チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2013年11月2日

ダンゴ:亡命者によりはじめて明らかにされた一家族の悲劇

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ユンテン・サンポ

ユンテン・サンポ

中国の旧正月に当たる2012年1月23日、カム、ダンゴ(四川省カンゼチベット族自治州炉霍県炉霍)で千人以上のチベット人が政府のチベット人弾圧に抗議するデモを行った。これに対し当局は無差別発砲を行い、その場で2人が死亡、30人以上が被弾負傷した。負傷者たちは一旦ダンゴ僧院に匿われ応急処置を受けたが、その後逮捕を恐れ山に逃げた。

当局は彼らを追うために山狩りを始めた。2月9日にはデモに参加、負傷した後自宅に隠れていた僧イェシェ・リクセル(40)とその弟イェシェ・サムドゥップ(38)を射殺した。また、この時もう1人の弟ユンテン・サンポや母親、子供たちも撃たれた。ユンテン・サンポは重傷を負ったまま逮捕され、その後死刑を言い渡されたが、これに対し地元チベット人が執拗に無実を訴えた結果、死刑から無期、無期から3年の刑に減刑され、ことし4月に自宅に返された。しかし、ユンテン・サンポは被弾の後遺症と拘留中に受けた拷問により非常に衰弱した状態が続いていると伝えられていた。

最近、彼らをよく知るあるチベット人がインドに亡命しダラムサラに到着した。彼と接触した私は彼から口頭と書面で、この家族に何があったのかを詳しく知らされた。これまでにも断片的な情報は流れていたが、これほど詳細な報告ははじめてである。以下、彼の貴重な報告をそのまま日本語に翻訳する。(小見出しは訳者が付けた)

参考過去ブログ:<閲覧注意>23日、ダンゴで被弾した死傷者の写真
ダンゴ、セルタ事件に関する中国側の発表等
ダンゴで1人の僧侶が当局により撲殺 8ヶ月後に判明
ダンゴ:平和的抗議デモ参加者16人に無期を含む懲役刑
ダンゴで負傷し山に逃げていたチベット人2人が銃殺される
山狩りで銃殺された2人の兄弟の母親も撃たれ、その腕は切断された
ダンゴで口を撃たれた政治犯解放 兄弟は射殺
(過去報告によれば、殺された兄弟の兄・弟の関係が今回の報告と逆になっている。またユンテン・サンポが解放された日にちは2013年6月20日とされていた)

突然の襲撃

2012年2月9日の早朝、まだ暗い内からダンゴ県の警官隊と武装警官隊が共同でトパ地区やガタク・ギェギョンガン地区に分散し、先の1月23日の抗議デモに参加し負傷し山に逃げていたチベット人の捜索を行った。この日、僧イェシェ・リクセルがそのターゲットの1人だった。部隊はジラ村にあった彼の家族の冬の家に近づいた。

その日、朝7時頃、イェシェ・リクセルの兄嫁であるナムドンが起き上がり外に出た時、三方から部隊が家に向かって来るのを目撃した。特に黒い服を着た部隊が先頭で走りながら近づくのを見た。彼女は取り乱し、すぐに家に帰り、戸を閉めながら、中の皆に「部隊が来た!」と叫んだ。

すぐその後、黒ずくめの部隊が戸を蹴破り、中に入ると同時に発砲した。イェシェ・リクセルの兄であるイェシェ・サムドゥップはこの非道を見て彼らとやり合い、銃で1人を殺し、2人を負傷させた。しかし、彼も撃たれ、その場で死亡した。僧イェシェ・リクセルも撃たれ、彼らの母親であるサンラも腕を撃たれた。

死を覚悟した僧イェシェ・リクセルは弟のユンテン・サンポを呼び遺言を伝えた「今日、部隊が家族全員を殺そうとしても、お前は必ず生き延びて両親と子供たちを見守れ。今回の事件は中国とチベットの問題から始まったものであり、チベット人すべての苦楽に関わることだ。だから、将来どんなことがあろうと復讐しようと思ってはならない」という言葉を残した。

子供たちへも発砲

その日、家には下は4歳から上は14歳までの子供が9人いた。子供たちはこの惨劇を見て泣き叫んだ。イェシェ・リクセルはユンテン・サンポに子供たちを連れて、彼らに手を上げて降参しろと命令した。ユンテン・サンポは言われた通りに子供たちを連れ、家の外に出たが、部隊は直ちに彼らに向かって発砲し、ユンテン・サンポと子供5人が撃たれて倒れた。次いでイェシェ・サムドゥップの妻ナムドンが残りの4人の子供と共に外に出た時には発砲はされず、すぐに手錠が掛けられ、荒々しく部隊の傍に座らされた。

その後、部隊は家の中に入り僧イェシェ・リクセルに再び銃弾を浴びせ殺害した。絨毯等も剥がしながら家中を荒らし、家にあった6200元を奪った。また、僧イェシェ・リクセルがインドに亡命しダライ・ラマ法王から直接僧侶の戒を授かった時に頂いた金の仏像も奪い去られた。外ではバイク1台が焼かれ、もう1台にも銃弾が浴びせられ壊された。飼われていた犬まで殺され、2人の遺体と共に、犬の死体まで運び去られた。

被弾したユンテン・サンポと母親のサンラ、それに5人の子供はトラックに乗せられカンゼ県の警察署に連行されたのち行方不明となった。15日後に母親のサンラと5人の子供は解放され家に帰された。その間、彼らがカンゼの病院に収容されていたことが判明した。負傷した5人の子供の内3人は完治したが、内2人は傷口が塞がったのみで未だに後遺症が残っているという。68歳になる母親は撃たれた腕を切断せねばならなかった。彼らが警察署に連行された後、ユンテン・サンポにはさらに暴力が加えられたと彼らは証言している。その後、ユンテン・サンポの行方は分からなくなった。

ユンテン・サンポに死刑宣告

15日ほど経ち、ユンテン・サンポが死亡せずダルツェンドの病院に収容されているらしいという情報が入ったが、容態は知ることができなかった。20日後には彼がダルツェンドの刑務所に収監されたことが判明したが、何らかの判決が下ったのかどうかや容態については不明のままであった。

1ヶ月ほどしてユンテン・サンポの自宅にダルツェンドの裁判所から手紙が届いた。その中には、ユンテン・サンポが公務執行妨害を行い、警官1人を殺害、2人を負傷させ、さらに自宅に爆発物と長短合わせて3丁の拳銃を保持していたが故に彼を死刑にすると書かれていた。もしも言うことがあるなら15日以内に連絡するようにと付け加えられていた。

これを知った、近隣の住民と遊牧地域の代表たちは連帯し、「ユンテン・サンポは警官を殺してなどいない。彼は爆発物や拳銃などまったく持っていなかった。このような嫌疑はすべて地元警察がでっち上げた嘘である」という手紙を書き、それぞれが名前を書名した。これをダルツェンドにあるカンゼチベット族自治州のすべての関係部署と裁判所に提出した。これが功を奏し死刑は無期懲役に減刑された。

さらに、住民と代表たちは「ユンテン・サンポはまったくの無実であるから即時解放せよ、彼と我々は生死を共にする」との決意を示し、裁判所に対し何度も誓願を繰り返した。その結果、ついに彼の刑は3年に減刑された。そして、容態を考慮し、その3年も自宅監禁という処置が取られた。こうして2013年4月21日、ユンテン・サンポは非常に衰弱した状態ではあったが、自宅に帰ることができた。しかし、毎月警察署に出頭しなければならず、自由な移動は禁止されたままである。

重傷の彼をさらに拷問

兄弟2人が撃たれ、死亡した時、ユンテン・サンポも2発の銃弾を受けた。一発は頬に命中し、頬骨を砕き喉も負傷した。もう一発は背骨に命中していた。このために彼は意識を失ったり、取り戻したりを繰り返していたが、カンゼの警察署に連行された後、そのような彼に対しても警官は暴力を加えた。呼ばれた医者は今なら彼はまだ生きる可能性があるといい、すぐに救急車を呼び病院に運んだ。このことがなければ彼は警察署で死亡していたかも知れないと思われている。午後8時には手足を縛られた状態でダルツェンドの病院に運ばれた。

病院に運ばれ1週間ほど後に初めて彼は意識がはっきりし、医者や警官を認識できるようになったという。その後、以下1ヶ月半ほど経ってはじめて立ち上がることができ、視力も回復した頃、ダルツェンドの刑務所に入れられた。刑務所にはダンゴ県の警官が彼を尋問するために何度か来た。彼らは「警官を殺したのはお前で、家に爆発物や拳銃を隠し持っていたと言え」と脅迫した。これを拒否すると、酷い拷問を受けた。殴り倒され、口から血を吐いた。倒れるともう起き上がる力がないほど殴られたという。それでも、彼は11ヶ月間、この偽りの罪を認めることを拒否し続けた。

その後、再びダンゴ県の警察署に連れて行かれた。警官たちは彼を分裂主義者の悪党であるとののしり再び暴力を加えた。それから、2ヶ月間手錠と足かせをはめられ放置された時には非常な苦痛を味わったという。

後遺症 養うべき家族

自宅に帰ることができた後も頬を撃たれ喉もやられた後遺症で声は思うように出ず、長く話すこともできなくなった。背骨を撃たれた後遺症で今も動くと強い痛みを感じるという。このようであるので、殺された僧イェシェ・リクセルの遺言であった家族を守るということは到底できない状態である。家にはイェシェ・サムドゥップの妻と彼ら2人の子供4人、腕を切り落とした母、71歳になる父、それに本人の妻と4人の子供、妻の両親が同居するが、衰弱したからだで彼らを養うことはほぼ不可能であり、子供たちをいつまで学校に通わせることができるか分からないという。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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