チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年7月3日
ダライ・ラマ法王ダラムサラ・ティーチング
78歳のお誕生日7月6日を前にしたダライ・ラマ法王は月初めから3日間、ダラムサラのツクラカンでティーチングを行われた。今回ティーチングをリクエストしたのはベトナムグループ。僧俗ベトナム人約300人が参加した。そのお裾分けに預かって参加した外人は日本人約20人を初め59カ国から約700人。その他、チベット人僧侶1500人、俗人1500人、合わせて約5000人が参加した。
最初の予定では午前のセッションのみで2日間とされていたが、1日延びて3日間のティーチングとなった。最後の日には薬師如来の灌頂も行われた。
今回のテキストはジェ・ツォンカパの「修行論の三要素(ལམ་གཙོ་རྣམ་གསུམ།)」。悟りへの階梯を出離、菩提心、智慧(空性理解)として、それらの要点をわずか14の偈で説いたお経である。
講義の初めにはベトナム語で般若心経が唱えられた。非常に特徴的なポンポンと跳ねるような節回しであった。
最初に法王はベトナムグループに対し、「ベトナムの人々の多くは仏教徒である。大乗仏教が伝わった国であり、中国経由で大蔵経が伝わっている。21世紀の仏教徒として、仏教の何たるかを理解して信を起こすべきである」といつものように仏教を理解することの重要性を説かれた。
今回、法王は最初から主に空の話をされた。初っぱなから般若心経の解説をされた。その「色即是空、空即是色」の部分は以下。
般若心経の中で、五蘊は自性が空であるとされ、まずその中で色(物質的現象)を取り上げ「色即是空、空即是色」と言われている。「色即是空」とは、「色」は他に依存して設定されたものであり、また原因と条件により生じたものだから、「色」は他に依存しない仕方で生じたものではないということである。依存して生じたのだから、依存しないで生じたのではない。だから、他に依存しないで、独立的に存在しているのではない。このように他に依存しないで、独立的に、自性として存在していないことを、自性として空というのだ。これが「色即是空」と言う意味だ。だから、「色」は「空」の性格を持つ。
一方「空即是色」というは、自性が無いが故に、原因と条件に依ること、他に依存することができると言っているのだ。自体として成立しているならば、他に依存する必要はないということになる。他に依存しないとすれば、原因と条件に依ることはあり得ないことになる。だから、これを「空即是色」という。
現象とは元々何かに依ることにより現象たり得るのであるから、自体(実体、自性)として存在しているのではない。自体が無い(空)が故に、現象は現象として成立することができるのだ、と説かれる。別の言い方をすれば「縁起即空、空即縁起」と言う事。「これが有る時、あれが有る。これが無い時、あれも無い」という原始仏教でも説かれる縁起観に依り、空観を導く中観派の論理である。
「何かに依って存在するものには自体がない」ということを、まずは、よくよく考えてみるべきである。
法王は同時に、「何故仏陀は空を説かれたのか?」という「空用」の話をされ、まず人無我(主体の空)を取り上げる。
(外道も一般的に)外界の快をもたらす対象に執着するが故に不善をなすというが、仏陀は外界の物質的現象のみでなく、特に執着する側の自己について分析する。仏教以外はすべて外のことばかり分析し、心のあり方については深く分析しない。仏陀は無我ということを説かれた。諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静と説かれた。涅槃寂静というは諸法無我を達見したならば、煩悩の束縛から解放され涅槃寂静を得る事ができる、これを得るならば恒久的な幸せを得ることができると説かれた。
2600年前に仏陀のみが「無我」ということを説かれた。世界の他の全ての宗教は実体的「我」の成立を認める。仏陀が無我と言う時の「我」、他の宗派が「我あり」という時の「我」とはどのようなものなのかというと、それは私たちが普通に何も分析することなく「私が行く」とか、「私とあなた」という時の「私=我」について言っているのではない。「我」の実体を認める宗教・哲学学派は思考を巡らし、まず「私の身体」「私の心」と言う場合を考える。「私の身体」と「私の心」は変化するが、この時、変化する「身体と心」を支配するような変化しない「私=我(アートマン、魂)」を立てる。
例えば、私はもう77歳、もうすぐ78歳になるが、78歳のおじいさんの身体が、幼少の時もあったなんてことは考えないだろう。でも、若いときの私、中年になってからの私、年老いた時の私と言う時、私は一緒だろう。私が生まれた時とか母親の体内にいたときも同じ私だろう。これに対しあまり深く考えないで、私とは身体と心を支配するものだと考える。支配するものが、支配されるものの中にあるということは不可能なので、五蘊(心身)とは別の私(我)が必要になる。特に、外道で前世・来世の存在を肯定する者たちは、前世・来世に身体や心が連続的に相続されるはずはないので、身体や心を支配する五蘊とは別の私(アートマン、魂)が必要だと考える。
仏陀はそのような私(我)があると考えるならば、無意識的に私があると考える感覚に根拠を与えてしまうと考える。例えば、執着が生まれた時、「私に快いのだ」と言い、「私」と関係なく「快楽」の対象に執着するということはない。「嫌だ」という思いが生じる時、その対象に対し、全ての有情が「嫌だ」と思うはずは無い。「私に嫌なものとして現れる」と感じるのだ。例えば、ある人に能力があればその人に沢山友人ができるであろう。でも、それとは別に、「彼は私に害を及ぼす」と言って、「怒り」を催すこともあるであろう。私(我)、私(我)、私(我)といって否定的感情が生まれるだろう。
仏教ではそのような私は無いというのではない、有るが、でもそのような好き、嫌いの基となるような堅固で実体的な私(我)は無いというのだ。仏陀は長期に渡り、「無我」を説く事で、この執着の基となる私が本当にはないということを説いたが、これは執着を離れさせるために説いたのだ。仏陀の時代にも、仏陀がこのように説いた時、人々は仏陀は虚無主義に陥ったと批難する人が多く現れた。「私(我)がない」と解釈したのだ。現在でも仏陀の説く、「無我」を虚無主義と解釈する人はいるだろう。
仏陀が「無我」を説いた目的は、心を不快にする苦を除くためであり、心の不快感はどこから来るのか、それは執着と嫌悪からだ、執着と嫌悪はどのようにして生じるのか、それは我に執着することからだ、とこのように、詳細な分析を行われたのだ。仏教の特徴はこの「無我」の教えである。
そして、「涅槃(悟り・解放)」とは自己の心の流れの中で「我」を捉えることが無くなれば、これを「解放」と呼ぶのだ。「解放」というのは、外界にある浄土とかについていっているのではない。「解放」とは、煩悩の束縛から解放されることだ。この煩悩から解放された時の心の福徳の資質を涅槃というのだ。
アートマンとか魂と言われるものの存在を信じる人は多い。というか、ほとんどの人は無宗教であろうと無意識的に「魂」のようなものが存在すると思っているのではなかろうか?「我、魂」とはそれぞれの個人に固有の永遠なる、唯一、独立した存在である。これは人の普通の感覚である。仏教はこの普通の感覚、或は考えを否定しているのである。それが、執着心の元、煩悩の元、苦しみの元凶であるからだ。
これを「魂」と言わず、もっと軽く「プライドの基となる確固たる私」と言ってもいいかもしれない。「プライド」にも世俗レベルでは良いプライドと悪いプライドというものがあるのだが、ここでいうプライドは悪い方としておく。プライドが高い人ほど、執着心、嫌悪、嫉妬、競争心などが強いという傾向があり、よって苦しみも多い。プライドの基である固有の私、傷つけられる私なんて本当には無い(空である)ことを理解することにより、プライドから自由になることを考えてみてほしい。
例えば、「ダライ・ラマ法王」だが、ティーチングがあるというと、ダライ・ラマ法王を一目見ようとする日本人はじめ多くの人が集まる。みんな法王の姿を目にすると両手を合わせ敬意を表する。それら、一人一人の例えば日本人のそれぞれが描いているダライ・ラマ像はもちろん一様ではなく、バラバラである。それぞれのこれまでの限られた経験や見聞、知識に依ってこれは形成されている。中にはただ名前を聞いた事があるだけという人もいるだろう。そのような人は知識が増えればそのイメージも変わってくるであろう。
ここで、みんなに共通していることは、それぞれがイメージしているダライ・ラマが「本物のダライ・ラマ」だと思っていることだ。自分の知ってるダライ・ラマが仮の「本物ではないダライ・ラマ」だなんておもってもいない。みんな「本物の法王」を目の前にしていると思っている。みんながみんなばらばらな本物を見ている。
では、これが本物のダライ・ラマというものがあるのかと探してみると、面白い事に気付くはずだ。まずは指摘されることにより、自分の思ってるダライ・ラマが限られた知識による単なるイメージだということは簡単に気付くはずだ。では、誰が本物のダライ・ラマを知っているのか?おそらくダライ・ラマ本人が知っているダライ・ラマがそうに違いないと思うわけだが、その前にダライ・ラマ、ダライ・ラマと言ってもダライ・ラマはその姿形と心に別れ、またそれらも昔と今と未来に別れ、今のダライ・ラマの心がそうだと言っても心は多面的で瞬時に変化し続けており、捉える事ができない。つまり全てが固定できない。これが、本物のダライ・ラマだと指し示すことができないということが分かる。第一「ダライ・ラマ」という言葉を与えない限り、目の前の人は「ダライ・ラマ」になれない、ということも分かる。ダライ・ラマはこのように捉え難い存在だ。
同様に、すべての回りの知り合いに対し、我々は勝手なイメージを抱き、自分の思っている、知っているその人は本当にそのような人だと確信している。そして、自分の思ってるそのイメージを基にその人との関係を作り上げ、そのイメージに従い対象行動する。本当にはそれは仮のもので、多面体のある一面でしかないので、そこには常にずれが生じる。そのずれに従い、的外れとなり、その分、後で苦しんだりする。
この探すと見つからない、これが本物と指し示すことができないという事情は全ての現象に共通ということがやってみると分かる。仏教も、悟りも、空も、時も、空間も何かに依って存在し、これが本物と指し示すことができない。
人は真実を知らない事により、現象を誤解することにより苦しむというのが仏教の教えである。見たり聞いたりしたことをすぐにそうだと信じてしまうという癖がある。この癖は本能的であり、なかなか直し難いのも確かである。
なんでも、まずは疑ってみることは大事なことである。例えば、私は法王の言われることの中でも幾つかの点には同意しない。もっとも、その多くは本質的なものはなく、例えば仏教史に関することだったりするわけであるが。
法王は2日目にやっとテキストに入られた。そして3日目にこのテキスト中もっとも難解?とされる第13偈をさらっと解説された。まず、13偈の日本語訳:
「現れにより実在論を排し、空により虚無論を排す。空性が因果として現れる様を知ったならば、もはや極端論(両辺)に囚われる事はないであろう」
「あるによりあるを排し、ないによりないを排す」というわけだ。普通の言い方の逆といえよう。
現れと空(性)の正しい理解に達していれば。
現れを見ただけで、それが向こう側から現れるように見える時、そちら側にはないと、即座に理解される。だから、現れにより実在論を取り除くことができる。現れとは、依って設定されているだけとの理解により、現れにより実在論を排す。
空(性)により虚無論を排すとは、実体が無いということは、他に依ってあると理解される。実体が空であるから、縁起する事ができると理解されれば、有る無しの極端論に陥ることはない。
冒頭、般若心経の中の「色即是空、空即是色」と説明と同様である。「縁起即空、空即縁起」の「即」世界レベルに達している人なら、現象はこのように見えるというわけだ。
難しいと思われる方もいるかもしれないが、「当たり前」といえば当たり前のこととも言えるのだ。ただ、自分たちがあまりに当たり前でない世界に長らく親しんで来たので、当たり前のことに気付きにくくなっているだけなのだ、と思う方がいい。
2日目の朝、ツクラカンに上がられる前、前庭に車椅子に乗った外人少女を見つけられた法王はすぐにこの親子に近づき、話かけられた。ロシアから来た親子であり、少女は小児まひで足が不自由なようだった。
法王は少女の足を何度もさすられていた。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)