チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年4月29日
チベットの歴史上始めて女性のゲシェ=ゲシェマ誕生
39歳になるドイツ人女性ケルサン・ワンモ(本名Brummen Baum)は27日、チベット亡命政府の宗教大臣、議会議長等が出席する学位授与セレモニーにおいて、他の9人の僧侶とともに、これも歴史上始めて制定されたリメ・ゲシェ(超宗派博士号)の称号を与えられるという栄誉を得た。
ゲシェの称号は、ゲルク派の3大僧院であるデブン、セラ、ガンデンで顕教学を学び、これを最高の成績で終了した者だけに与えられるものだ。今もこの条件が変わった訳ではない。だから、ゲルクのゲシェは今も男性僧侶だけ。もっとも、このところ、ダライ・ラマ法王は機会あるごとに「そろそろゲシェマが誕生してもいい頃じゃないか?」とおっしゃっていた。亡命後尼僧院でもリクラムと呼ばれる仏教哲学をツバとよばれる討論形式を取り入れて学ぶ事を推奨されたのも法王である。
今回はダラムサラにあるツェンニ・ダツァン(仏教論理大学、IBD)がイニシャティブを取りチベットの歴史上始めてのリメ・ゲシェという称号制度をはじめたのだ。ツェンニ・ダツァンは基本的にはゲルク派ではあるが、他の宗派の人も外人も俗人も学ぶことができるリメの僧院である。一般の顕教学を終了した後4大宗派の僧院に出向きそれぞれの宗派に特徴的な哲学も学ぶ。
私もここでこのケルサン・ワンモと同期入学し、6年半程学んだ。クラスには他宗派のリンポチェなどもいた。外人も僧俗合わせ10人ほど最初はいた。もっともこの厳しい学問階梯を最後まで終了した外人は彼女しかいない。彼女は最初から優等生であった。態度も素晴らしく輝いていた。
受賞の次の日、ちょうどダラムサラに来られていた某通信者の人を誘い彼女の部屋に押し掛け、インタビューした。
質問:どういう経緯でチベット仏教にはまったのか?
ワンモ:21歳の頃、大学在学中にアジアに興味を持ち旅に出た。東京の駒込に住んでいたことがある。半年ほど日本語を勉強した。その後ドイツに帰る途中インドに寄り、ダラムサラに来た。法王のティーチングを聞き、仏教にとても興味を覚えた。絶対勉強しようと思い、最初英語を習い、次に巡り会ったゲン・ギャンツォ師にチベット語を習いたいと言った。先生は「チベット語は教えられないが、討論を教えよう」と言い、討論の手引きを受けた。それがとても面白くて先生が教えるツェンニ・ダツァンに入学した。
質問:なぜ尼になったのか?
ワンモ:一日中勉強したかったから。尼になり、頭を剃ればもう髪のために時間と金を掛けなくていい。服もこの(尼)僧衣一つ。服のために時間と金を掛けなくていい。結婚しなくて、子どももいなければそれだけ勉強に集中できる。つまり、戒律があって窮屈な面もあるかもしれないが、それよりももっと沢山の自由と時間を得ることができるのよ。
質問:家族、お父さんやお母さんは尼僧になることに反対しなかったか?
ワンモ:最初は母親などひどく驚いて反対した。チベット仏教をカルトかなんかと思っていて、娘が変な宗教に被れてしまったと思ったらしい。僧侶・尼僧になるとき家族から祝福される事は大事なことと言われる。だから半年待った。半年待って、家族は納得した。
質問:女性でしかも外人であるあなたがチベットの僧侶たちに混じって勉強することに困難を感じたことはないか?
ワンモ:クラスには最初のころもう1人女性(日本のA.T.さん)が居たが、彼女が途中で止めてからは1人だけだった。でもみんな優しくしてくれたので楽しく勉強できた。それよりも最初のころはチベット人との考え方の差に悩んだことがある。
質問:1日にどれほど勉強するのか?
ワンモ:1日に2回2時間ずつの討論がある。論書も沢山覚えないと行けない。
1日中勉強してる。さあ、10~12時間か? それを16年続けた。
質問:ゲシェ位には4段階あるが、今回のはラランパ(最高位)なのか?
ワンモ:リメ・ゲシェには今の所そのような呼び方はない。ただ、ダライ・ラマ事務所(宮内庁)から頂いた英語の証書には「PHD」と書かれていた。これはラランパにしか付けられないものだ。また、試験はラランパと同じ50段階の試験全てに合格しないと貰えない。
質問:あなたはチベットで始めてのゲシェマとなったが、他にもこれからチベット人のゲシェマとか生まれそうか?
ワンモ:今、沢山の尼僧院でゲシェマを目指す教育が行われている。これからチベット人でもなる人が出ると思う。
質問:ゲシェになるまで勉強して、自分が変わったと思うか?
ワンモ:怒ることが少なくなったと思う。物事に動じにくくなったと思う。少しだけだけどね。
私:それは良かったね。
質問:これからどうするのか?ドイツには帰らないのか?
ワンモ:先生をやる。密教を勉強しリトリートもしたい。まだまだここにいて勉強したい。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)