チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2014年2月6日
ウーセル・ブログ「逮捕されて47日になるケンポ・カルマ・ツェワンの逮捕1カ月前の記録」
今なお拘束中であるケンポ・カルツェのチャムド逃避(迂回)行の記録については、すでに1月24日付け当ブログで簡単な報告を行った。しかし、そのときは私が正確には理解できない中国語を元に要旨のみ伝えたものであった。元にした1月22付けウーセル・ブログはケンポ・カルツェが記録したチベット語を、亡命政府国際情報省勤務のサンゲ・キャプが中国語に翻訳したものにウーセルさんが短い解説と写真を加えられたものだった。今回、うらるんたさんがその全訳を中国語から行って下さった。そして、さらに私が原文のチベット語を見て固有名詞等をチェックしたものを以下に掲載する。
ケンポ・カルツェが成都でチェムドの警察により拘束されすでに2ヶ月が経つ。彼を解放してほしいという地元のチベット人たちの訴えは退けられたという。
被捕47天的堪布尕玛才旺在被捕前一月的记录
(逮捕されて47日になるケンポ・カルマ・ツェワンの逮捕1カ月前の記録)※()は中国語原文にもあるカッコ書き、〔〕は訳者による補足
<前書き部分>
2013年10月21日、カム地方ナンチェン(現在の青海省玉樹自治州囊謙県)チャパ寺院(中国名・公雅寺)のケンポ・カルマ・ツェワンが逮捕されるより1カ月少し前にあたる日のこと。この日、ケンポは信徒の招きに応え山あいの村で法要を営んだ。そこに向かう途中、チベット人、とりわけチベット人僧侶に対する扱いが酷いとして有名なチャムド地区リボチェ県のドンゲンタン検問所を通る必要があったため、車をあきらめ、歩いて雪山を越えざるを得なかった。〔ケンポは〕無数のチベット人が自らの故郷で置かれている困難な状況を伝えるため、文字で雪山越えの困難さを記録した。
<本文>
逮捕されて47日になるケンポ・カルマ・ツェワンの逮捕1カ月前の記録
原文チベット語
翻訳:サンギェ・キャプ
編集:ウーセルチャムドへの逃亡
その日私は、いつもと同じように、民衆から「香珠」法要〔を営んでほしい〕と招かれていた。
数日間大雪が続いていた。積雪は深く、気温も冷え込んでいた。しかし、その数日前に出席すると答えていたために、その日は出発しなければならなかった。私は、施主として招いてくれた人に、有名なドンゲンタン検問所(チャムド地区リボチェ県の一級検問所)を無事に通過できるかどうか詳しく尋ねると同時に、政府の規定に照らしてナンチェン県統一戦線部〔共産党内の思想統制をする部門〕に申請を出していた。とにかく行かなくてはならなかった。午後2時、私と、迎えにきた者と、もう1人の僧侶〔の3人〕で、車を運転して出発した。一時間半後、私たちは青海省と西蔵自治区の省境に着いた。私を招いた施主によれば、ここでセルタのほうから来る別のケンポ〔高僧のこと〕と合流するとのことであったが、〔セルタからのケンポは〕到着までにあと1時間かかるとのことだった。時間も遅くなるし、話ではさらに走らなければならないとのことだったので、私たちは先に行くことにした。
数分後、私たちはチチュ(川の名)岸辺についた。送えの者は「もうすぐ検問所だ、迂回して走らなければならない」と話した。彼らは何回も電話を掛けていた。聞いている感じでは相手との関係は良いようだった。しかし、迎えの者は、私が法要を営むという事情を相手に言いたがらなかった。迎えの者は「もし法要があることが多くの人に知られると、漢人に見つかってしまう」と説明した。見た感じ、彼らは皆、一種の恐怖心にとらわれているようだった。
このようにして、私たちは進路を選択し、検問所を迂回することにした。私たちは大きな道から外れ、山の沢沿いに登り、走り、走り、走って、数十軒の家が並ぶ小さな集落に着いた。外から見たところ、並ぶ家の建物は大きく、電線や街灯その他があり、とてもよく整備された集落のようだった。建物の上には赤い中国国旗が翻り、愛国心をかき立てているようだった。道で出会った40歳くらいの男性に、私の2人の連れが「オートバイを貸してくれないか」と頼んでみたところ、その男性は「自分はオートバイを持っているが、運転できない。自分たちの村にはほかにも数台オートバイがあるが、男たちは皆ある寺院に行ってしまっている」と話した。
どうもオートバイを借りられる望みはなさそうだった。私の連れは落胆の表情を浮かべた。私は「もし歩いたら、どのくらいかかるのか?」と尋ねた。けれど、2人の連れはまだオートバイを借りる算段を検討していて、私の質問は意に介されなかった。それから私たちは1軒の家に入った。家の中には10歳くらいの子供がいて四川テレビの連続ドラマを見ていた。部屋の中は暗く、みすぼらしい状態で、ほかに老人と女性がいた。彼らは私たちに香り高いミルクティーをふるまってくれた。私はさっさとお茶を飲み干し、歩いて行くことに決めた。そうして私たちは歩き出した。
聞いた話では、車の中に、普通の荷物以外の、僧侶がいたと分かるような荷物が残っているとトラブルが起きかねないということだったので、私たちは僧侶のものと分かる荷物を全部〔自分たちで〕背負うしかなかった。車は公道沿いに先に行かせた。
私たちはまるで〔犯罪を犯してこそこそと逃走する〕逃亡者のようだった。車もあり、運転手もいて、運転手は各種の免許などをすべて持っていて、私たちは何の法律や規定に違反していないにもかかわらず、それでも、雪が降り積もった険しい山道を越えなければならないのだった。
先ほどの小さな集落を抜け、一歩一歩山を登り始めたとき、私は、自分たちの前に少なくない足跡が続いているのに気付いた。大小の異なるこれらの足跡はまるで、自分たちの故郷から自分たちの故郷へと逃げのびるもののようだった。前日に聞いた話を思い出した。「もし地元の人間でなかったら、何の罪もないのに検問所の職員にひどく殴りつけられることが往々にしてある」。足跡を見る限り、それは本当のことのようだった。
山を越える小さな道に点々と残るこの足跡。山の麓には国家の建設した舗装道路が堂々と延びているのに、これほど多くの人がどこへ行くというのだろう? なぜ険しい山越えをしなければならないのだろう? 私たちのような〔検問を避けるために山を越えざるを得ない〕人がとても多いのだと思った。2日前に降った雪の上にこれだけの足跡が残されているということは、毎日、数多くの人が私たちのように逃亡し続けていることを示していた。
普通の天気だったら、オートバイでも山道を無理やり通ることができるが、今日のような大雪では、歩くよりもほかに方法がないのだった。
私たちは2時間以上かかってなんとか峠を越えた。積もった雪は深く、雪の上を歩くのは難しかった。まったく、このような辺境の村と村の間に、私や私たちのような人たちが行こうとするのは、なんと困難の多いことだろう。たくさんの民衆が罵って「ギャミメルプックギュツァン」(カム語の俗語で『中国人さえいなければいいのに』の意味)というが、このように、政府を毛嫌いする感覚はアムドやカムに比べて〔チベット自治区に編入されているチャムド地区では〕多くなっている。私の経験からも、チベット自治区で実施されている政策は失敗であると強く感じることが多い。
最後に説明しておきたい。これは、私がただチャムドに〔検問を避けて〕逃がれた状況である。実際のところ、私たちは、不法かつ規則にも反するドンゲンタン検問所(すなわちチャムド地区リボチェ県の一級検問所)で、いわれもなく理由もなくしばしば民衆がトラブルに巻き込まれるということをたびたび聞き及んでいた。私は、このような事実を関係部門の指導者や上級部門、そして幅広い世論に広く知らせなければならないと考えている。またチベット自治区の住民が自由に行き来できない状況の是非に継続して注目を呼び掛けたい。そして、このような、目下の非常に困難な状況を変えていきたい。これが、私がこの記録を書き残す理由である。関心を持っていただけるよう望んでいる。
2013年10月26日記す
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)