チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2015年7月22日

映画『ルンタ』補足編:ダムチュ・ドルマの証言、前半

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_DSC8830ダムチュ・ドルマ。

7月18日から渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映が始まったドキュメンタリー映画『ルンタ』、その中で中国当局の拷問等についてダラムサラに住む4人の亡命チベット人が証言している。映画の中ではそのほんの一部が紹介されているだけであるが、実際には4人に長いインタビューを行っている。

映画への補足の意味で、これから何回かに分け、私が聞いた彼らのインタビューをすべて紹介しようと思っている。

まず最初に映画の中で激しい拷問に耐え続け、デモを行ったことを「何も後悔していない。互角に闘えたと思っている」と語る元尼僧ダムチュ・ドルマの話を前半・後半に分けて紹介する。

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ダムチュ・ドルマの証言

子供の頃

私は1976年にラサの北、バスで3時間ほど行ったペンポ地方のルンドゥップで生まれました。ラサからキチュ川を遡り、ガンデン僧院の手前にあるタクツェで橋を渡って平原を抜け、大きな谷の奥まで行ったところにある村です。家には数頭のヤクや羊もいましたが主には農業を営む家庭でした。4人兄弟で兄、姉、私そして妹がいました。母は尼僧でしたが、文革の時、強制的に還俗させられたそうです。家には尼僧である母の姉も一緒に住んでいました。

家にはかなり広い畑があり、大麦、小麦、ジャガイモ、豆、大根を作っていました。家畜もいました、十頭ほどのヤクと数十頭のヤギと羊、それに数頭の馬がいました。でも、遊牧民のように何百頭ものヤクを飼って、テントで暮らすという生活は知りません。私たち子供たちの主な仕事はこの家畜の面倒をみることでした。それは楽しい仕事でした。毎朝、近所の子供たちと連れ立って、家畜を丘の上の方へ連れて行きます。ドッキという大きな牧羊犬もいっしょです。朝、みんな昼食用のお弁当を持って行きます。もっとも、ツァンパ(麦こがし)だけということが多いのですが、時にパンやカプセ(揚げおかし)、蒸かしたジャガイモなどを持って行きます。家畜は沢山いないので、ヤクにはすべて名前が付けてありました。慣れているので、どこかにいなくなるということもなく、仕事は楽でした。

歌を歌いながら家畜を追って丘や川の上流に向かいます。決まったところに着くと、後は夕方家畜と一緒に家に帰るまで仕事はありません。ドッキが見張りをやってくれます。私たちは遊ぶだけです。昼になれば、ヤクの糞等で火を作り、お茶を湧かしてお弁当を食べます。川があれば川で遊びます。動物の骨(羊の足首の骨)を集めてアプドォという遊びをよくしました。これを放りなげたり、当てっこして遊びます。草原が一面お花畑になるころには寝転んでるだけで気持ちよくなりました。花輪もよく作りました。冬でも家畜をつれて行きました。凍った川で滑って遊ぶのが好きでした。その他、朝、家畜からミルクをしぼることと、夕方ヤクの糞を集めることが仕事でした。子供の頃は何も大変だとおもったことはありませんでした。何でも楽しく歌を歌いながらやっていました。

村には4年までの小学校がありました。兄だけは学校に行き、その後もラサの中学校で勉強したというので、その学校の先生をやっていたことがあります。先生もそんなもので中国語とチベット語を教えるだけでした。私も10歳のころ一度学校に行き始めたのですが、すぐに止めてしまいました。村で子供を学校に行かせる余裕のある家は少なかったのです。

12歳か13歳の時、ラサの金持ちの家に住み込みのお手伝いさんとして働くために送られました。私は最初から嫌でした。私は子供のころからひどい恥ずかしがりやでした。インドに来てはじめて知らない人とも話ができる様になりましたが、なかなか人に慣れない性格でした。ですから、ラサの知らない家に送られたときにはひどく心細くなり、家の人にも慣れなくて、1ヶ月ほどで我慢できず家に帰ってしまいました。ラサの街には大勢の警官や軍隊がいて、朝から晩まで街中のスピーカーから大きな音で共産党の話が繰り返されていました。うるさいし、怖いしでラサにはいれないと思いました。

尼僧になる

16歳の頃、尼僧になりたいと両親に言いました。母は昔尼僧でしたが共産党により強制的に還俗させられたことを悔しがっていました。尼僧の生活は楽しかったといってました。家には尼僧の叔母もいたし、毎日お経を上げていたので物心ついた頃から尼僧になりたいと思い始めていたのです。80年年代の中頃から中国によって一度は壊された僧院や尼僧院を建て直すことが許可されるようになりました。新しく僧侶や尼僧になる若い人が周りに増えていました。赤い衣を着た姿はかっこいいと思っていたのです。両親は喜んで受け入れてくれました。こうして、私は近くにあったシャル尼僧院で出家しました。

シャル尼僧院にはそのころ90人ほどの尼僧がいました。そのころの僧院はどこも建て直すことが主な仕事で勉強はお経を覚えることぐらいでした。私は仏塔を作る仕事に回され、3年間に大きな仏塔を6、7基造りました。文革が終わり一応宗教が復活しましたが、まったく自由になったというわけではありません。特に、80年代終わりからラサでは、僧侶や尼僧によるチベット独立を求めるデモが頻発していましたから、私たちの尼僧院にも愛国再教育班というチームが度々やって来て、強制的に政治教育を受けさせられ、共産党に忠誠を示すことが強要されました。従わないときにはひどい暴力を受けました。尼僧の数も制限され、お堂や仏塔の数も制限され、追い出される尼僧がいたり、お堂や仏塔は村人たちの寄付により建てられているのに多過ぎると言って壊されたりもしました。

尼僧院に入った頃から急に政治的関心が深まりました。ラサで僧侶や尼僧たちの政治的デモが度々起こっていたからです。仲間の尼僧たちもそのことばかりを話題にしていました。父や母からかつての自由でみんな幸せだったころのチベットの話を子供の頃から聞いていました。その頃、セラ僧院の僧侶が各僧院に秘密裏に送った手紙を見ました。その中にはチベットの歴史、中国の侵略、文革、ダライ・ラマ法王等について詳しく書かれていました。また、一方では役人や警官たちが行う愛国再教育の内容から、中国がどれだけ嘘の歴史を作り出しているかを知りました。すべてのチベット人が共産党により苦しめられ続けていることを知りました。ダライ・ラマ法王さえお帰りになればすべてがうまく行くと思っていました。

私たち僧侶や尼僧は出家した身であり、家族はいないことになっています。他の有情の幸せのために命を捨てることもいとわないというお経をいつも唱えています。ラサやラサの周りの僧院や尼僧院の勇気ある僧尼は次々とデモに向かっていました。順番が回って来るのを待っているようなものでした。

1994年の夏、シャル尼僧院の尼僧5人がラサのパルコル(ジョカンを回る右繞道)でデモを行いました。その後、大勢の役人と部隊が尼僧院に押し掛け、毎日政治教育が行われ、様々な嫌がらせを受けました。私たちもこれに反発し、みんなで石を公安の車に投げたりしました。すると今度は尼僧院が包囲された。食料を手に入れることができず、1ヶ月間ツェンパだけでしのいだということもありました。

デモ、そして拷問

1995年の2月25日、私は19歳になったばかりでした。尼僧院の他の仲間7人とともにラサのパルコルでデモを行いました。最初、ジョカンの前でやろうとしたのですが、声を上げる前に警官に追い出させてしまいました。しかたなく、一度南側にあるカチェラカン(モスク)の方に行き、そこからパルコルに出ました。夕方でパルコルは巡礼者で一杯でした。パルコルに出るとすぐに、私たちは大きな声を上げながら夢中で走りました。「チベットに独立を!チベットには人権が必要だ!中国人はチベットから出て行け!ダライ・ラマ法王帰還!」と叫んだのです。

走り、叫ぶことができたのはほんの数分間だけでした。すぐに周りにいた私服警官や制服の警官が大勢飛んで来て、殴り倒されました。その後も1人につき3~5人がよってたかって私たちを警棒で殴り、蹴飛ばしました。頭から被っていた袈裟を取られ、それを声が出ない様にと猿ぐつわとして口に押し込まれました。近くのパルコル派出所に引きずり込まれ、小さな部屋に押込められました。15分ぐらいして2台の車に乗せられ、グツァ刑務所に連れて行かれました。

1人1人別々の小部屋に入れられ、服をすべて脱がされました。代わりの服が渡され、その日はそれだけでした。夜だったからでしょう。次の日から尋問が始まりました。

「お前たちはなぜデモをしたのか?誰に指示されてデモをやったのか?お前たちはまだ若いから、チベット独立がなにを意味するのか分からないのだ。誰に指示された。名前を言え」と言われました。私は「誰に指示されたわけでもありません。チベットは自分たちの国なのに、中国により宗教の自由が奪われています。チベットには自由はありません。何をしても中国人に邪魔されます」そんな風にいいました。

そして「私たちがチベット独立と叫んだのは間違っていません」というと殴られそうになりました。「間違いだったと認め、誰それから指示されたという名前を言え。自分は指示されただけだと言え。そうすれば解放しよう」と言われました。そう言われて「私たちは間違っていません。私たちには後悔はありません。私たちは真実に従っています。私たちには国と自由と人権が必要です。ダライ・ラマ法王は私たちの根本のラマであり、チベットを治める方だから帰国して頂きたいのです」と言いました。すると突然殴られ、それから拷問が始まりました。

最初は色んな棒で殴られ、それから何度も電気棒を当てられ、椅子で殴られたり、服を掴まれてドアに叩き付けられたりしました。意識が朦朧としました。彼らは疲れると休んでお茶を飲んだりタバコを吸います。その時はお茶を顔を掛けられます。タバコを押し付けられます。

「お前をそそのかした者の名前を言え」と言うのです。「私たちは自分の意志でやったのであって、誰にも指示などされていない。自分の国がどういうものか、自分が誰であるか、すべて分かっています」と言いました。すると、「それは嘘だ。誰かがそそのかしている。ダライ・ラマに行けと言われたのか?あるいは他の誰かか?」と言うのです。このような尋問と拷問は毎日ではないが、数日ごとに行われました。それが6ヶ月間続いたのです。

同じことが延々と続くのです。時々担当者が変わりますが、聞くことは一緒でした。中には特にひどい拷問をする人がいました。チベット人も中国人もいましたが、軍人はひどいことをします。電気ショックを繰り返し、熱湯をかけられ、踏みつけられ、椅子を投げつけられ、手にするあらゆるもので殴られました。まるで遊んでいるみたいでした。

やられるままに拷問を受け、指図した者の名前を言えと言われても、どんなに殴られても、「自分の意志で来た」と繰り返すのです。拷問されればされるほど肝がすわり、勇気が湧いて来るのです。心の中で「殺すなら殺せばいい。死んでもいい」と思っていました。私たちはデモに行くことを決心した時から、死ぬかも知れないと思い、生きて刑務所から出ることができるとは思っていませんでした。死ぬかもしれない、それでもいいと決心して出かけたのです。両親とももう会えないと思っていました。

まわりには長年苦労し続け、年老いた老人が沢山いました。尼僧院の先生も年老いていました。ダライ・ラマ法王がもう一度チベットに帰って来られる日が必ず来ると、それだけを希望として多くの苦しみを耐えてきた人たち、彼らの望みを叶えたいと願い決心したのでした。どれだけ拷問を受けても、止めておけばよかった、行かなければよかったなどと思ったことは一度もありませんでした。何があっても、毅然とした態度で語り、拷問されればされるほどに彼らに打ち勝ちたいという気持ちになって来て、もう決心はついている、殺すなら殺せ、何でもすればいいと思うのでした。

6ヶ月間ずっと独房に入れられていたので、一緒にデモを行った仲間とはまったく話をすることができませんでした。しかし、自分はデモを最初にやろうと言ったのは私だと言いました。実際はもう1人の尼僧と私が2人で最初に相談し、他の6人は後で仲間に加わったのでした。6ヶ月後に裁判があり、私には6年の刑が言い渡されました。もう1人の尼僧も6年でしたが、彼女は最初に私と一緒にデモを計画した友人でした。他の6人は4年の刑でした。

タプチ刑務所

刑を受けタプチ刑務所に送られました。そこは恐ろしいところとして有名でした。拷問に終わりはありませんでした。タプチに入れられて最初の4ヶ月は太陽の下で朝早くから、まるでチベットによくあるソーラークッカーのように立たされ続けました。朝太陽が出ると、太陽に向かって顔を向けて立たされるのです。朝から昼食まで、昼食の後夕方まで。ただそのまま立っているだけなら大したことではないでしょう。直立不動の姿勢を保たなければならないのです。両脇に新聞紙を入れられます。力を入れてないと紙が落ちます。すると激しく殴られます。後ろから不意に紙を抜かれることもあります。力を入れなていないと抜かれるのです。抜かれると、殴られます。

頭にはもちろん帽子を被っていないし、強い日差しの中でめまいがして倒れる人もいます。寒い季節になると手や足の指が凍り付き倒れる人もいます。するとすぐに蹴飛ばされ、踏みにじられます。そんな仲間を助けてあげたくてもできないのです。冬は日差しがすごく強いです。朝は寒くて昼は日差しが強い。顔は真っ黒になってしまい歯だけが白いんです。家族との面会は最初の6ヶ月は許可されませんでした。7ヶ月目に初めて面会できましたが、家族は私が誰だか最初分かって貰えませんでした。痩せて、髪は長いし、顔も真っ黒だったからです。

4ヶ月間立たされ続けた後、今度は兵士が来て中国語で軍隊式の行進や足踏みのやり方を教えられます。私たちはみんな中国語が全く分かりません。言葉が分からないので間違ったりします。あっちを向け、こっちを向けと言われても間違う人がいます。60人ほどいましたから沢山間違う人がいます。すると、間違った人は殴られます。ひどく殴られます。兵士はみんなそうで、私たちを人間とは思っていないのです。人間ではなく犬と思ってるわけです。遊んでいるのです。

タプチ刑務所に収監されている人は全部で7つのグループに分けられていました。男性が6グループ、女性は1グループでした。男性は政治犯と窃盗犯などは別にされていましたが、女性は1グループしかなく、政治犯もその他窃盗犯とか殺人犯も一緒にされていました。全員で100人以上いました。その内政治犯が70人ぐらいでしょう。ほとんどは自分のように尼僧でした。その頃デモに行く女性はほとんど尼僧でした。夜は12人つづ別れて寝ますが、昼間は仲間と話すこともできました。政治犯たちはみんな仲がよく、常に団結し、できるだけ助け合っていました。みんな仲がよかったことで強い気持ちを持ち続け、頭もおかしくならず、耐え続けることができたのだと思います。

タプチでは冬になると毎年、運動会の準備だといって軍事訓練のようなことをやらされます。何ヶ月も空きっ腹で同じようなことをやらされ最後はたった15分の勝負です。その時はウディドゥ刑務所の囚人も加わります。囚人同士の競技です。この運動会の各優勝者には本当は賞金がでているそうですが、私たちには1等、2等、3等と書かれた紙が渡されるだけです。賞金は役人の懐に入るだけです。

競技の後には宣言の時間というものがあります。「私たちは本心をいうことを誓います。思想改造いたします。新しい人間になります」という宣言をやらされます。これを刑務所側は一番重要視していました。他に「ダライ・ラマは悪人です」というのもありました。私たちはその中国語は分かっていても口をつぐんだままです。すると暴力が始まります。口に棒を突っ込まれ、なぜ言わないのだと言われます。「中国語は分かりません」というと「チベット語で言え」と言われても「言いたくありません」と答えます。

あと歌を歌わされます。歌はいろいろありましたが、すべて共産党を賞賛するものばかりです。私たちは歌は全く練習しません。分からないふりをして覚えないのです。チベット語の歌詞を渡されても歌わないのです。宣言を行わなかったり、共産党を讃える歌を歌わなかった政治犯は次の日から拷問を受けます。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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