チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2014年3月29日
ゴシュル・ロプサンの半生と遺書「悔いなき受刑者」
拷問の末、衰弱しきり刑務所を出されたマチュのゴシュル・ロプサンが今月19日に死亡したということは先のブログで報告した。その後、彼が残したという遺書と、彼のより詳しい経歴が明らかにされた。
25日付けTibet Net(亡命政府公式サイト/チベット語版)が彼の略歴を記している。それによれば、ゴシュル・ロプサンは(甘粛省甘南チベット族自治州)マチュ県トコペルペン郷ギュツァ村の出身。42歳(*1)。妻と2児の子を残す。1992年、インドに亡命し、ダラムサラ近郊にあるTCVスジャスクールで数年学んだ後、再びチベットに帰り遊牧の仕事をしていた。
90年代、彼は仲間と一緒にマチュ地区に沢山の政治的ビラを張り出した。多くの仲間が捕まり、数ヶ月間拷問と尋問が続いたが、最後まで彼は何も認めなかった。その後、家に帰されたが、当局の嫌がらせが続くのに耐えられず、数年間ラサに逃げた。ラサから故郷に帰った後、しばらくの間学校や私塾で英語を教えていた。
2008年3月、チベット全土に抵抗運動が広がったときトコペルペン郷の人々も3月17、18、19日の3日間に渡り平和的抗議を繰り返した。そのとき彼はデモを先導していた。彼はまたその頃、自分の黒いヤクテントに5色のチベット国旗をはためかせていたという。
2009年1月には、地区の人々にその年のロサ(チベット暦新年)を祝うべきではないと訴える張り紙と、中国人と商売したり、中国人の商店で買い物をすることを止めようと訴える張り紙が現れた。これを見てゴシュル・ロプサンたちはQQ(中国のSNS)を通じてこのニュースを内外に伝えた。
2008年以来、地区では当局による締め付けが激しくなっていた。住民と警官が衝突することも度々であった。2009年4月10日、ゴシュル・ロプサンと仲間数人が軍隊に向かって、事実と論拠を示しながらの論争を仕掛けた。軍はその内のゴシュル・ロプサンとダクパをめった打ちにし、手錠をはめ、連行しようとした。これを知ったチベット人400人余りが2人を解放しようと、軍と張り合い、石を投げた。2人は手錠をはめられたままではあったが、このとき逃げることができた。
その2日後、当局は地区の村長たちを集め、2008年以降反政府活動を繰り返すゴシュル以下5人の名前を上げ、即刻差し出すようにと命令した。できなければ、村々は大変な目に遭うぞと脅した。
その後、何ヶ月にも渡り、ゴシュル・ロプサンたちは飢えと寒さに耐えながら人里離れた岩山に隠れ続けることになった。
年が開け、ゴシュル・ロプサンはこのように長く岩山に隠れ住み続けても何も意味がないと思い始めた。それよりは潔く刑務所に入った方が、600万チベット人のためになるのではないだろうかと思われた。このまま山に居続け、いつか誰も知らないうちに逮捕されるより、みんなが見ている前で逮捕された方がいいだろうと思い、堂々と里に下りていった。
2010年6月29日(TCHRDは5月16日と)、彼は逮捕され、5ヶ月間マチュ県の公安で尋問と拷問を繰り返し受けた。食事と睡眠を断たれ、痛みで苦しめるための毒を注射されたこともあるという。
2010年11月26日、甘南州の中級人民法院はゴシュル・ロプサンに10年の刑(*2)を言い渡し、蘭州から100キロほど離れたテンシェンの刑務所に送った。刑務所に入れられた後も3年間、まともな食事も治療も与えられず、苦痛と共に衰弱し、彼は骨と皮に成り果てた。
2013年11月に入り、彼の容態はいよいよ危険なものとなった。刑務所側は刑務所内で死なれると面倒なことになるということで11月29日に彼を家族の下に帰した。
家族と親戚は彼のためにできるだけの治療を受けさせたが、回復することがなかった。死ぬ前一ヶ月の間、食事も飲み物も一切口にすることができず、またその激痛に苦しめられる様は見るに見かねるものがあったという。
少し口がきけるときには、常に、自分の信念と決心は少しも変わっていないこと、どれほどの苦しみを味わおうとも、すべてチベットの宗教、文化を守り、600万チベット人のためであるからまったく後悔するところはない、と語ったという。
また、死の数日前、友人に自分の写真を持って来てくれと頼み、「(その写真を)インドにいらっしゃるダライ・ラマ法王の下に届けることはできないか?自分のように獄で苦しめられている政治犯たちの惨状を知らせることはできないであろうか?これは自分のためのようだが、このような愚かでつましい、無力の牧民の最後の小さな望みだ」と託したという。これが彼の最後のことばとなった。
*1:ゴシュル・ロプサンの死亡時の年齢については、TCHRDとRFAは43歳と伝え、Tibet Netは42歳と伝える。
*2:彼の受けた刑期については、Tibet Netは10年、ウーセルさんは11年、TCHRDは12年と伝える。
以下の遺書は、2012年中に死を覚悟したゴシュル・ロプサンが刑務所内で密かに綴ったものと言われる。チベット語原文はここ。中国語訳はここ。
悔いなき受刑者
私には家族があり、父母兄弟、妻と子供もいる。彼らに対し深い愛を持っており、その愛のために命も捧げてもよいという決心さえある。しかし、我が民族のためにその愛を犠牲にすることに後悔はない。私は自らの民族を愛する愚かな牧民である。民族のために何か為すことができれば本望だ。
耐え難き様々な拷問に苦しみ、病み衰え、骨と皮に成り果てたこの身体が、朽ち果てようとも、後悔はない。炎の中から躍り出て、すべてを明らかにすることができる勇者に、続こうという思いがあるが、勇気が足りない。しかし、不義がはびこり、自由や平等を訴える場所がないというこの環境に、おとなしく屈服しなかったことにより、こうなった愚かな牧民である私に後悔は全くない。
私が見たいのは、この自由な世界にふさわしい生活を送る我が民族の姿であり、暗闇に包まれ、暴虐の下に暮らさねばならぬ民族の姿ではない。愛する父母兄弟よ、愛する妻と子供たちよ、命尽き、突然永別のときが来るかも知れないが、後悔はない。悲しみの底を計りながら、不安の淵に立たされ、寒さに震えながらも、心に思い出す汚点や罪過は何もない。これだけが私がこの世に生まれて得た収穫なのかも知れないと思う。これしか私にはない。私の欲したものはこれしかない。
一つだけ遺憾に思うことがある。それは、我々の中にお互いを深い絆で結ばれた兄弟同士であるという認識が足りないが故に、団結力を発揮できないでいるということだ。同胞たちよ、我々には長期的展望と、団結してそれに向かう行動力がいる。民族に恩ある人々や宗教、文化、慣習等を尊重すべきだ。雪国チベットの同胞たちよ、一致団結すべきだ。団結よ永久に。永久に永久に。
2012年9月28日、テンシェン刑務所にて
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)