チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2014年4月25日
11世パンチェン・ラマ<世界最年少政治犯ニマ少年> 25歳の誕生日
今日、4月25日はチベット第二位のラマ、チベットの月と喩えられる11世パンチェン・ラマのお誕生日ということで、ダラムサラほか世界各地のチベットコミュニティーでこの日が祝われた。一般的には誕生日ということで祝うべき日であるが、11世パンチェン・ラマ・ゲンドゥン・チュキ・ニマは、ダライ・ラマ法王が先代パンチェン・ラマの転生者であると正式に発表した直後、1995年5月17日に家族と一緒に当局により拉致され、その後今になるまで、生死不明、行方不明のままであるということで、チベット人にとっては悲しい日でもあるのだ。
宗教を否定する唯物論者であるはずの中国共産党は、独自に選んだ一人の子供ゲルツェン・ノルブをこれが本物の11世パンチェン・ラマであると宣伝した。彼は今、中国の仏教界を代表する一人という地位を与えられている。しかし、残念ながら普通のチベット人は彼を「偽パンチェン」と呼ぶだけである。
中国共産党は最初から偽パンチェンを政治的に利用するために選び、育て上げたのだ。伝統的にチベットではこのダライ・ラマとパンチェン・ラマはどちらかが遷化した時には、お互いに先代の転生者を探し出し、認定するという役割を持つ。いつか将来、中国側の15世ダライ・ラマを彼が最終承認するというわけだ。もちろん、チベット人に取っても偽が選んだ子供が本物という道理は通じないので、偽ダライ(ラマ)が生まれることになってしまう。
嘘・偽は共産党の伝統だから、彼らに取っては当たり前である。6歳の時消え去った、チベット人が本物と認めるゲンドゥン・チュキ・ニマ少年の消息について、最近では当局は「彼はチベットのどこかで静かに暮らしている。うるさくされるのがいやだから、居所は知らせないでほしいと言われている」と適当なことを言ってる。作り話を平気で語るのも共産党の伝統である。
「生きているなら19年間、まったく消息がないということはおかしいのではないか、とっくに共産党により消されたのではないか?」と彼はもういないと思うチベット人も出始めている。
去年中に「ニマ少年の両親は以前の家で軟禁されている。常時部隊により監視されている」という情報がまことしやかに流れたことがあるが、これも確認されたわけではない。
式典ではまず、ドラマスクールの楽隊がチベット国歌を歌い、その後チベットのために犠牲になった人々のための黙祷。その後、3人がスピーチ。首相と議会議長は南インドのパンチェン・ラマの僧院タシルンポで行われる式典に出席するために出かけており、それぞれ代理の宗教大臣と副議長がこの日の首相声明と議会声明を読み上げた。
センゲ首相の声明全文(英語)は>ここへ。
その他、興味深いビデオ(何れもチベット語)として、ダライ・ラマ法王がニマ少年を如何に選び出したかについて語られているものがここにある。20~30人の候補者の中から2度の占いにより最後は確信を持ってニマ少年を選んだという。
もう一つ、パンチェン・ラマが1986年のモンラム祭のおりスピーチした時のビデオがある。この中で10世パンチェン・ラマは「ダライ・ラマと自分は法友であり、お互いの間にわだかまりはまったくない。…….ダライ・ラマ法王がチベットにお帰りになることを願っている。」と話す。10世パンチェン・ラマは中国に侵略されたあと、チベットに残り続け、チベット人を助けるために最善を尽くした。1962年5月、24歳の時、毛沢東始めとする共産党指導部に向け「七万言上書」と呼ばれる、報告書を提出した。この中で、彼は中国によるチベット支配の性格を述べ、被害の全体像を明らかにし、チベット人の苦しみについて語った。その後10年刑務所、4年自宅監禁されている。
1989年、再びチベットで共産党を非難するスピーチを行ったすぐ後、自身の僧院であるシガツェのタシルンポ僧院で急死した。多くのチベット人は共産党により毒殺されたと信じている。
日本代表のラクパ・ツォコさんも参加されていた。彼の右手は現オーストラリア代表のソナム・ノルブ・ダクポさん。ツォコさんが6月からオーストラリア代表に就任し、ソナムさんはダラムサラの本部に帰られる。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)