チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年8月9日
8月6日にカトマンドゥで焼身・死亡した僧カルマに私は会っていた
8月6日にカトマンドゥで焼身し、死亡した僧カルマ・ゲドゥン・ギャンツォ。彼の生前写真が次の日にネットにでたのを見て、私はどこかで会ったことがあるような気がした。彼は足が悪かったという記事を見て、はっとして、嘗てのブログを探って見た。
2011年11月末に彼は一度インドに亡命し、ダラムサラのネレンカン(難民一時収容所)に滞在していたことがあった。私はTibet Timesに載った彼へのインタビュー記事を訳しブログに載せた後、彼に会いにネレンカンに行ったのだった。
2011年11月末、ダラムサラ、ネレンカンに滞在中の僧カルマ・ゲドゥン・ギャンツォ。
下半身麻痺の彼は両手の下に靴代わりの木の塊を持ちながら、手だけで移動していた。それでも、笑顔を絶やさず、快く色んな質問に答えてくれた。ひょいひょいと手だけで階段を登ったりするところも見せてくれた。
彼はあれから一旦チベットに帰り、再び数ヶ月後にネパールに入っていたのだ。
そして、今回ボドゥナート仏塔のすぐ傍で焼身抗議を行い死亡した。私は彼だと分かった時、彼の笑顔を思い出し絶句し涙した。彼は手だけで、チベット中を巡礼した。中国の警官にいじめられながらも何千キロも巡礼した。苦しみを味わい続け、それを乗り越えて来た彼がどうして今回焼身を行ったのか?
聖なる仏塔の傍でチベットのために自らを灯明と化すことが、彼の今世最後の決意だった。来世に再び五体満足なチベット人として生まれ代われることを心から祈る。
ネパール当局が彼の遺体を早急にチベット人コミュニティーに引き渡し、来世を確かなものとする法要が行われることを強く願う。
僧カルマ・ゲトゥン・ギャンツォ(ཀརྨ་ངེས་སྟོན་རྒྱ་མཚོ།)は10代の時、両足が麻痺する病気に掛かった。彼は両手だけを使って、最近カイラス山経由でネパールに入り、インドへの亡命を果たした。
彼の人生やチベットの現状についてTibet Timesの記者がインタビューした記事http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=5185を以下要約してお伝えする。
彼はラサの北ダムシュン・ヤンパチェン(འདམ་གཞུང་ཡང་པ་ཅན་)の出身。13歳の時僧侶となり地元の僧院に入った。しかし、丁度そのころから両足が立たなくなり始めたという。仕方なく家族の下に帰り、5年間治療を続けたが足の麻痺は治らず、足が曲がったままになった。その後再び僧院に復帰したが、当局は僧侶の資格を与えず、ついに去年2月当局により完全に僧院から追い出された。
彼はそれから両手だけを使い巡礼の旅に出た。各地を巡った後、最後にマパムユムツォ(མ་ཕམ་གཡུ་མཚོ་マナサロワール湖)とカンティセ(གངས་ཏི་སེ་カイラス山)に辿り着いた。そこからラサには帰らずに、南に下りネパール西北の国境を越えカトマンドゥの難民一時収容所まで辿り着くことができた。今月17日、ダラムサラの収容所に到着した。
彼の所属していた僧院の現状に付いて彼は語る。「ヤンパチェン僧院には最初70人ほどの僧侶が居たが、当局は様々な規制をかけ40人程にしか僧侶の許可証を与えなかった。他の僧侶には僧院に出入りすることも禁止した。僧院でチャム(仮面舞踏)やモンラム(祈祷会)を行う場合でも前もって数ヶ月前から政府の許可を取る必要があった。そのために役人に金や贈り物を渡さなければ許可は下りなかった。県や郷の責任者は全て中国人であり、その下にチベット人が働いている。中国人の役人たちは下のチベット人に対し、僧院に規制をかけたり、嫌がらせをすることを強要する。結局、チベット人がチベット人と対立するように仕向けているのだ」
「当局は私に僧侶の許可を与えなかった。10年間、僧院側は私を追い出しはしなかったが、僧院に居ること自体が法律に違反する状態であった。ついに去年2月、当局は私を完全に僧院から追い出した。その後巡礼をしている間も僧侶の許可証を持っていないので、至る所で警官からきつい仕打ちを受けた。僧衣を着ることも違反だと言われた。私は自分は障害者で仕事ができず、僧衣を着ているのも乞食同様に食いつなぐために仕方ないのだ、と言ってなんとか許してもらっていた」
記者の「中国政府は障害者に対し援助を与えたりはしないのか?」との問いに、「政府から一度だけ障害者への援助だと言って、肉1キロ、バター1キロ、ツァンパ1袋を渡されたことがある。その他にはどんな援助もしてもらったことはない」と答える。
記者が「チベットを巡礼しながらどんなことを見聞きしたのか?」と問う。
「チベットと言うものは、もう無くなりつつある。例えば、その自然に付いてだが、2005年に地元の山で鉱山開発が始まった。5、6年の間、1日に何百というトラックが行き来して鉱物を中国に運び出した。結局山はすっかり姿を消してしまい、鉱山も閉鎖された。中国は地元に利益をもたらしていると宣伝するが、そんなことは全くない」
「トゥガリ(西チベット)の方に巡礼に行ったが、途中出会う僧侶も本当に僧侶の戒律を守っている人は少ないように見受けられた。どこへ行っても、中国人の方がチベット人よりも多く、町は中国の町になっていた。チベットの昔ながらの文化、慣習も計画的に破壊されていると思えた」
同じように収容所に収容されている若者たちを指差しながら、「あの子供たちも中国語ばかり習い、しゃべるのも中国語だ。チベット語を知ってる者は少ないんだよ」と。
最後に「中国政府は中国ではみんな調和の中に暮らしていると宣伝しているが、本当には少数民族、特にチベット人には法律に書いてあるような権利はない。不当な扱いを受けても、結局訴える場所や相談に行く所はなく、中国人は何でもやりたい放題だ。中国には法律も無く、規律もないに等しい。喩えれば国全体がマフィアのような所だと思う」と。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)