チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2013年10月13日

恩師ゲシェ・ソナム・リンチェン師の死

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298a069110月5日早朝、私のツァワェー・ラマ(根本の師)ゲシェ・ソナム・リンチェン師が遷化された。享年79歳。

知らせを受け、冷たくなり顔を覆われた師の下に跪き、泣いた。7日早朝、荼毘に付された。ゲシェラは死ぬ前にトゥクダム(高僧等が死後腐敗せず数日から長い時には1ヶ月もその状態を保つ現象。密教を極めた者が光明の状態を保っている印と思われている)について「回りの人には迷惑なことだ。どうせその後完全に死ぬのに違いない。私が死んだ時にはすぐに火葬にしてくれ」とおっしゃっていた。(20年ほど前のゲシェラの写真以外は荼毘の写真)

私がダラムサラに住み続けた理由の一つは、ゲシェラに会い、仏教に興味を持ったことであった。私は1985年から10年間、ほぼ休むことなく毎日、図書館で行われるゲシェラの仏教のクラスに参加し続けた。そして、その後、ツェンニーダツァン(仏教論理大学)にも6年通った。その間にダライ・ラマ法王からも雨嵐のごとくに教えと灌頂を受けた。しかし、凡人はすばらしい教えを何年聞いても、心の進歩は数ミリ程度である。

26_242ゲシェラとの思い出は尽きないが、ゲシェラの略歴をまず記し、思い出の幾つかを書こうと思う。ゲシェラはやさしい笑顔を絶やさなかったが、同時にいつも非常に男らしく毅然とされていた。

ゲシェ・ソナム・リンチェン師は1934年、カム、カンゼの西にある雪山に囲まれた美しいタルギェに生まれた。家は代々地元の大きな地主であったという。12歳の時、父親の反対を押切りタルギェ僧院で僧侶となった。父親は上の2人の息子がすでに僧侶となっていたので、3番目の息子は僧侶にせず家を継がせたかったのだそうだ。ゲシェラが僧侶になりたかったのは、仏教を勉強したいというより、僧侶が強くてかっこ良く見えたからだという。

18歳の時、本格的に勉強するため、数ヶ月かけラサに行き、セラ僧院ジェ学堂に入った。1959年、25歳の時、ラサ蜂起が起こり、ダライ・ラマ法王の後を追い、インドに亡命する。アッサムに抜ける道を辿ったが、それは未知・未開の少数民族の土地を抜ける、大変厳しいものであったという。ゲシェラの生まれた家は文革時、支配階級であったとして破壊され、家族の何人かは殺された。

亡命した僧侶たちはアッサムのバグサと呼ばれるキャンプ地に集められた。住居は何年もテントのままであった。ゲシェラはそこで8年を過ごした。灼熱と食料不足もあって、多くの仲間が病死したという。それでも仏教の勉強は絶えることなく続けられた。

26_250その後、ゲシェラはサルナートに新しくできたサンスクリット大学に送られ、そこで8年勉強を続け、アーチャリアの称号を得た。住居は屋根も壁もトタン板で、夏はあまりの暑さに蚊さえも死んだという。その後、ダラムサラの図書館に職員として呼ばれた。ゲシェの試験を受けたのは1980年という。1980年から図書館の仏教上級クラスの教師となり2012年まで30年以上も教え続けられた。オックスフォード大学出の弟子ルース・ソナムの巧みな通訳のせいもあり、ゲシェラのクラスはいつも世界中から集まった外人とチベット人で一杯だった。

ゲシェラの英語の本としてはルース・ソナム女史が翻訳・編集したアーリアデーヴァの『四百論』やナーガルジュナの『六十頌如理論』等多数出版されている。

ゲシェラは図書館が休みとなる冬には特によくオーストラリアとニュージーランドに呼ばれ、巡回講義をされていた。2年前にニュージーランドに行かれた時、吐血され、検査の結果胃がんと診断された。医者は手術を勧めたが、ゲシェラはそれを断り、死を覚悟しながらも、その後1年以上授業を続けられた。数ヶ月前から自分で食事をとることができなくなり、ひどく痩せられた。

1ヶ月ほど前、ダライ・ラマ法王がヨーロッパに向かわれる時、お見送りのためゲシェラは車椅子に乗り道端で待っておられた。ダライ・ラマ法王を乗せた車はゲシェラの前で止まり、法王は車から下りられて、ゲシェラの下に来られ、ゲシェラを強く抱きしめられた。そして、「あなたはもう多くの弟子に教えを授けられた。為すべきことはすべてなされた。何も心配することはない。来世またカムで元気な男の子として生まれることは間違いない」とおっしゃったそうだ。

これは、ゲシェラの弟子の1人で法王の側近をしている外人がゲシェラの状況を法王に話し、できればその日会って欲しいと申し出ていたからであった。もっとも、法王が途中で車から下りられるということは稀なことである、その時まで本当に法王の車が止まり、法王が外に出られるとは誰も思ってもいなかった。

ゲシェラはこれでもう何も思い残すことはなくなったことであろう。死の直前、ゲシェラの息が変化したことに気付いた弟子のニマがゲシェラに「ラマチュパ」を唱えましょうかと尋ねた。ゲシェラは「そうして下さい」と答えた。最期であることを悟ったのである。意識は死ぬまで明晰であったという。痛みは最期まで一度も訴えられなかった。そして、弟子たちが読経するなか、静かに息を引き取られた。

26_246私がゲシェラに最初に出会ったのは1984年の秋、亡命政府から建築家としてダラムサラに来て仕事をしてもらえないかと要請され、その下見に来た時であった。ある日本人の知り合いからダラムサラに行くなら親友のルース・ソナムに手紙と土産を持って行ってくれと頼まれていた。そこでダラムサラに着いた次の日にルースの家を尋ねて行った。ちょうどその時ルースの家にゲシェラがいらしたのだ。

丸顔で笑っているが、ちょっと怖そうでもあるなと思った。挨拶すると、ルースがついてだから何か仏教のことを尋ねるといい、という。とっさのことで何を質問したものかと思ったが、「オンマニペメフンの意味は?」と聞いた。すると、ゲシェラは観音菩薩の説明からはじまり、その観想を含め相当詳しい説明をされた。そして、これから毎日今教えた観想を行うといい、とも言われた。家を出る時、ルースが「今の話しはすべて覚えておけないだろうから、明日、書起したものを届けましょう」と言った。そして、その通り次の日には何ページにも渡る説明が手書きされたノートが届けられた。私はその前からチベット仏教に興味を持っていた。これは何かの縁と、その日から私はまじめにその教えられた観想を続けることにした。そして、必ずダラムサラに戻りこの先生に付いて仏教を勉強しようと決心した。

一旦日本に帰り、次の年の春幼い子供2人と妻を伴って、ダラムサラに戻り、情報国際関係省の職員となり建築の仕事を始めた。ゲシェラが図書館で毎日授業をされていることを知り、事務所に断り、毎日11時から1時間その授業にでることの許しを得た。まだ若い私は仏教にのめり込み、朝は図書館の前で五体投地をし、数珠を手にオンマニペメフンを唱えながら歩いた。授業はすべてノートした。次々頼まれる仕事や幼い子供の世話も忙しいというのに、その上タンカ(仏画)を習ったり、タブラを習ったりとインドの田舎なのに寝る暇もないぐらい忙しくしていた。

26_241数年後には、もっと自由になり仏教を勉強する時間がほしいと、政府の職員は辞して、山の上の水道もガスもないような小屋に住み始めた。その後5年間ほどは水を運び、薪だけで暮らした。

ゲシェラは選ばれた弟子だけを対象に特別クラスも行っていた。弟子の要請で密教も教えていた。そんなクラスでは驚くほど詳しい説明や観想について説かれていた。そのころはダライ・ラマ法王もチベット正月開には2週間に渡る講義を行われていた。そのころの詳細な説明に比べると、最近のティーチングは時間の制約が多く要約程度なのが惜しまれる。

4年ほど経った時、私は意を決して、ゲシェラに「僧侶になりたいのですが」と申し出た。しかし、ゲシェラは「お前には家族がある。僧侶にならなくても仏教は勉強できる」と言われ、許可してくれなかった。その後、今度はダライ・ラマに直接会う機会があったとき、法王にも「僧侶になりたいのですが」と申し出た。しかし、法王も「あなたには家族がある。もっと仏教を勉強したいならツェンニーダツァンに入ればいい。私が話しをしよう。僧侶になる必要はない」と言われ、やむなく僧侶になることは諦めるしかなくなった。この時、(勝手に)僧侶になっていれば、人生まるで違っていただろうと思うこともあるが、ま、私には一生僧侶はやれないだろうと判断されたに違いないとも思う。

私がこれほど仏教にのめり込んだのには、理由があった。若いころの悪行のせいで心に人に言えぬ傷があったからだ。ダラムサラの裏山のピークは5千メートル弱であったが、その麓にはかしこに草原があり美しい場所が多かった。私は山登りにも凝って、最初は週末ごとに、その内シーズンには毎日山に行き、そこかしこの洞穴で寝るということを始めていた。無茶な岩登りや雪の中の登山もやって何度か死んでいてもおかしくない転落、滑落事故にも遭った。

DSC_77834千メートルほどの所にある洞窟に暮らし、早朝そこを出て図書館まで5時間ほどかけて下り、授業の後また洞窟まで6時間かけて登るという生活を数ヶ月続けたこともあった。そんな私を見て、ゲシェラは「お前は最近山に暮らしているそうだな。洞窟で瞑想しているのか?私はまだ、お前にすべて教えたつもりはない。どうせ瞑想と言っても正しいものではないであろう。家族もいるのだから、もうそんなことは止めなさい。とにかく、普通にすることだ、外見も行動も、心も普通にすることを心掛けるべきだ」と諭された。雪の中裏山のピークに登り死にそうになったこともあり、私はそれから山に行くことを止めた。

私はゲシェラに精神的危機と身体的危機二つともに救われたと思っている。

26_252抜けたと思っても何度もやって来るのがサンサーラというもの、その後もいろいろあり、何度もゲシェラには心配を掛けたが、やっと歳も十分取り、自然に落ち着いて来たこのごろである。そして、親代わりであったゲシェラは亡くなってしまった。これから1人だけの本当の余生が始まったようだ。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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