チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2013年12月30日

ツェリン・キ 焼身への道 親族の証言

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9aedea002012年3月3日(日本ではひな祭りの日)に、アムド、マチュの野菜市場で19歳の中学生ツェリン・キが焼身を行い、その場で死亡した。野菜を売る中国人たちが燃え盛る彼女に向かって石を投げたという報告もある。彼女は26番目の内地焼身者。女性3人目。中学生が焼身したのも、もちろん初めてであった。

先日、ダラムサラで彼女の幼少時を知るという親族に会うことができた。その親族と同郷である彼女の夫から1時間近くツェリン・キについてゆっくりと話しを聞くことができた。以下、その親族の話しをもとにしながら彼女の焼身に至るまでの道をできるだけ、詳しく跡づけてみようと思う。

それぞれの焼身者が焼身を決心するまでには、その人の人生すべてが関わっているはずである。しかし、ほとんどすべての焼身者は氏名・年齢・焼身場所等の基本的情報以外に詳しい話は何も伝わって来ない。これほど多くのチベット人が焼身すると、生身の人一人が政治的理由により焼身したという大変な悲劇が、ただの数字と化し始める。今回少しでもツェリン・キの人生の軌跡を跡づけることにより、若くして焼身した少女のことに思いを致すよすがになればと思う。

家畜と歌が大好きな明るい子

ツェリン・キは1992年に遊牧民家庭の子供として生まれた。上には姉と兄がいた。やがて弟も生まれ、兄弟は4人となった。「子供の頃から本当に明るくいい子だった。人を助けることが好きだった。家の仕事を何でも手伝い、家畜の世話をし、乳を絞り、バターを作り、羊の毛を刈り、糞を乾燥させ、それを集め火を炊くことができた。とにかく家畜を可愛がることが好きで、お母さんに『お母さんは休んでていいよ。私が全部できるから』と誇らしげに言っていた。親にこれをやれと言われて従わなかったことがなく、なんでもすぐに従い一生懸命働く子だった」と彼女が子供のころ、すぐ隣に住んでいたというその親族は語る。

「ツェリンはとにかく歌が好きな子供だった。遊牧の仕事をする時にはいつも歌を歌っていた。声がよくて、自分でも歌うのが好きだったので、請われればいつでも人前で歌を歌った。その内、彼女の歌がうまいことは村の中でも有名となり、何か集まりがあるときには、彼女が呼ばれて歌を歌っていた。子供だから恥ずかしがることもなく、堂々と歌っていた」という。

牧草地の制限

「夏になると牧草地に移動したが、その移動する日が彼女のお気に入りの時だった。子供たちはみんな浮かれて、朝から興奮していた。ツェリンは先頭になって、牧草地に向かった。夜中、星の下で眠るのが大好きだと言っていた」という。

ツェリンの家はまだ生態移民の対象になっていなかった。しかし、牧草地は段階的に制限され、今では家族単位で牧草地が鉄条網で囲われるようになったが、その広さは十分ではないという。家畜を減らすしかなくなり、生活は徐々に貧しくなっていったという。

「夏場3ヶ月間だけ牧草地に移動し、テントで暮らした。その他の時は村の中にある冬場の家で暮らしていた。私が本当に幼い頃は春、夏、秋、冬と4カ所を移動していた。でも徐々に牧草地が制限され、十分な草が得られないので、家畜の数も減らし、移動も夏だけとなった」と親族はいう。

「いつ頃から牧草地の制限が始まったのか?」と質問すると、夫がそれに答え「おそらく20年ほど前からだろう。その前は共産党初期の集団農場だったが、この時は県内であればどこへ移動するのも自由だった。20年ほど前からこれがもっと小さい行政区画である鎮や郷単位になった。郷境を越えて他の土地で牧畜してはいけないことになり、初めて境界に柵が作られた。その次には村単位、そして、最近はとうとう家族単位となった。決められた土地は十分でなく、増々家畜を減らさなければならなかった。牧草地といっても、良し悪しがある。運悪く草の少ない土地が割り当てられるということもある。いい土地は政府が先に占領してしまう。これらは役人たちの儲け口となる」という。

生態移民で泥棒が増えた

「自分たちはまだましだが、牧草地をすべて取り上げられて街の近くの長屋へ移動させられた者たちもいる。環境を口実に移動させられる者もいる。彼らは大変だ。最初の数年は月500元とかの補償金がもらえるが、それが終われば困窮する。家畜はいないし、土地もない。出稼ぎに出るものもいるが、若い者たちは賭け事ばかりし、泥棒もやる」と夫。

「私が子供のころは泥棒なんてまったくいなかった。夏、牧草地に移動するときにも後にする家に鍵など掛けなくてもよかった。でも、今じゃ必ず鍵がいる。泥棒が沢山いる」と妻。

_DSC8519話しを聞いたツェリン・キの親族。

学校に行きたい

ツェリンはものごころ付き自分で考えることができるようになったころから、盛んに「学校へ行きたい」と言い出したという。しかし、兄弟の中で学校に行った子供は誰もいなく、親戚の中でも学校へ行っている子はほとんどいなかった。父親もツェリンを学校へやることに最初は賛成しなかった。「ツェリンはとにかく学校へ行きたいということを回りの人に言い、私などに父親を説得してくれと頼み始めた。私や叔父が父親を説得し、やっと父親が同意したのだ」と親族はいう。

ツェリンの家から学校のあるマチュの街までは1時間半ほど。生態移民により街の近くに住むことになったチベット人が増えるに従い、街には主にチベット人遊牧民の子供たちを対象とした民族中学が増えた。もっとも、その代わりに嘗て村や郷にあった小学校等の数は統廃合により減少した。マチュの街にあった「マチュ県民族中学」もそのような学校の一つであり、全寮制で1500人ほどが学ぶという大きな学校であった。10歳になったころ小学校に入ることができたツェリンは順調にクラスを進め、17歳の時この民族中学校に入り、焼身した時には3年生、19歳になったばかりであった。

「学校に行くようになって、ツェリンは回りの人たちにチベット語を学ぶことが大事だというようになった。お母さんや兄弟にチベット語を勉強するよう勧めていた」という。そして、自分で短いエッセイを書くことも始めていた。「ツェリンはチベット語が好きで、エッセイのようなものも書き始めていた。その中で3つ覚えている。1つは『ラサに行きたい』、2つ目は『父母への愛』について、3つ目は『母語の重要性』についてだった」と親族。

言語自由、チベットの自由を訴えるデモに参加

「ツェリンの学校の生徒は何度かデモを行っている。2008年と2010年に2回行っている。なぜ特にこの学校でデモが何度も行われたのか?」と私。これに対し夫は「それは、チベット語擁護のためだろう。2009年9月に北京の中央政府はチベットの教育政策についてその10年計画を発表した。その中では漢語教育を促進するということが唱われていた。つまり、間接的にチベット語を軽視するといっているのだ。表向きチベット語を抹殺せよなどとは言っていないが、意図はそういうことだ。本当かどうか知らないが、チベット人の間ではスターリンが『ある民族を滅ぼしたければ、まずその言語を滅ぼせ』と言ったと言われている。一民族の文化の基礎はその母語だ。これを失えば、民族が滅びると分かっているのだ。中国はいろんな方法で同化政策を進めている。ツェリンをはじめ生徒たちもこのままでは自分たちの言語が失われ、文化が消え、民族が滅ぶのではないかという不安を抱えていたのだろう」という。

2010年3月14日、この日は2008年にラサで中国側言うところの『暴動』が起った日であった。突然、街の中心街の路上にマチュ県蔵族中学校の生徒30人余りが飛び出し中国政府のチベット政策に抗議するデモを行った。そして、この中学生たちのデモを目撃したチベット人たちは続々このデモに参加し、その数は500~600人になった。部隊が出動し、少なくとも40人が拘束された。その後、拘束者解放を訴えるデモも起っている。デモで生徒や他のチベット人たちは「チベットの自由、独立」を訴えたと報告されており、この時彼らはまだ「言語自由」を訴えていたわけではない。

この後、政府がこれまでチベット語であった数学、科学、社会等の教科書をすべて中国語の教科書に変える方針を打ち出した。これに反発し、2010年の秋にはアムドの各地で中学生を中心に「言語自由、民族平等」を訴える大規模なデモが連続して発生している。

マチュ中学校では生徒がデモを先導したとして、その責任を学校の校長とその他2人の職員が取らされることになった。この教師たちは生徒にとても人気がある教師であった。生徒たちはこの処分撤回を求め5月に再びハンスト等のデモを行った。

この時の事情を親族の夫が説明してくれた。もっとも、この時責任を取らされたとメディアが伝えた3人の内2人しか知らないという。「校長と生徒指導の先生が責任を取らされた。校長は一般教師に格下げされ、生活指導の先生は役所の治水課に転勤となった。このことが生徒たちにはショックだったようだ。2人とも生徒に人気のある先生だった。校長は詩も書く文筆家として有名だった。生徒指導の先生はダミニェン(チベットの弦楽器)がうまかった。それで、生徒たちは彼らへの処分を撤回せよというデモを再び行ったのだ」という。

そして、「ツェリン・キはこの2つのデモに参加していた」という。夫は「このことも焼身の原因の一つと思われる」という。

母親との最後の2夜

2012年3月3日、ツェリン・キは焼身した。その日、長い冬休みが開け新学期が始まろうとしていた。ツェリンは家族と別れる最後の2夜、母親と共に寝た。「母親が言うには、この2夜の間、ツェリンは母親がもう寝ようと言っても、どうしても寝ようとせず、母親に『何でもいいから話しをしてくれ』とせがみ続け、夜通し話し続けていたという。途中で『チベットのためになにかできなければ人生に意味はない』と言ったという。最後には『お母さんと話しができて本当に楽しかった』と何度もいい、『お母さん自分のことは何も心配しなくていい。私は幸せだ。何の問題もない。勉強もちゃんとできる。明日学校に行く。2人ともお元気で』といったそうだ」と親族。

「ただ、おじさんの一人には学校へ行く前に『ンガバ等でチベット人の焼身が続いている。私には彼らの気持ちがよくわかる。このままでは将来チベットは増々困難な状況になるだろう。チベットのために何かできなければ、生きていても意味がない』ともらしたという」。

いよいよ、家を出る時、父親が500元をお小遣いとしてツェリン・キに渡した。ツェリンは「もうお父さん、お母さんには会えないかもしれない。500元もらったことだし、好きな人と結婚してもう帰って来ないかもよ」と冗談めかして言ったという。お母さんは「あんた学校に行かないで結婚してどうするの」と。「大丈夫、500元もらったから新しい服を買って学校に行こうかな」とツェリン。

シャパレはいらない

親族は続けて語る、「母親は『シャパレ(チベット風肉餃子揚げ)を持って行かなきゃ』と言った。ツェリンは『今日はいらない。シャパレは持って行かない』という。母親は『なぜ今日は持って行かないの?いつも持って行くじゃない』という。ツェリンは『今日はいらない。シャパレを作るなら、家で皆で食べて、ロサのように楽しんだらいい』と答えたそうだ」。

焼身、死亡

2013年3月2日、ツェリン・キは家族と別れマチュの街中にある母親の兄弟の家に向かった。最後の夜はそこで過ごした。翌日3月3日、いとこにバイクで学校まで送ってもらった。しかし、彼女は学校の正門が近づいた時、送ってくれたいとこに「もうここでいい。ここで下ろしてくれ」といい、学校に着く前に下りた。そして、学校には向かわず、ガソリンスタンドの方へ向かった。

最初のガソリンスタンドでは売ってもらえなかったが、2つ目のガソリンソタンドで彼女は5リットルのガソリンを手に入れたと言われる。

89103a43ツェリン・キの焼身に関する報告を行うドルカ・キャップ。

焼身の顛末について、同じマチュ出身の元政治犯ドルカ・キャップは焼身2日後にダラムサラで行われたツェリン・キの冥福を祈るキャンドル・ライト・ヴィジルの集会で以下のような報告を行った。

「ツェリン・キは午後3時頃、ガソリンを買ってマチュの野菜市場に向かった。市場の中にあるトイレの中でそのガソリンを浴びて、外に出て火を点けた。何か叫んでいたというが何と叫んだかははっきりしない。その野菜市場で野菜を売る者はほとんどが中国人だ。彼らは燃え上がるツェリン・キに向かって石を投げたという。また、警官を呼び、駆けつけた警官たちも燃え上がる彼女を殴り倒し、倒れた後も暴力を加えたという。彼女はその場で死亡したが、火傷により死亡したのか、暴力により死亡したのか分からないと話す目撃者もいた。

彼女の遺体が運び去られた後、すぐに市場は保安部隊により封鎖され、中にいた全員が夜9時ごろまで拘束された。そして、全員の携帯電話がチェックされ、中に焼身の写真がないか、誰かに連絡をとったかなどが調べられた。決して焼身のことを外部に漏らすな、と命令された。付近にあるネット屋もチェックされた。

また、彼女の出身校であるマチュ蔵族中学校にも大勢の保安部隊が押しかけ、学校は閉鎖された。中では愛国再教育が行われ、彼女を知る、友人やクラスメートなどはすべて尋問を受けた。

マチュの役人や警察は緊急会議を開き、『ツェリン・キの焼身の理由は恋愛関係のもつれ』ということにしようと決定された」

残された家族

親族がいう、「母親は娘が焼身したことを夜中の12時頃になり初めて聞いた。母親は私に『娘は家や学校に対しては何も問題なかった。娘が自分でやるべきだと決めたことだからもう私には何も言うことがない。その夜は泣きもしなかった。』といった」という。

父親の方は?と聞くと、親族は「父親は何も言わない。母親のためにも気丈にしていなければと思っているのだろう」という。夫は「父親が警察に呼ばれたのだ。警察は『遺体が欲しければ、誰にも言わずに、すぐに火葬しろ』と遺体を引き渡した。ツェリン・キの遺体には喉から腹まで切って開いた痕があり、縫われていた。父親には『病気の有無を調べるために手術した』と説明された」という。

親族とその夫に「なぜツェリン・キは焼身することを決心したと思うか?」と質問する。夫がこれに答え「私たちは外にいてすぐ近くにいなかったから分からない。学校の親しい友人にひょっとしたら何か話していたかも知れないが、遺書もないので何ともいえない。ただ、チベットで焼身する人たちのほとんどは、愛国心からチベットの将来を心配してそうしたのだろうと思う。ほとんど皆ちゃんとチベット語ができて、状況を知り、考えることができる人たちだ。最近は携帯を通じて焼身のニュースはすぐに伝わる」という。

最後に家族は当局に今も見張られているか?と聞いてみた。「最近は表立ったことは何もないらしい。もっとも、誰がどこで見張っているかは分からないことが多い」と。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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