན་གྲགས་、45)はニンマ派のトゥルク(転生僧)であったが、デブン僧院やキルティ僧院にも学び、ゾクチェン僧院の高僧でもあった。普段よりチベットの宗教や文化を守ることに熱心で政治的意識も高い教養ある高僧であったという。一緒に焼身した姪の尼僧アシェ(ཨ་ཤེ་23、前ブログにアツェと表記したことを訂正)も普段から政治意識が高い尼僧であったという。
内地焼身者のリストにこの2人を入れているメディアはまだRFAだけと思われるが、私は現場を見ており、今回のこの情報には納得し、信用できると考えるので、2人を焼身者のリストに入れることにする。2人を加えればこれまでの焼身抗議者の数は44人となり、その内の死亡確認者は34人(訂正追記:33人)ということになる。
なお、ニンマ派の高僧と尼僧が焼身したのは初めてである。
5月27日、ラサのジョカン前で焼身抗議を行った2人の内ツェテン・ドルジェはその場で死亡した。もう1人のタルギェも7月7日6:40pm、ラサの警察病院内で死亡した(6日付けRFA英語版)<(訂正追記:タルギェが死亡との情報は9日に否定された)。一般に彼が42人目の焼身者として数えられている。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)