チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2015年7月23日

映画『ルンタ』補足編:ダムチュ・ドルマの証言、後半

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_DSC8830元政治犯、元尼僧ダムチュ・ドルマの証言。

昨日の続き。

氷責め

刑務所の中庭には夜中に水がまかれており、それが凍っています。早朝、その氷の上に靴を脱がされ素足で立たされるのです。2、3時間立たされるのです。その後行進しろと言われますが歩くなんてできません。歩こうとすると足が氷に張り付いているから血がでます。

氷の上に素足で何時間も立ち続けることなど誰にもできません。身体全体が冷えきり、まさに血も凍るという状態になり、みんな気を失って倒れます。するとすぐに監視人に蹴飛ばされます。立てと言うのです。ごつごつした堅い靴底で顔を踏みつけられます。必死に耐えました。みんな同じような目に遭うのです。おしっこに行かせてほしいと言うと、ズボンの中にしろと言われます。

兵士が担当する運動と呼ばれる時間が毎日あります。運動とは名ばかりで実際には拷問のようなものです。兵士は最初に「今日はどんなゲームをしようか?」と聞くのです。「今日は石だ」ということになると、重い石を持たされ、走らされたり、屈伸させられたりします。遅れたり、うまくできないときには、すぐに大きな金属のバックルが付いたベルトで激しく殴られます。手足の皮膚は切れぎれとなり、過度の運動の上に殴られ、夕方2段ベットの上の段に登る力もない人も多いのです。6年間毎日がそのようでした。

運動もちゃんと食べることができていれば少しは楽だったかもしれません。みんないつも腹を空かせていました。食事は少なく、不潔なものでした。朝は蒸しパン1つと1杯のお茶が配られます。それだけです。蒸しパンは本当に小さく、お茶もミルクやバターの入ってないものです。昼はご飯とおかずがでますが、おかずといってもスープのことが多く、ないこともあります。とにかく不潔でした。夜はないことも多いのです。時々蒸しパン1つか、うすいお粥が配られます。それだけです。だんだん慣れてきましたが、お腹はいつも空いていて、運動させられるのは辛かったのです。

囚人の家族が面会に来たときには、30元まで家族から受け取ってもいいことになっていました。仲間の誰かにお金が入ると、お腹が空いてるので、みんなで刑務所内にある売店に行って、即席麺の類いを買います。刑務所の外では1元なものを2元で売っているのです。

無窓独房、仲間の尼僧5人が拷問死

1998年5月1日*、この日はメーデーですが、囚人全員が広場に集められ、大きな式典が行われました。国旗掲揚が行われ中国国歌が歌われるはずな時、みんな歌わないのです。その時、突然1人のチベット人が「チベットに自由を!」と声を上げました。数十人そして数百人の主に政治犯が抗議の叫び声を上げました。私も叫びました。すぐに、監視員が発砲し、数人が撃たれて倒れました。

この抗議に参加したと見なされたものは全員独房に入れられ、本当にひどい拷問を受けました。その場で撃たれて死んだ人と拷問の末に死んだ人を合わせ10人以上死亡したことは確かです。

あまりにひどいので抗議の目的で2度ハンストをしました。ハンストと言っても、この辺のハンストとは違います。インドでのハンストは食事はしないが水は飲みます。私たちは5日間水も飲まなかったのです。5日間水も飲まないと、死にそうな人もでます。立ち上がることはできず、しゃべることもできず、ただ死体みたいに横たわっているだけになります。

刑務所側は死にそうになっている者を見つけると医者を呼んで、無理やり太い注射をします。薬か水が入っているのでしょう。刑務所内でハンストにより死者がでると責任問題になるのでしょう。私たちは死んでやると言います。「私たちはこんなにもひどい拷問を受けて来たのだから、もうあなたたちに何をされても死ぬまでだ。もう何人も死んでいる。あなたたちの言う通りにはならない」と言いました。するとひどく殴られます。衰弱している上に殴られ、ほとんどの人が瀕死の状態でした。

その後、6ヶ月間無窓独房に入れられました。真っ暗な独房です。普通無窓独房と言えば足を伸ばして寝る空間もないほど狭いものですが、私が入れられた独房は天井が高く、そんなに狭くはありませんでした。でも真っ暗闇です。ドアに小さな穴が開けてあり、そこから覗くことができるだけで、真っ暗です。食事は昼にご飯がほんの少しとおかずが少し、ミルクなしのお茶が1杯。1日それだけです。身体を洗う水などは全く与えられず、大小便用のブリキ缶が与えられ、トイレには行けません。もっともほとんど飲まず食わずなのでおしっこも出ません。

独房にただ入れられているだけではありません。拷問は続きます。激しい拷問の結果気を失い、5、6日間寝たきりだったこともあります。電気棒による拷問を続けて受けました。服を脱がされ、下着だけになって、靴も脱がされて、足の裏から電気を流されるのです。激しいショックを受けて1回で完全に失神してしまいます。全身の経絡は足の裏に集まってるといいますよね。本当かも知れません。足の裏だけでなく、体中至る所にショックが加えられます。

電気棒は4種類も5種類もありました。先が四角いもの、尖ってるものもあります。電気ショックの拷問だと、最初やられた場所が水ぶくれになるが、痕が残るということがないのです。失神してズボンの中に大小便をしても気づきもしません。失神すると水をかけられます。水がかかった状態で電気ショックを受けるとさらにひどいことになるのです。痛みがより強烈になるのです。そうして失神して、5、6日間意識が朦朧としていました。独房には敷物もありません。セメントの床にそのまま横になるのです。かなり後になって薄い敷物が配られました。

数日ごとに急に外に出され、「考えを変えたか? 過ちを認めるか? 国歌を歌うか?」と聞かれます。私の考えは変わらないので、一切従いません。すると拷問がまた始まります。

無窓独房に入れられて4ヶ月経ったころ、一度自治区の偉い役人だという人が刑務所に来たことがありました。その時、呼ばれて、どんな拷問をうけたのか、どんな食事を与えられているのか話すよう言われました。話をしようと思うのですが、言葉がうまく出てきませんでした。食事はほんの少ししか与えられていなかったし、衰弱し、やせ細り、病人のようでしゃべろうとしても言葉にならず、お腹の中からしゃべっているようで、あ、あ、あ、みたいになってしまいました。

声を出しなさいと言われましたが、声がでないのです。それでも、少しして、声がでるようになり、拷問と食事について訴えました。すると次の日から食事がほんの少しだけよくなりました。

このようにして5月1日のデモの後、人により4ヶ月、6ヶ月の人、1年の人、それ以上無窓独房に入れられ続けた人もいました。1998年は拷問が最悪の年でした。たくさんの仲間が拷問の末に亡くなりました。女性監房は2棟に別れていますが、私たちの側で5人の尼僧が亡くなりました。反対側の列でも2人が亡くなったと聞きましたが、この2人についてははっきり覚えていません。仲間が死ぬのはとても悲しいものです。

最後の頃は一切外に出されることがありませんでした。頭はすでに少しおかしくなっていたと思います。ある日突然外に出ろと言われ、どこに連れて行かれるのかと思いました。敷物とお椀を持って出ろと言うのです。立ち上がることもできず、這って外に出ました。前から知っている場所のはずなのに、最初広大な場所のように見えました。人の顔も見分けがつきません。以前居た舎房に連れて行かれましたが、かつての仲間が認識できないのです。彼らも私があまりに痩せて目も落窪んでいるので、怖がっているように見えました。まわりがすごく大きく見えて、まっすぐに歩くことができませんでした。

独房の闇の中で正気を保つために、一日中心の中でお経を唱えていました。根本のラマであるダライ・ラマ法王に祈願しました。そうすることで少し気持ちが楽になり、耐えることができたのだと思います。

いくら拷問されても、後悔したことは一度もありません。自分で決心したことですから。誰かに行けといわれて、誰かにチベットのために行かねばならないといわれ、行きたくもないのに行ったのなら、後悔するでしょう。でも、これは自分で決めたことでした。年老いた両親を置き去りにして、自分の国と民族のために、自分で決意したことです。両親は中国によりどれほど苦労させられたかをいつも話ていました。

尼僧院にいてもまともに勉強できませんでした。政府が思想教育の本を配り、勉強しろと言われます。尼僧院を再興していたのですが、仏塔などは禁止されました。私たちの根本のラマであるダライ・ラマ法王のお写真を掲げることも禁止されました。法要が禁止されることもあります。これほど自由がないのなら尼僧院にいても意味がない。決意して、もう死んでもいいと思い、何かの役てればいいと思い、決心したことでした。後悔はありませんでした。

釈放

解放される日が来るなんてことを考えたことはありません。刑期が終了し、初めて外に出た時、不思議な気分になりました。刑務所の中ではこのまま死ぬんだろうと思っていました。どれほどひとい拷問を受けても、何と言ったらいいのか、自分の中で、相手がどう思っていたかは分かりませんが、彼らと互角に戦えたと思っていたのです。彼らも大変なわけです。私たちを拷問したり、無窓独房に入れたりと、どんなに私たちを苦しめても何の効果もなかったわけですから。そう思うと少しいい気分になれました。

とにかく彼らに対抗できたと、互角に戦えたと、勇気がわいてくるような気持ちです。もしも、相手がこちらの話をよく聞いてくれ、優しく対応してくれたら、相手を悪く言いにくいことでしょう。でも、彼らは話も聞かずに殴ってくるのです。腹が立つのは当然です。こんな奴に謝ることなど何もないと闘争心が湧いてきます。

でも、本当に辛い思いもしました。本当に辛かったです。拷問された時、意識を失ってズボンの中におしっこを漏らしても気づかなかったこともあります。重い病気になり、病院に連れて行かれたが、食事も喉を通らず、おしっこも出ませんでした。

今も身体は病気持ちだし、インドにいるのも苦労があります。チベットには親兄弟がいるが、連絡をとることもできません。こちらから連絡すると向こうがひどい目に遭いますから。そういう苦労はあります。ここは外国だし、身体は弱いし、でもすべて自分の運命だと思っているのです。自分の人生で何を誇れるかといったら、刑務所で耐え抜いたことを誇れるかなと思っています。

亡命

2001年に釈放され、翌年父が亡くなりました。病気になって病院に行こうにも、診察費が高くてとても行くことができませんでした。家族は農業をやってるだけです、商売をしてる人はいません。病院に連れて行くことができず、そのまま亡くなってしまいました。とても悲しいことでした。

釈放された後も、つねに警官に跡をつけられ、監視されていました。単に僧院に参詣に行こうとしても止められるのです。自分の尼僧院にも行けません。両親は年だし、恐がります。それで、何とか家を出ようと、ラサに行き仕事を探しました。食堂で仕事が見つかりましたが、しばらくして警官が来て、食堂の主人に「この女は犯罪歴がある。犯罪歴のあるものを雇ったら店を閉めさせるぞ」と脅すのです。主人は申し訳なさそうに、辞めてくれといいました。

親戚も自分たちの家族に関わったら厄介なことになると警戒し、会いにも来ません。親戚と縁が切れ、かつての仲間にも会えないのです。辛かったのです。生活はしていかないといけないし、病院にも行かないといけないし。ラサに出てお金を貯めようと思いましたが、ラサでは部屋を借りるのにも苦労します。許可証がないと借りれないのです。親戚の家に1、2泊できても、彼らも私のことを恐がり、帰ってくれといいます。

結局どうにもならず、追いつめられました。インドに行くしかないと思ったのです。2004年のことです。家族は反対しませんでした。私のためにお金を借りて集めてくれました。特に兄は沢山のお金を用意してくれました。同じ頃仲間の尼僧2人も亡命しましたが、彼女たちはナンパラという高い峠を越えるシャルクンブの道でヒマラヤを越えました、私も一緒に行きたかったのですが、身体が弱すぎて耐えられそうにありませんでした。ラマに占いをしてもらうと、お金を払ってでも峠越えをせず、ダム経由で行った方が確実だというお告げでした。それでかなりの大金を用意して、アムドの商人について行ったのです。

それでも10日ほど山を歩きました。途中、シェルパの家にお金をかなり払って匿ってもらったりもしましたが、とにかく無事カトマンズの難民一時収容所に辿り着くことができました。

ダライ・ラマ法王に話かけられ

最初、一時収容所でダライ・ラマ法王がテレビに写っているのを見て、怖くて、怖くて。チベットでは法王がテレビに写るということはありえませんから、ひたすら怖かったのです。ダラムサラで謁見に行ったときは他に人が大勢いました。6~70人ぐらいいたと思います。みんな難民として来たばかりの人たちでした。

法王のお姿が最初目に入った時、涙があふれ、自分が自分でないみたいに感じました。法王はみんなの前でお話をして下さいました。その後、法王はみんなの名簿を見ながら、そこに「政治犯」とでも書かれていたのでしょうか、私の名前を声に出され、どこにいるのか、と聞かれました。私はすぐに立ち上がろうとしたのですが、立ち上がることができませんでした。

「刑務所に何年いたのか?」と聞かれたので「?年」と答えたようなのですが、よく覚えていないのです。「これからどうするのか?」と聞かれ、「学校に行くつもりです」と答えると、「まだ若いし、よく勉強しなさい。ちゃんと治療しなさい。身体を大切に」とおっしゃいました。「辛かったか? 中国のせいで辛い目にあったか?」とおっしゃって下さったのですが、私は半分気を失い何も答えることができませんでした。最後に列になって、1人ずつ会って下さいますが、その時も「かわいそうに、辛かったか?」とおっしゃったのですが、この時も何も言えず、お顔もよく拝見することができませんでした。

3人娘の食堂

法王との謁見が終わると、一時収容所に一緒にいた仲間たちはばらばらに学校や僧院に送られます。私のように勉強はしたいが、もう普通の学校に入るには遅過ぎる年齢のものたちはソガスクールという成人学校に送られます。再び尼僧になり尼僧院に入るということも可能でしたが、私はもっと普通の勉強がしたいと思ったのです。

学校に入りましたが、身体が弱く何度も遠い病院に行かなければならず、勉強について行くのは大変でした。1年半ほどたったころ、グチュスンという私のような元政治犯が作った会が学生を募集しているということを聞きました。その学校はルンタハウスというグチュスンの施設の中にありました。街の中にあり、病院も近く、同じ元政治犯ばかりが英語やコンピューター等を学ぶ住み込みの学校です。私は尼僧院のときからの仲間2人と一緒にその学校に移ることにしました。

1年のコースが終わり、宿舎も出て自分で生活しなければならなくなりました。英語やコンピューターを少しは習いましたが、それで仕事ができるようにはなりません。仕事は限られています。仲間3人で相談し、亡命政府保健省からお金を借り、少し離れたノルブリンカインスティチュートの裏で食堂を始めることにしました。3人とも、元尼僧、元政治犯です。しばらくして、周りのチベット人たちは自分たちの食堂のことを「3人娘の食堂」と呼ぶようになりました。

それで何とか暮らすことはできました。3人とも拷問の後遺症で腰痛がひどく、腎臓や肝臓が悪いと医者に言われます。まわりのインド人とやって行くのは楽ではありません。でも、インドには中国と違って自由があります。もう不安になったり、怖がったりする必要はありません。

去年仲間の1人がベルギーに行き、もう1人も4ヶ月前にアメリカに行きました。みんな、できればインドじゃなくもっといい国に行きたいのです。「3人娘の食堂」じゃなく、今は「1人娘の食堂」になってしまいました。私も行けるものなら外国に行きたいと思います。

焼身抗議について

焼身をするには本当に強い決意が必要でしょう。本当に追いつめられていなければ焼身などしないでしょう。追いつめられているはずです。焼身をしなければならないほどに。例えば私たちも拷問を受けて辛いおもいをしましたが、みんな中国人に痛めつけられているのです、追いつめられるのです。あまりにひどい目にあって、この世に生きていられなくなるほど、中国人に虐められているのです。

彼らは死んでしまい、将来チベットが独立しても、それを見ることもできません。自分のためには何にもならないのです。でも本当のことは言わねばなりません。彼らは命をかけて他の人に真実を知らせようとしたのです。両親も捨て、子供も捨て。どれほどの決意が必要だったでしょう。残された子供たちはどうしたらいいのでしょう。年老いた両親はどうしたらいいのでしょう。ダライ・ラマに讃えてもらいたくて焼身するのだ、と言う人がいますが、彼らはそんなことを考えていません。宗教、文化、言語の面で虐めぬかれ、追いつめられて焼身しているのです。

追いつめられた末に、私はもうここまで中国人にひどい目にあった、私がここで焼身したら、他の人たちの役に立つかも知れないと考え、他の人たちが苦しまないですむようになればと思って、自分がこれほどのことをすれば、他の人たちは苦しまずにすむと思ったのではないでしょうか。それはある意味ではすばらしい行為とも言えるけど、本当は残念なことで、悔やまれます。チベット人がいくら焼身を行っても中国は締め付けを厳しくするばかりだからです。

80年代、90年代には私たちのようにデモをしたのはラサ周辺の人たちだけでした。カムやアムドの人はデモをやりませんでした。昔は分かっている人は少なくて、若い人たちは分かっていなかったのです。カムやアムドの人たちは知らなかったのです。だまされたままでした。ラサ周辺の人たちだけが、本当のことを知っていてたくさんデモを行ったのです。あの当時、80年代、90年代にカムやアムドの人たちも一緒に蜂起することができていたら、きっと状況は変わっていたと思うことがよくあります。今では、益々中国人が入ってきて、鉱山開発など、あらゆる面で私たちの土地をわがものにしています。

2008年以降、カムやアムドのチベット人も一致団結しているように思います。カムも立ち上がるし、アムドも立ち上がります。昔は年寄りだけが分かっていましたが、今は若い人もみんな状況を理解しています。焼身する人の中には中国に教育されて育った16歳や17歳のティーンエイジャーもいますが、彼らもちゃんと本当のことを知っているのです。そして、みんな団結している。そういう意味では2008年以降の方がいいように思います。

また、私たちのころは世界がチベットに注目するということもありませんでしたが、今では世界中の人たちがチベットに関心を持ってくれていると感じます。だから、本土の人たちも、実際の効果は分かりませんが、とにかくチベットの真実を訴えようとデモや焼身を続けているわけです。期待しているのです。

今、刑務所にいる政治犯はほとんどカムやアムドの人でしょう。ウツァン(中央チベット)の人はいないに等しいでしょう。ウツァンは厳しいのです。昔私たちがデモをやった後からずっと厳しく監視されています。中国人も多く、役所や役人も多いのです。カムやアムドでは中国人の役人がいるのは県までで、村にはいないので監視も薄いのです。今、中国はあわててカムやアムドでも役人を増やし、監視のために村に送っているようです。

今の若い人たちは外国から発信されるニュースを聞いている人もたくさんいます。このようなニュースが聞けなければ、本当のことを知ることは難しいでしょう。外国でチベット支援のデモが行われていることも知っています。政治的関心が高いのだと思います。情報が電話やインターネットですぐに入ってきます。iphoneもスゴイと思います。世界中でたくさんの人たちが自分たちのために立ち上がってくれているのを知っています。他の民族の人たちが自分たちに関心を持ってくれていると思うと自分たちもやる気になります。団結の助けにもなっていると思います。私たちのころは外国からの支援もなく、力も出し切れませんでした。

希望はあるかと聞かれると、ダライ・ラマ法王が「非暴力の闘いを続ければ、希望はある」とおっしゃれば、その時は「希望はある」と思うのです。でも、こんなにひどい弾圧を受け、たくさんのチベット人が犠牲になっているのに、全く変化の兆しがありません。それを思うとどうしたらいいのか分からなくなります。とにかく中国が変わらなければ変わらないと思います。時が経てば、必ず状況は変わるはずです。この世は無常ですから。人も死にますし。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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