チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年6月19日
獄中で抵抗歌を歌い刑期延長、リンジン・チュキの証言
右がチュキ。左の女性はチュキと同じ時に収容されていたミチュリン僧院出身のフンドップ・サンモ。一緒に立会い、インタビューの補足をしてくださった。
再掲:2008年9月23日分
かつてダプチ刑務所で抵抗の歌を歌い刑期を延ばされた尼僧として、ガワン・サンドルさんは世界的に有名だ。その時歌ったのは14人だった。ガワン・サンドルさんは今アメリカに居られてダラムサラにはいない。14人のうちの2人がダラムサラにいる。その内の1人チュキは今9-10-3の学校に通う生徒だ。ルンタの中に住んでいる。
2人に話を聞く積りだったが、時間がなくてまずは1人チュキに話を聞いた。
以下は同席したT女史がまとめてくださったものだ。
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*リンジィン・チュキ 37歳の証言*
初めて私の前に現れたチュキラは、とても小柄で可愛らしい雰囲気の人だったので、彼女が過酷な拷問をされたことなど信じられなかった。けれども、片足を引きずる姿がその事実を物語っていた。
以下は、ガワン・サンドル(ひとつ前の日記を参照ください)と同じダプチ刑務所で歌を吹き込んだ尼僧の1人、リンズィン・チュキさんの証言です。
私は飛行場の近くのロカで産まれ育ち、1988年18歳の時にシュンセップ尼僧院の尼になりました。シュンセップ尼僧院は、文化大革命の影響下で一度は完全に破壊され、
私が入った当時はまだ再建の途中でした。50人ほどの若い尼と一緒に石や土を運び、
尼僧院復興のために働きました。
90年3月のデモ、そして再び・・
二年後、シュンセップの尼20人がデモに行き、全員捕まり酷い姿で帰ってきました。
中には電気棒を女性器に入れられ、ひどい後遺症が残った者、腰が打ち砕かれて
身体障害者になった者、頭を強く殴打されて15日後に亡くなった者もいました。まだ若い尼僧たちに何故こんな酷い仕打ちをするのでしょう。私は、その時は直接デモには参加しませんでしたが、そんなデモの後の惨たらしい光景に、ただ震えていました。
彼女たちが3か月で釈放されたのは、当時パンチェン・リンポチェが、政治犯に刑期を与えてはいけないとしていた為でした。ところが、その後すぐに政治教育班がシュンセップ尼僧院へやって来て、以下の3つのことを指示したのです。
1・ダライ・ラマを批判すること
2・チベットは中国の一部であると認めること
3・中国政府への忠誠を誓い、中国への愛国心を持つこと
上記のことに同意し、サインして提出しなければ、私たちは尼僧院にとどまることは出来ませんでした。けれども、私たちシュンセップの尼僧は全員それを拒否しました。そして、私は、そのうちの6人とともに尼僧院追放を覚悟の上で、デモをしにラサへ向かったのです。一緒に行ったメンバーは尼僧院での部屋が近く、最年少は16歳、最年長は22歳の若い仲間たちでした。シュンセップに駐在していた公安や委員会が寝ている夜中の12時に、私たちはこっそり裏口から脱出しました。歩いて向かったため、ラサへ到着したのは次の日の夕方でした。慌てて決行に至ったので準備は何もできず、夜は二人ずつ別々の知人宅へ泊めてもらいました。
デモ前夜は、恐怖で打ちのめされそうな思いでいました。デモをしたらその場で殺されるか、捕まって酷い拷問をされるかのどちらかなのです。それを承知で覚悟を決めたのですが、やはり決行するまでは、恐くて仕方がありませんでした。
私たちは、とにかくダライ・ラマを批判されることが辛いのです。どんなことがあってもそれだけは拒否し、抵抗しなければなりません。私は、幼いころからずっと両親からダライ・ラマ法王の話を聞いて育ちました。法王のテープを聴き、その写真に祈りを捧げてきました。仏教の先生も、みな法王を思慕しております。法王は、私たちにとって何があってもお守りしなければならない大切な存在なのです。
私たちは、仏教を学ぶために尼僧院に入りましたが、再建してもなお宗教の自由はなく、十分に学ぶことができませんでした。デモをしても結果は分かっています。それでも私たちには、自由のために抵抗するただ一つの道しかなかったのです。
デモに行く前に、6人でジョカン寺の最も聖なるジョオ像(釈迦牟尼ブッダ)の前で祈りました。「このデモが成功しますように!ダライ・ラマ法王にご長寿を!チベットの早期の独立を!」、と。
午前9時、ダライ・ラマ法王の写真と国旗を掲げ、ジョカン寺の周りを一列になって歩き、叫びはじめました。
「チベットに自由を!チベットの主人はチベット人だ!チベットはチベットのものだ!中国人はチベットから出て行け!ダライ・ラマ法王のご長寿を!チベットの完全独立を!」
周囲の人たちは公安を怖がり、一歩引いた所で私たちの様子を見ていました。5分ほど
歩いた頃でしょうか、予想通り公安が大勢で殴りかかってきました。公安は、私たち一人に対し、二、三人で寄ってたかって棍棒で殴打してきました。私たちは、瞬く間にまるで物を扱うみたいにトラックに投げ込まれ、グツァ拘置所へ連行されたのです。
グツァ拘置所からダプチ刑務所へ
拘置所へ着いたらすぐに10分ほど壁に向かって立たされ、所持品などをすべて没収されました。その後、後ろ手に縄で縛られ、大きな木にしばらくの間吊るされました。肩が脱臼しても降ろしてもらえず、私たちはあまりの痛さに悲鳴を上げながら耐えていました。そして、その状態のまま電気棒で手のひら、足の裏、そして口の中に電流を流されました。口の中に入れられときは、内臓が全部焼けるような激しい痛みでふらふらになり、16歳の少女は気を失って失禁するほどのダメージを受けました。また、一人は鉄錠門に叩きつけれ、額から大量の血を流して倒れました。まずは見せしめのため、私たちを脅すためにそのような過激な拷問が行なわれたのです。
尋問は、午前11時から午後9時までの間に何度も繰り返されました。問われる内容は
決まっていました。背後に誰がいるのか、誰の指示なのかということです。「自分たちの意思」だと答えても、みんなまだ若いので、誰かの指示に従ったに決まっていると言われ、彼らの望み通りの応えが出ない限り、殴打され同じ質問が繰り返されたのです。
忌々しい拷問は、夜の10時くらいから執り行われました。夜中に監獄の周囲を走らされたり、足をテーブルの上に置かれ、手を床に付けた逆さまの状態でいるよう強いられ、その体勢が続けられないと酷く殴られたりしました。
そんな拷問が二カ月続いたときでした。私たちは全員裁判所へ連れて行かれました。
ところが、そこにいたのは監獄のトップと裁判官だけで、もちろん公正な裁判が行われることはありませんでした。「中国分裂を企てた反逆罪」だという理由で、私を含む年上の3人が7年、下の3人が3年の刑期を言い渡されたのです。
90年12月、私たちはダプチ刑務所へ移送され、長い監獄生活が始まりました。
刑務所へ着くと、私たちは囚人服に着替えさせられ、労働と思想の変換を強要されました。
私たちの仕事は、監獄内にある野菜ハウスのための人糞を、人民病院や軍事基地の
便所から集めることでした。二人一組でリヤカーに乗せ、一日6回も往復させられましたが、公安が必ず自転車で付いてきて監視しているので、逃げることはできませんでした。糞尿腐敗タンクの中に腰まで浸かってバケツで掬わなければならなかったので、服も身体も常に糞まみれでした。初めはその強烈な臭いに嘔吐することもありましたが、5,6年同じ仕事をさせられ、臭いにも慣れてしまいました。
けれども、家族には心配をかけてしまいました。月に一度の面会の際、家族は私の体に染みついたひどい臭いを憐れみ、よく泣き崩れていました。特に両親は末っ子の私を心底心配し、バスで一時間半かけていつも駆けつけてくれました。
歌う尼僧たち
1993年のある時、私たち同じ監房にいる6人は、ラサにいる僧侶や尼僧たちを勇気づけるために何か出来ることはないかと話し合いました。そして、一般刑囚人の男性からテープレコーダーを借り、それに歌を吹き込もうというアイデアを思いついたのです。
私たち政治犯の監房は、普段はとても監視が厳しく、外部の人との接触は出来ません
でした。けれども、毎週木曜日に学習会があり、その時だけは政治犯も一般刑囚人も
男女の区別もなかったのです。看守は、政治犯にはとりわけ厳しく、一般刑囚人たちへの政治的影響を避けるためか、彼らと私たちの一切の接触を禁じていました。それだけでなく、一般刑囚人たちは、政治犯を監視し、何かあったらすぐに看守に報告するよう命じられていたのです。
けれども、テープレコーダーを貸してくれた男性は人が良く、政治犯の私たちにとても親切に接してくれました。授業の時しか会えませんでしたが、度々監視の目を盗んで話かけてくれたのです。テープレコーダーを政治犯に貸すこと自体とても危険なことなのに、見つからないよう工夫し、快く貸してくれました。私たちは、「もし見つかったら、あなたの物だと言わないから、あなたも絶対に名乗らないでください。」とメモ書きし、授業の時に渡しましたが、「あなたたちの不利にならないようにしてください。私は場合によっては見つかってもよいと思っています。」という返事がきたのです。彼の勇気ある行動に私たちは心打たれました。
彼はチベットのために何かできることはないかと考え、危険を覚悟で私たちを応援し、手助けしてくれたのです。
レコーダーに歌を吹き込んだのは、私たち6人のグループ、ガワン・サンドルと同じ監房のグループ、そしてもう一つの監房の3つのグループでした。レコーダーはもう一台手に入り、2つのレコーダーに、グループごとに別々に吹き込んでいったのです。
私たちはラサの仲間を応援することが一番の目的でしたが、ガワン・サンドルたちはどのような目的であったのかは分かりません。歌の内容は似ていますが、特に話し合ったりはせず、暗黙の了解で私たちはレコーダーを回していたように思います。
私たちは、看守が寝静まった夜中にレコーダーを囲み、声を殺して歌いました。しかし、隣の監房の中国人女性が密告した為、2回目には看守に見つかり、テープを没収されてしまったのです。一本のテープに希望を託していたので、私たちは失望し、落ち込みました。
数年後、亡命してから外国の方に「これは貴女方が歌った曲ですね。」と、言われてCDを手渡された時は、声も出ないほど驚きました。ガワン・サンドルたちが吹き込んだテープが、奇跡的に監獄から外に持ち出されていたのです。まさか、ダプチ刑務所から遠く離れた場所で、私たちの歌のことを知っている人がいるなんて!そして、私たちにこんなに関心を抱いてくれているなんて!嬉しさのあまり、信じられないような思いでした。
数か月して、歌を吹き込んだ14人全員が監獄内のホール(集会所)へ集められました。そこには看守と一緒に裁判所の判事がいました。私たちは壁に一列に並ばされ、監獄内でプロパガンダに繋がるような歌を吹き込んだという罪で、一人ずつ順番に刑期を言い渡されたのです。延刑は、9年が一人、8年が三人、6年が二人、残りは5年で、私は5年の刑期延長でした。
5月1日の監獄デモ
1989年のメーデーに、監獄の中央広場で式典が催されました。職員全員に加え、一般刑囚人500人と、入獄して間もない政治犯も動員されましたが、私たち古株の政治犯は呼ばれませんでした。新人の政治犯を参加させるのは、早いうちから「社会主義賞賛」を歌わせ命令に服従させようとする意図からでしょう。私たちは監房の窓から、中華人民共和国の国旗の前で、群衆が中国共産主義をたたえる様子を見ていました。すると突然、一般刑囚人の若者が拳を振り上げる姿が見えました。彼は叫びました。
「プ・ランツエン(チベット独立)! ダライ・ラマ猊下万歳! 中国人はチベットから出て行け!」
そして、次々に囚人たちがこのスローガンを叫び始め、その群集の怒号はダプチ刑務所にこだましました。チベット人たちはどこから持ち出したのか、国旗を振りかざして熱狂し、囚人と看守は乱闘になりました。中央広場はまるで、ラサでの暴動のときのような戦場と化したのです。窓に釘付けになっていた私たちも、彼らに届くよう監房の中から大声で叫びました。
「プ・ランツエン!プ・ランツエン!」
慌てた兵士は群衆に発砲し、囚人の身体を部屋へ引きずるようにして連れて行き、次々に放り込んでいきました。そうやって、群衆の怒号は無理やり鎮圧されました。この記念すべき監獄デモは、入獄してから次第に政治犯に共鳴していった一般刑の囚人たちが、監視の厳しい不自由な私たちに代わって先導したのです。
このデモの際、刑期を延ばされたのは30人で、私は免除されました。尋問への答え方のちょっとした差によって二分するらしいのです。私は、なぜ叫んだのかという質問に対し、「広場に中国の国旗が掲げられるのが嫌だったから。」と、答えました。ガワン・サンドルは「独立のため!すべて組織したのは私です!私が指導者です!」と答えたそうです。そして、ひどいリンチに合い、6ヵ月独房へ入れられたと聞いています。
ダライ・ラマ法王の御言葉
出所してから4年間ラサにいましたが、委員会や公安に監視され、仕事にも就けず、それは窮屈な日々でした。私は最低限の自由を得るために、ラサで知り合った同じ立場の尼僧と一緒に、ダラムサラへ逃げることを決めました。一生に一度だけでも、ダライ・ラマ法王にお会いしたいという思いもありました。
そして、ダラムサラに到着して間もなく、他の亡命者たちと共に法王に面謁できる機会が巡ってきました。私は、法王のお声を聴きながら、ここに辿り着くことができた幸運を噛みしめました。
私たち政治犯に向けて、法王はこのような御言葉をかけてくださいました。
「自分たちの為でなく、他のチベット人の為に立ち上がったあなた方の勇気ある行動に敬意を表します。
けれども、あなた方はもっと勉強しなければなりません。心だけあっても仕事に就けず、生きるのに苦労します。まだ若いのだからたくさん勉強しなさい。チベット語もチベットの歴史も大切ですが、中国語も忘れないで勉強しなさい。
監獄という環境の悪い所に長くいたのだから、今後も身体には十分気をつけて、何か悪いところがあったらすぐに病院に行きなさい。何があっても気持ちを明るく!いつか必ず、自由になる日が訪れますから。」
私は今、法王の御言葉通り、日々勉強に励んでいます。チベットがいつか必ず自由になるよう祈りながら、今は将来のために無心で勉強したいと考えています。尼僧院を追放されているのでもう正式な尼ではないけれど、私の中で仏教の規律はずっと守られているので、心は尼のままなのです。
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以下T女史の感想。
たった数分間叫んだだけだというのに・・自由を求めるために発した言葉、単なるその言葉がそれほど危険だというのか。幼さの残る10代の彼女たちを捕え、もう二度と立ち上がれないほどに傷つけ、自由を奪うことに躍起になる中国共産党は、病に侵されているとしか思えない。そんなことで彼女たちの信念が揺らぐはずはなく、かえってチベットと同胞への思いが高まるだけだというのに。
話しはじめたチュキラは、過去の辛い体験にもかかわらず、はっきりとした口調で淀みなく語り続けた。その眼は、口元は、ガワン・サンドルさながらの不屈の女のそれだった。
同世代の女性として、彼女たちのひた向きさ、意志の強さ、そして聡明さが眩しく思えた。
もし私がチベット人女性だったら、チベットで生まれ育っていたら、尼になっていたら、デモに参加していたら、逮捕され投獄され、激しい拷問を受けていたら・・・
そんな風に、今までにないくらい自分に引き寄せて想像してしまい、眩暈がした。その苛酷な状況に耐えうる精神力のない今の自分には、想像しただけでもクラクラし、気が遠のいていく。
「心だけでは駄目だ、勉強しなさい。」そういうダライ・ラマの心情もわかる気がした。
彼女たちは強すぎるが故に、そのままいったらいつかは身を滅ぼしてしまうだろう。自己犠牲だけじゃなく、勉強し、中国と世界に有効的に対抗する術を持つことも必要なのだろう。彼女たちの強固な意志は、うまく舵を取れば必ず未来を切り開く力となるはずだ。祈ることと、知恵をもってうまく行動すること。この二つの歯車が絶妙にかみ合った時に、本当の意味での大きな力となるのかもしれない。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)