チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2013年7月17日

続報:タウ発砲事件

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1045060_10151743435691678_840169016_n7月6日、ダライ・ラマ法王の78歳の誕生日を祝おうとしていた人々に中国の部隊が無差別発砲を行い、多数の重軽傷者がでたというニュースは先に伝えた>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51795612.html

事件から一週間以上経ち、漸く事件の詳細が明らかになって来た。同時に、負傷者の数も当初言われていたよりも大幅に増加した。

現地と連絡を取った、在ダラムサラ、タウ出身元政治犯ロプサン・ジンパが、名前を上げて報告するところによれば、現在まで判明した被弾者の数は14人、暴行により負傷した人の数は15人という。頭に被弾した僧タシ・ソナムや8カ所に被弾したウゲン・タシ等は今も重体のままという。暴行を受けたチベット人の中にはヤマ・ツェリンという72歳の老人も含まれ、彼は肋骨4本が折られたという。その他、環境保護活動家として知られるキャソル・ギャンツォも肋骨2本を折られ、デキ・ゴンポは片方の耳が聞聞こえなくなった。さらに、これらの負傷者を含む18人が拘束されたが、彼らは僧侶や住民多数が抗議した結果、次の日の夜中に解放されている。拘束者の多くは負傷していたにも関わらず、拘束中に電気棒等による拷問を受けたという情報もある。

PAP_climbing-down橋の上に集結する部隊と行く手を阻まれたチベット人たち。

部隊がチベット人たちに襲いかかった場所は、最初言われていたマチェン・ポンラの丘の上ではなく、丘の麓にある橋のたもとであった。丘の上での祝賀会が終わり、帰る途中のことであった。まず、ここで2011年にタウで焼身抗議を行い死亡した尼僧パルデン・チュツォの弟である僧ジャンチュプ・ドルジェが運転する車が部隊により止められ、部隊の投石により、車の窓等が壊された。これを契機にチベット人たちと部隊の間で口論がはじまった。チベット人たちは「どうして、尊敬するラマの誕生日を平和的に祝うことができないのか」と主張した。

緊張が高まったので、このままでは大変なことになると判断したニャンツォ僧院の僧院長が仲裁に入り、部隊を指揮していたツェリン・ゴンポに対し「あなたは県武装警官の高い地位にあるのだから、深刻な事態にならないように気をつけるべきだ。このままだと、地域のチベット人の苦しみが増すばかりだ。事態を収めようと思わねば、いつタウ全体がコントロール不能の状態になるかわからない」と警告したという。しかし、隊長のツェリン・ゴンポは僧院長の言葉に耳か貸さず、部隊に発砲を命令したという。情報を伝えたロプサン・ジンパは「この時に隊長が僧院長の話しを受け入れていれば、こんな事件にはならなかったはずだ」と言う。

その日の夕方には約3000人のチベット人がニャンツォ僧院の中庭に集結し、武装警官隊の行動を非難し、拘束者の即時解放を要求した。人々は当局に対し、拘束者をすぐに解放しない場合には、子供たちを政府の学校から引き上げさせ、抵抗のための耕作拒否運動を行い、県内の幹線道路を封鎖すると脅した。その他、タウ市内の8カ所でも同様のデモが行われたという。このとき先頭に立っていたのは尼僧たちであったとも言われる。

Nyatso_Khen_Rinpoche部隊が発砲する前。

県内全域蜂起の恐れを抱いた当局は、拘束者全員を次の日の真夜中に解放した。多くの拘束者はそのまま病院に運び込まれた。また、当局はこのとき合わせて13000元の治療費を出す事を申し入れたが、チベット人たちはこれを完全に拒否。治療費はニャンツォ僧院が全額負担したという。

これに対し現地の1人のチベット人は「中国は不都合な事態や違法な行為もすべて金で解決できると思っている。長年このやり方でやって来た。7月6日に起ったことは残酷であり、違法なことだ。金で解決できることじゃない」と言う。また別のチベット人は「我々には彼らの金は必要ではない。我々は彼らに我々の意志を尊重し、現実を認識し、我々の正当な苦しみを考慮してほしいのだ」という。

参照:7月17日付けTCHRD英語リリース http://www.tchrd.org/2013/07/more-injured-by-gunshots-than-earlier-reported-in-tawu-shootings/#more-2388
7月10日付けTibet Times チベット語版 http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=7879
その他。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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