チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2011年6月28日

ウーセル・ブログ「白塔寺で傷ついた仏像を見た」

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005写真左:24日付けウーセル・ブログより。文革時、ラサ、ジョカン(大昭寺)中庭に破壊され放り投げられた仏像等。

以下、6月22日付けウーセルさんのブログ。
原文:http://goo.gl/1jA3N
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん

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◎白塔寺で傷ついた仏像を見た/在北京白塔寺看见残缺的藏传佛像

文/ウーセル

 「北京の古い街並みは戦争と中国現代史の革命を生き延びてきたが、五輪が運命を決めてしまった。ブルドーザーと開発業者はすでに広い皇城を破壊した」。タイムズは3年前にこう書いていた。ある中国人建築家は発展を追い求める北京を「歴史的文脈を失った都市」だと考えている。しかし、今も残る旧跡では、チベット仏教の貴重な宝を至る所で見ることができる。私がこのまちで数年暮らし、少しずつ見つけたものだ。


001原注「以上(以下)の写真はネットから。傷ついた仏像は写っているほかにももっとある」

 モンゴル人が中国を支配し、帝国の都に定めた後、明朝と清朝も北京を首都にした。これらの支配者はチベット仏教を信仰していたため、サキャ派やカギュ派、ゲルク派の高僧は皆、はるばる北京に赴いて教えを広め、皇帝や皇族の師として尊敬を集めた。だから、北京の雍和宮や故宮、頤和園、北海公園、白塔寺、大覚寺、西黄寺、西山八大処の仏牙舎利塔などの旧跡には、当時の文化交流の跡が残されている。

002 ただ、私が書きたいのは別のことだ。よく北京に来るラマが私に言った。白塔寺の万仏殿には、大小1万体以上の金属製の仏像が安置されている。元々すべてチベットにあり、文化大革命時に北京へと持ち去られた。純金などの至って貴重な仏像は国庫に入れられ、残りは次々溶かされて工業に使われた。しかし数がとても多く、文革終結時にまだ残っていたので、一部を白塔寺に送った。基本的にどの仏像も欠けていたり、傷跡が残っていたりする。

003 白塔寺には2回行ったことがある。家族のように形をよく知る仏像をじっくり観察すると、グル・リンポチェ像に法杖は無く、ジャンペーヤン(文殊菩薩)像には無明を絶つ剣と知恵を開く経典が無かった。チェンレースィ(観音菩薩)像は大悲利他の指を失っていた。諸仏菩薩の顔は傷だらけで、手脚はそろっておらず、台座が完全に壊れたものまであり、心がとても痛んだ。管理員に問うと、初めは文革との関係を認めなかった。しかし一つ一つ傷跡を指し示すと、麻袋に荒っぽく詰め込まれて運ばれたからだと低い声で言った。幸いにしてすぐに「救い出された」のだとも言った。

004 数年前に出版した「チベットの記憶」という本で、あるラサの学者に話を聞いた。文革の頃、北京の中央民族学院にいた彼はこう振り返った。「チベットから内地に持ち出された仏像の多くは、柳園の大きな屋外倉庫に集められた。(中略)荷物の積み出しのために運転手と倉庫に行くと、乱雑に積まれた仏像が倉庫の半分を占めていた。とてもたくさんあった。全てチベットから運ばれてきて、屋外に積み上げられている。(中略)仏像は溶かして鋼材などにすると聞いた。残ったものもあるかもしれないが、最後はどこに運ばれたのか全く分からない。ああ、あんなにたくさんの仏像は一生忘れられないね」

L1230841-2(写真はラモチェのシャカムニ像。ウーセル写す。)

 ラサのラモチェに安置されているシャカムニ像は世の移り変わりをずいぶん経験した金属像だと取材時に知った。文革中、腰から半分に切断され、上半身は北京に流れ着いた。後にパンチェン・ラマ10世が捜し出し、ラサの倉庫に捨てられていた下半身とつなぎ合わせた。金色に輝く絹織物でくるまれて再び安置され、元のようになり、重い傷の跡はもう見ても分からないほどだ。昨年3月14日にラモチェでこの美しい仏像を見つめた時、涙が突然あふれ、恭しく3度額づいた。

006 もう一つ書いておきたい。「チベット仏教の仏像を最も多く集めた」と称するコレクターが北京にいる。彼は文革中にちょうどチベットのアムド地方で兵士をし、コレクションを手に入れた。この辺りの歴史は研究に値する。1950年代から文革期にかけ、チベット全土の6000以上のゴンパはほぼ破壊された。数えきれないほどの宝を集めたゴンパから数千数万もの貴重な仏像が全て略奪された。解放軍と幹部こそ破壊者、略奪者の中心だ。彼らはこれにより、今日の名誉と利益につながるいわゆる「コレクター」業を「成功」させた。

 2011年6月15日

(RFAチベット語プログラムより)

006

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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