チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2015年7月14日
テンジン・デレック・リンポチェの死を悼む集会に中国当局が発砲/死期不明
RFA(ラジオ自由アジア)とTCHRD(チベット人権民主センター)が現地からの報告として伝えるところによれば、7月12日までに死亡したと報道されるリタンの慈善家テンジン・デレック・リンポチェの死を悼み、遺体の引き渡しを要求するために13日、リタンの隣町ナクチュカ(四川省甘孜蔵族自治州雅江)に集まっていた千人以上の住民に向かい当局が発砲したという。
昨日、7月13日、リンポチェを慕う地元のチベット人たちはリンポチェが創建した僧院の一つがあるナクチュカ県のオトック村に集まりリンポチェの死を悼む法要を行った。さらに、近くのタンカルマ郷の政府庁舎前には千人以上の住民が集まり、リンポチェの遺体を家族に引き渡すことを要求するデモを行った。これに対し、当局は群衆を蹴散らすために催涙弾を使い、さらに実弾を発砲したという。現時点では、実際にどれほどの人が負傷したのかは分っていない。
現在、ナクチュカの情報網は切断され、リタンとナクチュカを結ぶ国道は閉鎖、付近には大勢の部隊が配備されているという。
リンポチェの死は地元をはじめ世界中のチベットサポーターに強いショックを与えた。これからも彼の死を受け、中国政府に対する抗議活動が活発化すると思われる。
いつ死んだのか?
南インドの僧院に所属するリンポチェの親戚であるゲシェ・ロプサン・ユンテン師は「リンポチェが今年死んだのか、去年死んだのか?どこで死んだのか?誰も言うことができない。この2年間誰も面会を許されていないからだ」という。
彼が収監された後、家族に面会が許されたのは13年間でたった一度だけでる。2013年11月、リンポチェの姉妹2人が面会を許されているが、その時リンポチェは「非常に衰弱しており、心臓病を煩っているらしく、身体の一部が震え続け、何度も意識が薄れていた。足も引きずっていた」と報告されている。
信頼できる情報によれば、7月2日、リタン県の3人の役人がリンポチェの姉妹であるドンカル・ラモとソナム・デキと接触し、彼らと一緒にリンポチェのことを相談するために成都に一緒に来るようにと命令された。2人の姉妹は成都で何の情報も与えられず10日間待たされたという。
彼女たちはリンポチェとの面会を強く要求したが、その度に「明日会わせよう」「次の日曜日に会わせよう」と引き延ばされていた。「7月12日になり、当局は『今日の午前11時に会わせよう』と言ってきたが、昼の12時(午後10時との情報もある)になり『リンポチェはすでに死亡した』と2人に告げられた」という。
13日の朝から姉妹は当局に対し、遺体の引き渡しと死亡原因を明らかにすることを要求し続けたが、当局は「今、その件で会議中である」としか答えてくれなかったという。
このことからも、リンポチェが早い時期に死亡していた可能性もあると推測されている。
リンポチェは90年代に7つの僧院を建て、ナクチュカで遊牧民の子供たちのための学校、孤児院、養老院を運営し、森林を守る運動を行っていた。仏教の指導者として何千人もの弟子を持ち、地元で絶大な人気を博す慈善家であった。
「リンポチェが無期懲役となった本当の罪は地元のチベット人たちから深く尊敬され、チベット人たちの道徳心を守ろうとしたことなのだ。チベットの言語と宗教を守ることに成功していたことなのだ」とTCHRDの所長であるテンジン・ツォモは語る。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)