チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年4月16日
青海草原に消えた亡霊 その2/証言インタビュー(ビデオ)その2
アムド、ンガバではキルティ僧院を中心に緊張が増している。ダライ・ラマ法王もこの事態を重く見られ、昨日声明を発表されている。http://p.tl/D35O
この中で法王は地元の僧侶や住民たちに向け、当局の更なる弾圧の口実となるような行動を慎むようにと諭され、国際社会に対しては、中国指導部へ慎重な対応を促すよう要請されている。最後に中国指導部へのアドバイスが述べられている。この部分を訳すと以下:
「過去60年間、チベットの問題を扱うための主要な手段として力を使ってきたことは、結局チベットの人々の不満と反抗心を深めただけだった。だから、私は中国の指導部に対し、現実的アプローチを採用し、勇気と智慧をもってチベットの人々の不平・不満に耳を傾け、力でこの事態を押さえる事を控えるよう要請する」
このンガバ地域は、以下の資料にある玉樹(ジェクンド)やゴロクと並び、1958年からの中国軍侵攻により人口の約半数が命を失うというジェノサイドが行われた地域でもある。
昨日の続きと、この地域の老人へのインタビューを載せる。
「青海草原に消えた亡霊」原文:http://p.tl/vE1h
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん
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【玉樹州(ジェクンド・チベット族自治州)のチベット人人口】
判断を下すにはほかのデータと比べるしかない。馮浩華のデータによれば、玉樹州の1953年のチベット人人口は12万6400人だ(『青海人口』160ページ)。『中国人口青海分冊』と2005年出版の『玉樹州志』(26ページ)の数字はともに12万6383人。出所は同じようで、この数字と馮浩華の数字は基本的に一致している。
『中国人口 青海分冊』によると、1964年に玉樹州の人口は10万2012人で、1953年に比べて2万4371人減っていて、23.89%のマイナスとなっている。平均で毎年1.97%のマイナスだ(199ページ)。人口減少には必ず災難がある。1953年から1964年にかけ、玉樹州では人口に影響する重大事件が二つ起きている。一つ目は戦争(中国の侵略に対する抵抗運動)で、二つ目は凶作だ。この二つの大事件はともに1958年以降に起きた。1953~1958年には天災も人災もまったく起きておらず、人口が自然増加しないことはあり得ない。1953~1964年の人口変化をはっきりさせるためには、1957、1958年の人口データを見つけ出さなければならない。
『玉樹州志』は比較的詳しい1956~1996年の各民族の人口統計表がある(107、108ページ)。しかし、1958年が欠けている。この資料に基づき、仮に1958年のチベット人人口を1957年と同じ【15万9419人】だとすると、1958年に戦争が勃発し、1年後にチベット人人口が6209人減ったことが分かる。1961年になると、玉樹州の人口総数は9万3095人になっている。これには駐屯中の数千人の軍人が含まれているから、1961年のチベット人人口は9万人以下と言える。【1958~1961年の4年間の戦争により、玉樹州のチベット人人口は少なくとも6万9419人減ったことが分かる。これは1953年の人口の半数を上回る数だ。】1964年になると、チベット人人口は上昇に転じるが、1957~1964年の統計を見ると、依然として38.7%に当たる5万4850人が減っている。これは1958年の玉樹州の人口の3分の1を上回る人数だ。
【1953~1964年の果洛州(ゴロク・チベット族自治州)人口データ】
『果洛州志』の158、159ページによると、1953年の州の総人口は5万4662人だ。171ページでは、1964年の人口を5万875人としている。このデータによれば、1953年から1964年にかけ、果洛州では人口が3787人減っている。
しかし、『青海人口』の数字では、1953年の果洛州の人口は【10万300人】で、1964年は【5万6100人】となっている。『果洛州志』のデータと比べると、1964年の数字はほぼ同じだが、1953年の人口は「腰斬」(腰を切る古代の刑罰)されており、馮浩華の数字の半分ほどだ。
『中国人口 青海分冊』は1953年の果洛州の人口を10万343人と書いている。これは1952年の「果洛工作団」「果洛騎兵支隊」(「解放」のために共産党が派遣した組織)の計715人を含む数字だ。715人を除くと、1953年の果洛州の人口は9万9628人になる。この数字に基づくと、1964年の人口は1953年より【4万8753人】、すなわち48.9%減っている。玉樹州と同様に、果洛州では半分近いチベット人が数年のうちに消えたと言える。
『果洛州志』には人口に関係するデータがもう一つある。階級成分ごとに分けた1961年の数字だ。
「反封建闘争の一環として、全州で階級成分分類工作を展開した。1961年6月に牧場主は712戸2348人で、総人口の4.43%を占める。裕福な遊民は855戸3420人で、総人口の5.32%。中間層と貧困層の遊牧民は1268戸5万7965人で、総人口の90.24%を占める」(266、267ページ)
「階級成分分類」は果洛州の遊牧民に行われ、軍隊や移民とは関係がなかった。その上、各家庭レベルにまで実施されたため、かなり役立つ統計になっている。このデータによれば、1961年のチベット人人口は6万4233人で、『果洛州志』の1961年の数字より1万人以上多い。
『青海人口』では、果洛州のチベット人人口は1953年の9万9628人から6万4233人へと減っている。数年間の自然増加分を考慮しないとしても、「反乱鎮圧」のピークだった1958~1961年の間に、少なくとも35.53%に当たる【3万5395人】が減っている。これは1953年の人口の3分の1以上だ。
1961年から1964年に至る3年間で、果洛州の人口は5万875人まで減り続け、更に1万3358人減った。直接計算しても2段階で計算しても、得られるデータは同じだ――1964年の果洛州は1953年に比べ、最低でも【4万8753人】少なくなっている。『果洛州志』のデータが示す3787人の減少ではない。
以上の比較分析に基づいて確認できるのは、「反乱鎮圧」と大凶作は青海省の果洛、玉樹両自治州のチベット人人口を少なくとも【11万8172人】「減少」させたということだ。
続く。
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ジャムツァン・カルキャブ(ゴロク住民)の証言
youtube 「Unveiling The Truth」4/5 06:55より
http://www.youtube.com/watch?v=p3vGoUBWjV8&p=9B5D5117D4C40B17
R.S.(リンチェン・サンポ):ジャムサン・カルキャブさん、あなたは裕福な家の出と聞いていますが?
中国共産党の下でどういう苦しみを味わったか話して下さい。
外の世界にあなたの話が必ず伝わるようにします。
カルキャップ:私は侵略前と後の社会を両方見てきた者です。
侵略前は豊で、完全に自由な社会に暮らし、訪ねたい所へはどこへでも行くことができました。
18か19歳のころラサに行き、ダライ・ラマ法王に謁見したこともありました。
故郷に帰って来た時、中国軍が現れました。
中国政府は私の全財産を没収しました。
財産を蓄え過ぎで、私にはそんな価値が無い,と言うのです.
殺人を犯したり、金を盗んだわけではないのに、終身刑を下され、中国の刑務所に投獄されました。
そこで人生の6~7年を過ごしました。
中国軍は食べるものも、着るものも、金もまったく与えません。
私には食べるものも、着るものも全くありませんでした。
1958年にはたくさんのチベット人が饑餓と飢饉で死にました。
死体は巨大な穴に投げ込まれました。
私の親戚や友人も殺されたり逮捕されたりしました。
逮捕された人と死ぬ前に会う事も、もうすでに死んでしまった人に会う事ももちろんできません。
刑務所から釈放された時、頼って行く所も住む所もありませんでした。
両親と妻はすでに餓死していました。
さらに、私はかつてディ(メスヤク)を飼っていて、裕福な家系に属していたため、”悪人”を示す”帽子”をかぶらされました。
それから行動の自由を含め、全ての権利を剥奪されました。
最近は、いつの日にかダライ・ラマ法王がご帰還され、チベットにも幸せな時代が訪れる、という希望を持ちながら生き長らえています。
youtube「Unveiling The Truth」5/9 初めから。
今、私は85歳です。いつかはダライ・ラマ法王に会う機会があるという希望を持ち続けながら、できるだけ功徳を行い悪徳を避けることを心がけています。
近い将来、この雪の国にも幸せの光が射すであろうと私はあくまで楽天的です。
チベットの年長世代の人たちは偽善的な中国政府の性質を確実に知っていますが、若い世代の中にはまだこのことを知らない人もいます。
中国政府は今回のオリンピックを利用して、チベット内部のチベット人は幸せだという嘘を世界の人々に宣伝しています。
世界の人々を騙そうとしているのです。
ここにいる私たちチベット人にはそんな幸福は全くないのです。行動の自由さえありません。
今日の私たちの微かな幸福は、ダライ・ラマ法王の親切心に依るものだけです。
R.S.:あなたは中国軍による侵略に対する反対運動に参加しましたか?
カルキャップ: はい。1958年に中国軍と戦いました。そのせいもあって”悪人”のレッテルがはられ、逮捕され、投獄されました。終身刑を受け、獄につながれました。
その後1963年に釈放されました。両親、妻、近い親戚は皆飢え死にした後でした。
家族も所有物も何も残されていなかった。
殺された人や餓死した人の死体はディチュ川(長江上流)に投げ込まれ、その数はあまりにも多く、川が塞き止められるほどでした。
餓死した人の死体は巨大な穴に投げ入れられもしました。
同様に事実なのは、チベット人が家族や友人が埋められた墓地の上で踊らされられたという事です。
私たちはこれ程までに苦められました。
今もチベット人は、ぎりぎりのレベルで生活していて、行動の自由はありません。嘘ではありません。
今は食べるものと服はあります。32~33歳のころの話です。40年間苦しんだ。
今、85歳です。今、食べ物はあります。多くの苦しみを味わいました。行動の自由はまだありませんが、、、
最後の希望が一つだけあります。内外のチベット人が再び一つとなり、ダライ・ラマ法王がチベットにお帰りになることです。
このための我々の努力に、世界の国々の援助を求めたいと思います。
私はもう85歳ですが、今でもこの夢が叶う事を楽しみにしています。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)