チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2015年7月25日

映画『ルンタ』補足編:元ラプラン僧院僧侶ジャミヤン・ジンバへのインタビュー、前編

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このビデオの中でBBC等の外国メディアの前で必死の訴えを行う僧ジャミヤン・ジンパ。映画の中で少しだけ紹介されている彼へのインタビューだが、そのすべてを前編・後編に分け紹介する。

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元ラプラン僧院僧侶ジャミヤン・ジンパへのインタビュー

アムド、ラプラン・タシキル僧院僧侶ジャミヤン・ジンパは2008年4月9日、BBC等の外国メディアが僧院に来たとき、隠された真実を知らせたいと危険を顧みずメディアの前に飛び出し、真実を訴えた。このときの映像はBBCでも放映され、隠されたチベットの真実に世界が注目した。訴えを行った僧侶たちは山に逃げたが、逃げなかった僧侶1人が逮捕され、激しい拷問を受け、数年後に死亡した。逃げた僧侶の内1人は重い病気になり、治療を受けることができず死亡した。山に逃げたジャミヤン・ジンパは苦しい逃避行の末、1年後にインドに亡命することができた。彼は今、グチュスンの学校で学んでいる。インタビューは2013年12月にルンタハウス内にある教室で始められ、その後彼の部屋で続けられた。

ーあなたは2008年にラプラン・タシキル僧院に外国メディアが来たとき、その前に出てチベットの真実を訴えましたね。勇気ある行動だと思います。その時のことをまず話して頂けますか?

ジャミヤン:2008年3月10日のラサ蜂起記念日に始まり、ラサをはじめチベット全域でチベット人が蜂起しました。そしてたくさんの人が殺されました。それを調査する目的で海外からBBC等のメディアがチベットに入ったのです。中国政府が平常なチベット見せるために手配した官製メディア・ツアーでした。
我々は彼らがいつ来るのかはっきり知りませんでした。いつ来るか分からないが来ることは事前に知っていました。

とにかく真実を訴えるために何かやろうと決心していたのです。中国はチベット人を痛めつけ、たくさんの人を殺したが、我々は決して屈しないということを見せたかったのです。チベットで彼らがいかにひどいことをしているかを、自分たちが海外に知らせようと思ったのです。中国により真実は隠され、歪められ、このままだとチベット民族は世界から見捨てられたまま衰退して行くだけだ、海外にいらっしゃるダライ・ラマ法王にご帰還頂き、囚われの身にあるパンチェン・ラマが解放されるためにも何かやらねばと思ったのです。平和的なやり方で訴えようと思い、まずはチベット国旗を縫いながら準備していたのです。

ついに2008年4月9日、彼らが来たのです。そのとき我々は本堂で法要に参加していました。外国メディアが来たことを知り、すぐに外に飛び出しました。急いで僧坊に帰り、準備していたチベットの旗を手に持ち、彼らの前に走り出たのです。「中国人はチベットでこんなことをしている。我々の土地でチベット人を大勢殺し、今たくさんのチベット人が捕われている。中国政府が海外に宣伝していることはみな嘘だ!」と叫んだのです。中国はそのころ「チベット人がオリンピックを利用してデモを行っているが、自分たちは弾圧などしていない」と主張していましたが、それは違うと訴えたのです。

そして、その後仲間の内2人が死ぬことになったのです。後から参加した内の1人は僧院から逃遅れ逮捕され、拷問され、ひどく拷問され、その結果亡くなったのです。もう1人は逃げた後、病気で亡くなりました。

ー最初にデモを先導したのは何人だったのですか?

ジャミヤン:最初に飛び出したのは4人です。私たち4人が飛び出したのを見て、後ろから30人ぐらいの僧侶が応援に出て来てくれました。その後、4人が山に逃げました。山で過ごすということは大変なことなのです。ずっと僧院の生活でしたから、建物の中で暮らしていたのが、急に外で隠れて暮らさないといけないのです。山は寒くて、病気になるが、医者に見せられず、またその時点ではもう軍が見張っているので僧院には帰れないのです。そんな状態で病気が慢性化して、山を下り医者に見せる機会もあったのですが、結局治らず、1人が亡くなったのです。1人は発見され10年の刑を受けました。4人の内、2人だけがインドに逃げることができたのです。僧院の仲間2人と一緒に国境を越え、2009年5月10日にダラムサラまで来ることができました。

ーもう一度、なぜあのような行動を思い立ったのかについて話して下さい。

ジャミヤン:チベット人は誰でも中国により心に傷を負わされているのです。中国は1950年代にチベットを侵略し、たくさんのチベット人を殺しました。我々の親の代がたくさん殺されました。今も中国は我々の言語を中国語に変えようとしており、大勢の中国人を送り込み、結局我々チベットの民族や文化を抹殺しようとする政策を続けています。これに抵抗するため、2008年にチベット中が蜂起し、大勢の人が殺され、逮捕され、その他様々な虐めがあり、心の痛みが一気に膨れ上がったのです。こうなると仏教の勉強にも集中できなくなりました。

チベットのために何かしなければという思いが高まり、デモをやろうと決心したのです。でもダライ・ラマ法王もおっしゃっていることだし、手段はあくまで非暴力でやろうと思いました。そこでまずは静かにチベットの国旗を作り始めたのです。これは大変でした。旗は縫わないといけませんが、布がなかなか手に入らなかったのです。3月のデモの後、街には厳戒態勢が敷かれ、学校も休み、店もみな閉めさせられていました。その内中国人たちがこんな風に店を閉めているのを外の人がみたら、驚かれるのでよくない、店は開けた方がいいと言い出して、店が開けられ始めたのです。それで、やっと布を買うことができました。昼は目立つということで、夜中1人で幾晩もかけて縫いました。

ー外国のメディアがラプランに来るだろうということはどうやって分かったのですか?
ジャミヤン:アメリカの放送局があるでしょう、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)という。それとRFA(ラジオ・フリー・アジア)があります。RFAはその中のアムド語放送しか聞き取れませんがアムド地方のチベット語です。

ーそれらから情報を得ているのですね。

ジャミヤン:そうです。アムド語放送をいつも聞いているのです。中国はそのようなラジオを聞けないよう手段を講じていて、僧院の中ではなかなか難しいのです。僧侶は厳しく監視されています。それでも、なんとか隠れてアルミの大きな円盤があるでしょう、あれを空に向けて、聞くのです。放送を聞くことで、海外のメディアが自分たちの僧院に来ることが分かったのです。でも、日程は分かっていなかった。とにかく我々は早く準備をしておかないとということになったのです。中国の言うことは嘘ばかりです。例えば、メディアが明日来るというときには「明後日来る」と言ったりします。中国のニュースも我々は誰も信じていません。いつ来てもいいように準備をしておこう、チャンスを逃さないようにしようと思ったのです。

ーなぜ、亡命しようと思ったのですか?

ジャミヤン:仲間が大勢逮捕されていました。私を含めた何人もが指名手配され、テレビで公開捜査ということまで行われていました。賞金がかけられていました。その内、我々の隠れていた遊牧民の土地に中国が軍を送り込んできて、1人が逮捕されました。彼は我々と一緒にデモをした僧侶ではなく、その前3月14日と15日の大きなデモに参加していたのです。このデモの時は当局の無差別発砲により10人以上が殺されています。彼はその後、20年の刑を受けました。

軍が近づいていることを知って、怖くなり、夜、夢を見ると、いつも中国軍に捕まってしまうという夢ばかりでした。隠れる建物もなく、寝る時も野外でただその辺に寝るという生活をずっと続けていたのです。狼などの野生動物が怖いというので穴を掘って寝ていたこともあります。小さなテントや廃墟で寝泊まりしていたこともあります。食べるものは遊牧民が助けてくれることも多かったのですが、とにかく辛かったのです。このままではいつか見つかり逮捕され、刑を受けることになる。それならば中国の外に逃げることを考えようということになったのです。道は2つしかなかったのです。インドに出ればダライ・ラマ法王にもお会いすることができて、勉強もすることができる。将来チベット人のために働くこともできると思ったのです。そのまま山で過ごしていても勉強はできないわけです。しかし、チャンスはなかなかやって来ず、1年近く山に隠るしかありませんでした。1年後に幸運な出会いがあり、亡命することができたのです。

この後、彼の次の授業が始まるというので一旦インタビューは中止され、続きが彼の部屋で行われた。最初に彼らがラプラン僧院でメディアの前に飛び出した時のビデオを見せた。

ーこの僧侶は何と叫んでいるのですか?中国語ですかね?

ジャミヤン:ええ、中国語で「権利がない」と叫んでいます。

ーこのチベット国旗を持っているのはあなたですね。

ジャミヤン:そうです。これが苦労して作ったチベット国旗です。

ーこのときあなたは何を訴えていたのですか?

ジャミヤン:放送に流されたこの部分では、僧院が監視され、仏教が弾圧されていることを訴えているのです。これは一部でして、前もって訴える文章を5、6ページ作り、それを暗唱していたのです。このときそれを叫んでいるのです。文章を書いた紙は飛び出す前に焼きました。

ー映像を見ると、みんな顔が非常に緊張しているように見えます。怖かったですか? 急いで訴えないといけないし、特別な感覚ではなかったでしょうか?

ジャミヤン:メディアが来たということを聞き、すぐに法要の席から立ち上がったのです。飛び出して、用意してあったチベット国旗などを部屋に取りに行ったのですが、その時、心の中にはものすごい恐怖心がありました。恐怖心がつのり、いろんな思いが心の中をよぎりました。この後、中国に逮捕され、何をされるだろう。裁判になるだろう。殺されるかも知れないと。そんなことが頭を過り、すごく怖くなっていたのです。

もちろん、デモをやろうと決心したときから、拷問や長い懲役刑、死さえも覚悟していたのです。自分に起こることは大したことではないと思っていたのです。でも、基本的に恐怖心というものはありますよね。拷問のことを考えると最悪です。拷問で死にそうになった時点で、家族に引き渡されたりするのです。そうなったら、家族に大変な苦労をかけることになります。自分では何もできず、他の人からは狂ってしまったとか言われるのです。それでも、このチャンスに思い切って行動することで、チベットの状況を少しでも変えることに役立つことができるのではないかと思っていたのです。

ーあなたたちは、逮捕され、拷問を受け、死ぬかも知れないということは考えていたと言われましたが、本当に死んでもいいと覚悟していたのですか?

ジャミヤン:そう言われると、どうでしょう、本当の覚悟はなかったでしょう。どうなるか分からないと思っていたのです。もしそうなっても、後悔せず、受け入れようという心の準備はできていたと思います。

ー拷問を受けてすぐに死ぬことができればまだましで、長期間拷問を受け、もう死んだ方がましだという状態になるまでやられるわけですよね。そうなってもいいと思ったのですか?

ジャミヤン:それも分かっていました。そうなったらなったです。そんなことばかり考えていては決心できません。今、チベットは緊急事態の中にあって、各地でチベット人が大勢殺されている。みんなが苦しみの中にある。僧院等が封鎖され兵糧攻めにされているという話も聞いていました。自分たちの僧院からも僧侶がたくさん連行されていました。でも、本当にそうなり、長期間拷問され続けたときに当初の決意を保ち続けることができるか? と問われると、分からないと言うしかないでしょう。人間の心は弱く、変化するものですから。でも、とにかくあの時は強い決意を持って実行したのです。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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