チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2015年7月27日

映画『ルンタ』補足編:監獄24年、ロプサン・ノルブお爺さんの証言・前編

Pocket

11060262_1077431632286892_8838020435283531995_nロプサン・ノルブの証言

真っ白い豊かなあご髭で有名な、やさしいロプサン・ノルブお爺さんは、80歳。セラ僧院の僧侶だったが、1959年中国がラサに侵攻したとき、銃を持ち戦った。激しい戦闘の中で負傷し、捕まった。そして、その後24年間監獄に入れられていた。1988年、再逮捕を逃れるためインドに亡命。現在ダラムサラの小さな部屋で1人暮らしをしている。足が悪くいつも杖をついている。ノルブお爺さんとは古い知り合いであり、昔の話はすでに何度も聞いていたが、今回映画製作のために、再びお話を聞かせてもらうこととなった。このインタビューは2014年3月15日、彼の部屋で行われた。

僧衣を脱ぎ捨て、中国と戦う。

ーノルブさん、まず最初にざっとこれまでのあなたの人生について教えて下さい。

ノルブ:私はニャガという場所で生まれました。7歳の時、ラサのセラ僧院の僧侶となり、25歳まで僧侶でした。名前はロプサン・ノルブ、今ちょうど80歳です。その頃のチベットは今中国が宣伝しているような状態ではありませんでした。食べ物も飲み物もろくになかったと中国は言っていますよね。そんなことはありません。昔は本当にみんな幸せでしたよ。チベットは自給自足できていました。穀物も、肉も、野菜も、必要なものは自給できていて、他の国から輸入する必要はありませんでした。中国が来る前、食糧はたくさんあったのです。家畜もたくさんいました。ヤクや羊などがたくさんいましたから、遊牧民も幸せでしたよ。農民も食べていくには十分な畑がありました。一方中国は、旧社会では食べ物も飲み物も不十分だったと言ってますよね。映画でもやってますよね。おじいさんなんかが出てきて…おじいさんが何を言うかというと、旧社会では食べ物も飲み物もなくて、などと言うわけですが、彼らは生き延びているじゃないですか。もし食べるものもなかったら死んでしまいますよ。だからそんなことないんです。中国の話は全て嘘ですよ。だから1959年に、チベットは生産力もあり、肥沃で、土地は広大、人口は少ないというわけで、だからこそ中国はチベットを侵略したんです。チベットは中国の支配下ではなかったのです。中国に侵略されたのです。チベットでは人口が少なく、土地が広大で、肥沃なので、何を植えても育つのです。さらに穀物を10年、15年貯蔵しておいても腐らないのです。インドでは穀物を1年ほっておけば虫が湧きますが、チベットでは虫はわかないのです。チベットでは穀物がどこでもたくさん備蓄されていました。10年とか15年昔から備蓄されていた穀物もありました。10年、15年経ったものでも食べられるのです。中国の言うような状況ではなかったのです。

ー中国が来た後、どうなったのですか?

ノルブ:中国が何をしたかというと、チベットはいいところで、肥沃ですし、穀物もありますし、何千年も蓄積してきた財宝がありますよね。それを奪いに来たわけですよ。奪いにね。中国が。彼らは銃や大砲などをみんな持ってきているのに、我々チベット人は仏教を信じてずっとやってきてますから、よその国をどうこうしようとか侵略しようなどと思いもしないので、武器も少ないわけです。戦い方も知らなかったのです。中国は飛行機を飛ばし、大砲を撃ってきたのです。それで、1959年、僧衣を脱ぎ銃を持って戦ったのです。25歳でした。

ーどこで戦ったのですか?

ノルブ:最初、ポタラ宮に行ったのです。

ーナムギェル僧院とセラ僧院の僧侶が銃を持ち出し、そこを狙われて激しい砲撃を受けたのですね。

ノルブ:そうです、その時私もいました。その時僧侶だけで三千人いました。三千から四千人いました。セラ僧院の僧侶は戦うためにポタラに駆けつけたのです。ナムギェル僧院の僧侶たちはもともとポタラ宮いたわけです。セラには武器がまったくなかったのです。ポタラには銃や銃弾がたくさん隠してありました。まず、それを出しに行ったのです。銃がなけれは戦えませんから。三千人の僧侶全員が銃と銃弾を手に入れることができたのです。それで撃ちました。でも、最後は中国軍がノルブリンカを大砲で集中砲火して、それで負けたのです。こちらには大砲がありませんから。中国軍の大砲で何千人ものチベット人が殺されたのです。ノルブリンカ周辺は人や馬の死体で足の踏み場もないほどになりました。僧院も砲撃したのです。ギュト僧院の屋根は大砲で吹っ飛ばされ、大勢の僧侶が亡くなりました。

ーそれで中国に捕まったのですか?

ノルブ:その時は捕まりませんでした。その後、南のロカで戦ったとき負傷し、動けなくなって捕まったのです。

ーロカというと、チュシガントゥク(ゲリラ組織)と一緒だったのですか?

ノルブ:そうです、チュシガントゥクに合流して戦いました。小隊に分けられていたのですが、我々の隊は28人で、銃も28丁ありました。ヤルツァンポ川にかかるチュシュ大橋の上で銃撃戦になりました。橋の上でたくさんの仲間が死にました。中国軍は大砲を撃ってきました。それでやられたのです。28人のうち、結局、生き残ったのはたった3人です。私も腰に銃弾を受け、動けなくなり、捕まってしまったのです。その後、軍の病院に運ばれました。そこで銃弾などを取り出す手術を受けたのですが、手術はひどいものでした。その後30年近く、傷は完全には治らず、痛みが続いていました。1988年にインドに亡命し、診察を受けたあと、もう一度手術を受けました。最初の手術では砲弾のかけら等が完全には摘出されていなかったようでした。この時の費用は亡命政府がすべて払ってくれました。

ーいつ監獄に送られたのですか?

ノルブ:手術が終わるとすぐに逮捕されました。監獄で最初に「チベットは中国の支配下にあると言え。中国の支配下であることを認めれば釈放してやる」と言われました。「チベットは中国の支配など受けたことはない。チベットは昔から独立国だった。チベットに中国人はいなかった」と答えたのです。かつてアンバンという中国の大使のような中国人がいたのですが、とっくに追い出されていたのです。チベットに中国の役人はいなかったのです。チベットには独自の通貨がありました。軍隊もあるし、軍旗もありました。そべて独自のものを持っていたのです。みんな中国の貨幣を使わず、チベットの貨幣を使っていました。

ー何年の刑を受けたのですか?

ノルブ:最初は7年の刑でした。でも、7年経っても「チベットは中国領」ということを認めなかったということで延ばされました。

ー7年で延ばされたというと、文革中に監獄だったのですか?

ノルブ:そうです。文革の時もその後も監獄にいました。監獄というところはひどいところです。12時間の強制労働が課されるのです。12時間働かされるのです。食事は無いに等しい状態でした。ろくに食わされてないのに働かされ、何千人も死んだのです。みんな死んでしまいました。囚人はほどんど死にましたよ。何千、何万という人が死んだのです。コンボの監獄に入れられ、たった1人だけ生き残ったという人からコンボ監獄の話を聞いたことがあります。ラサの監獄で同室になったことがあります。その人は今も生きていてセラ僧院にいます。彼の話によれば、囚人がたくさん死ぬと、ずらーと並べるそうです。あまりに数が多い時には材木を積み上げるみたいに、チベットの正月に大きなカプセ(チベット揚げ菓子)を積み重ねたり、書類を積み重ねたりするみたいに死体を積み上げ、上から灯油をかけて火をつけるそうです。埋めたりなんかしないのです。結局1人しか生き残らず、その監獄は一旦閉鎖されたそうです。彼はその後インドに逃げることができて、今も南インドのセラ僧院にいます。

ーいつまで入れられていたのですか?

ノルブ:1982年までです。24年間を監獄で過ごしました。最初7年の刑が終わった時、「お前は釈放しない」と言われたのです。「お前は頑固で、本当のことを言わない。他人を非難しないし、自分の罪も認めない。チベットが中国領だということを認めない。これさえ認めればすぐに解放しよう。認めないならずっと監獄にいることになる」と言われたのです。私は認めませんでした。そのころ大勢の囚人が拷問死しました。私もひどい拷問をうけました。囚人はみんなダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマを非難することを強要されたのです。私はダライ・ラマ法王を非難などできませんでした。非難した人はみな釈放されました。ダライ・ラマ法王は反逆者だとか、分離主義者だと認めた者は釈放されたのです。私はそんなことは口が裂けても言えませんでした。法王は我々の根本のラマであり、チベット全体のラマです。チベット全体をまとめることができるのはあの方です。法王を糾弾することなど決してできません。それから8年、9年、10年、、、23年、24年と続き、17年間刑が延長されたのです。

ー文革が終わった時、多くの人が解放されたと聞きましたが。

ノルブ:そうですね。1977年に鄧小平から59年と60年に逮捕された囚人は全員解放せよという命令が来たのです。その時解放された者には家までの旅費も支給されました。遠くへ帰らなければならない人も多かったからです。でも、私は釈放されなかったのです。「お前は自分の罪を認めない。ダライ・ラマ等他人の罪も糾弾しない。チベットが中国領であることも認めない。だから釈放されないのだ」と再び言われたのです。私だけが残されたのです。それからさらに82年まで入れられてました。82年になり、ついに奴らに言ったのです。「釈放しないなら俺を殺せ」、「俺の罪が何なのか教えてくれ」と言ったのです。そしたら解放されたのです。釈放の時の扱いは悪くなかったのです。家も支給されました。昔、ラサに家族の家があったのですが没収されていました。住むところも支給され、生活費までくれました。なぜなのかは分かりません。

ーその時まで何の罪で刑を受けているのか知らされていなかったのですか?

ノルブ:知っていましたが、認めていないということです。中国は私に3つの罪があるといっていました。まず、59年の戦闘の時、中国側の指揮官が1人死んだのですが、私が彼を殺したというのです。

ーそれは事実ですか?

ノルブ:事実かどうかは分かりません。戦闘の時にはチベット側も中国側もたくさんの人が死にました。中国側の主な指揮官もほとんど死んだのです。指揮官たちが死んで、一旦2、3時間停戦状態になったのです。彼らは遺体を集め、喪に服し、そのあと誓いを立てていたようでした。兵士たちはみな手を振り上げて気勢を上げていました。その後、戦闘が激化したのです。大砲をばんばん撃ってきました。その指揮官を私が撃って殺したことにされたのです。お前は射撃の名手だったからというのです。2つ目は、ポタラで戦った後のことですが、僧院の穀物倉庫を壊したということでした。私はもともとセラ僧院の穀物倉庫の管理を任されていました。中には僧侶が食べる穀物でツァンパを作るための大麦が一杯積まれていました。倉庫はこの部屋くらいの大きさのが4つ、5つあったのです。それを私は人々に開放したのです。燃やしたんじゃありません。人々に提供したのです。持って行っていいよと。中国が倉庫を封じてたのですが、私が鍵をすべて壊したのです。そして、穀物をみんなにあげたのです。みんなは馬やラバを連れて来て、昼夜それを運び出し、それぞれ家に運んだのです。中国が言うには、その穀物は軍馬の飼料用にするつもりだったそうで、それを私が盗んだというのです。3つ目は監獄内の抵抗運動組織の問題です。文革が始まったあと、監獄内でおそらく500人ほどのチベット人囚人が参加する抵抗組織が結成されたのです。有名なタナ・ジグメ・サンポさんも参加していました。監獄34年の彼はまだ生きてますよね。スイスにいらっしゃる。彼とか私はこの組織を作った中心人物として、監獄内の監獄と言える無窓独房に半年入れられました。そして、半年後に全員死刑と言うことになったのです。しかし、最後に公安局長が私とタナ・ジグメ・サンポを死刑から外したのです。私がその組織を認めなかったからという理由のようです。結局この時14人が処刑されました。文革に入ってからはすごい数のチベット人が処刑されました。1967年だと思いますが、チャムドでも15人、ナクチュのビルでも15人、ニョモでも15人、ラサで15人と合計60人が同日、同時刻に死刑執行されるということもありました。

ー釈放されてからはラサで暮らしていたのですね。その頃のラサの生活はどうでしたか?

ノルブ:ラサはまだましでしたが、田舎はひどい状態でした。食べるものも、着るものも非常に乏しい状態でした。1987年にデモが起きた原因の1つは貧困だったと私は思います。

ーデモに参加されたのですか?

ノルブ:1987年、88年とデモに参加し、それでインドに逃げることになったのです。87年の時には友人の尼僧たちがたくさん集まってくれました。私はデモにたくさんの尼僧たちを連れて行ったのです。車でです。尼僧も僧侶も、とにかく多くの人を動員しなければならなかったからです。中国は文革が終わりチベットは自由になったと宣伝していましたが、自由などは何もありませんでした。食べ物や着る物にも困っていました。子供たちは靴もなく裸足でした。だからデモしたのです。88年にもやりました。

ー逃げなくてはならなくなったのはなぜですか?

ノルブ:88年にラサで2人の外人記者のインタビューを受けたのです。1人はアメリカ人でゲンギャという名でした。もう1人はイギリス人女性でオニキリと言いました。彼女はインドから来ていました。アメリカから来たトゥプテンという人が通訳でした。2人とも秘密裏にラサに来ていたのです。彼らは許可証がないので、ホテルに泊まることができません。そこで、通訳のトゥプテンから彼らを私の家に泊めてほしいと頼まれたのです。了承し、家でインタビューを受けました。チベットの文革がどうであったかとか、チベットの状況、監獄でどのような扱いを受けたか等をすべて話しました。2人は仕事を終え帰りました。通訳のトゥプテンがアメリカに帰る前に私に言いました。「彼らの記事が出たら、あなたは逮捕される可能性が高い。記者や私は外人だから捕まっても刑を受けても、結局開放されるだろう。しかし、あなたは捕まったら死刑になるかも知れない。逃げるべきだ」と。それで、インド行きを決心したのです。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

ちべろぐ

Archives

  • 2018年3月 (3)
  • 2017年12月 (2)
  • 2017年11月 (1)
  • 2017年7月 (2)
  • 2017年5月 (4)
  • 2017年4月 (1)
  • 2017年3月 (1)
  • 2016年12月 (2)
  • 2016年7月 (1)
  • 2016年6月 (1)
  • 2016年5月 (9)
  • 2016年3月 (1)
  • 2015年11月 (1)
  • 2015年10月 (2)
  • 2015年9月 (4)
  • 2015年8月 (2)
  • 2015年7月 (14)
  • 2015年6月 (2)
  • 2015年5月 (4)
  • 2015年4月 (5)
  • 2015年3月 (5)
  • 2015年2月 (2)
  • 2015年1月 (2)
  • 2014年12月 (12)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (10)
  • 2014年9月 (10)
  • 2014年8月 (3)
  • 2014年7月 (9)
  • 2014年6月 (11)
  • 2014年5月 (7)
  • 2014年4月 (21)
  • 2014年3月 (21)
  • 2014年2月 (18)
  • 2014年1月 (18)
  • 2013年12月 (20)
  • 2013年11月 (18)
  • 2013年10月 (26)
  • 2013年9月 (20)
  • 2013年8月 (17)
  • 2013年7月 (29)
  • 2013年6月 (29)
  • 2013年5月 (29)
  • 2013年4月 (29)
  • 2013年3月 (33)
  • 2013年2月 (30)
  • 2013年1月 (28)
  • 2012年12月 (37)
  • 2012年11月 (48)
  • 2012年10月 (32)
  • 2012年9月 (30)
  • 2012年8月 (38)
  • 2012年7月 (26)
  • 2012年6月 (27)
  • 2012年5月 (18)
  • 2012年4月 (28)
  • 2012年3月 (40)
  • 2012年2月 (35)
  • 2012年1月 (34)
  • 2011年12月 (24)
  • 2011年11月 (34)
  • 2011年10月 (32)
  • 2011年9月 (30)
  • 2011年8月 (31)
  • 2011年7月 (22)
  • 2011年6月 (28)
  • 2011年5月 (30)
  • 2011年4月 (27)
  • 2011年3月 (31)
  • 2011年2月 (29)
  • 2011年1月 (27)
  • 2010年12月 (26)
  • 2010年11月 (22)
  • 2010年10月 (37)
  • 2010年9月 (21)
  • 2010年8月 (23)
  • 2010年7月 (27)
  • 2010年6月 (24)
  • 2010年5月 (44)
  • 2010年4月 (34)
  • 2010年3月 (25)
  • 2010年2月 (5)
  • 2010年1月 (20)
  • 2009年12月 (25)
  • 2009年11月 (23)
  • 2009年10月 (35)
  • 2009年9月 (32)
  • 2009年8月 (26)
  • 2009年7月 (26)
  • 2009年6月 (19)
  • 2009年5月 (54)
  • 2009年4月 (52)
  • 2009年3月 (42)
  • 2009年2月 (14)
  • 2009年1月 (26)
  • 2008年12月 (33)
  • 2008年11月 (31)
  • 2008年10月 (25)
  • 2008年9月 (24)
  • 2008年8月 (24)
  • 2008年7月 (36)
  • 2008年6月 (59)
  • 2008年5月 (77)
  • 2008年4月 (59)
  • 2008年3月 (12)