チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年6月20日
1985年チベット旅行記 その2「軍人に人肉を投げつける鳥葬人」
蘭州からラサへ
蘭州まで戻り、そこからゴルムトまで列車に乗った。車窓からは青海湖のほとりのどこまでも続く菜の花畑が広がっていた。青海湖は本当に青い海のように水平線の彼方まで続いていた。やっとチベット圏に入る事ができたという思いに、それまでの疲れもすっかり忘れることができた。本当はこの路線に乗ることも外人に許可されていないことであった。第一陸路でラサに入るということ自体が許可されていなかった。もう、許可証を取るなんてことは諦めていた。捕まっても大したことはない、また罰金を払えばいいだけだとそこは気楽に考えることにした。
列車の終点ゴルムトは砂漠の中の殺伐とした町だった。すでにチベット人よりも中国人の方が多いようだった。ここからラサまではバスかトラックであるが、バスは外人と分かると切符を売ってもらえない可能性が高いということで、トラックのたまり場に行き、ラサまで乗せて貰えるトラックを探す。トラックは簡単に見つかり他2人の外人女性と共にラサまで行くことになった。このトラックもオンボロで途中何度も故障し、ラサまで結局4日かかった。途中の検問所では荷物の中に隠れたりもした。それでも、風景は私が想像していたチベットそのものであり、広大な草原がどこまでも続き、至る所にヤクや羊が草を食む姿が見られ、遠くに雪山が霞む。
このルート最高地点であるタンゴラ峠では、峠の手前で雪のため泊まるしかなくなった。そこは標高5000mを越えていた。真っ暗な小屋に入り、運ちゃんから新聞紙に火を付け部屋を照らす間に居場所を決めろと言われた。そこはただの土間でありベッドはなかった。私はマットと寝袋を持っていたが連れの2人はなにも持ってない。仕方なく2人に寝袋を貸した。まもなく寒さも加わり、激しい高山症状が現れ、ひどい頭痛がはじまった。眠れないので外にでると、それまで一度も見たことのない満天の星空が広がっていた。その星の多さには驚くしかなかった。またそれらの星が頭痛とともに振動し、降り掛かってくるように見えた。
ラサ 1985年
ラサに近づき遠くからポタラ宮が見えた時には、ついにやったという思いがこみ上げ涙が出そうになった。何せここに辿り着くまでに一万キロ以上を陸路で移動していたからだ。ラサで外人が泊まれる宿は限られていた。ほとんどの外人はバナクショホテルかスノーランドホテルに泊まっていた。私はバナクショホテルに入った。ラサに来るのは大変なはずであったが、ホテルには案外大勢の外人が泊まっていた。多くの外人が私と同じように許可証を持っていなかったが、表向き何も問題はなかった。
ラサに到着し、最初に気付くことは、街中に響き渡るラウドスピーカーからの騒音である。共産党のプロパガンダを流しているようだったが、その音が尋常でない。またそれは朝早くから夜遅くまで途切れることなく続くのだ。これだけで頭がおかしくなるような気がした。みんなはもう慣れきっているようで、とくに気にしているようには見えなかった。街の大通りでは、銃を構えた軍人を満載したトラックが明らかに住民を威嚇するために巡回していた。チベット人も男性はほとんどが人民服を着ていた。女性も若い人は人民服を着たりもしていたが年配の女性はチベット服を着ていた。そのころはまだ中国人よりもチベット人が圧倒的に多く、ウイグル人と一緒で、チベット人たちは目が会えば微笑むのだった。
ラサ旧市街の中心はジョカン(大昭寺)と呼ばれる7世紀にソンツェンガンポ王に嫁いだネパール王妃チツンにより創建された寺である。この寺を中国政府は同じくソンツェンガンポ王の王妃になった唐の文成公主が創建したとするが、これは嘘である。それは寺が西向きに建てられネパールを向いていることがからも知れる。文成公主が創建した寺は同じくラサにある唐方向、東向きに建てられたラモチェ寺の方である。文成公主により当初ラモチェに祀られたジョオと呼ばれる釈迦牟尼像はその後ジョカンに移されたが、この像はチベットでもっとも古い仏像であり、今に至るまで篤い信仰を集めている。これら2つの僧院建立と仏像の召還を持ってチベットに仏教がもたらされたとされる。
このジョカンはチベット人の信仰の中心地であり巡礼者が絶えない。入り口付近では毎日大勢の人々が五体投地に励む姿が見かけられる。私も日課として、朝ここで五体投地を行い、この寺を巡るパルコルと呼ばれる道を右回りに何度も歩いていた。その内何人かのチベット人と知り合いになった。その内の1人であるおばあさんは家に私を招きバター茶をすすめた。私がダラムサラやダライ・ラマ法王の話を始めるとおばあさんはさめざめと涙を流した。「私は毎日ダライ・ラマ法王がチベットに戻られることを祈り続けているんだよ」と言う。
鳥葬
ラサでは毎日朝から晩まで街を歩き回り、周辺の僧院にも足を運んだ。セラ僧院の傍で鳥葬を見ることができると聞き、朝早く2時間ほどかけてその場所まで歩いて行った。2日通ったのだが、最初の日には私が一番先に到着していた。鳥葬係りの数人に呼び込まれ、一緒に朝のバター茶を飲んだ。片言のチベット語で会話した。「人肉解体人」とお知り合いになるのは光栄だなどと思いながらも、余計な話は控えた。
その内、見物人の外人たちがぞろぞろと現れ、その数は数十人になった。鳥葬係りの男たちは大きな刀を持ち、鳥葬台である大きな岩に近づこうとする彼らを追い払い、20mほど離れた場所まで下がらせた。やがて白い袋に入った遺体が2体運び込まれ、解体が始まった。一体は小さく子供のように見えた。いつの間にかダマルという太鼓を持った1人の僧侶が現れ、太鼓の音に合わせながらお経が唱えられ始めた。遺族と思われる人が数人立ち会っていた。
遺体はまず皮を剥がされ、肢体が切り離され、骨から肉が削ぎ落される。切り離された頭部が岩のくぼみに入れられ大きな石が投げ込まれるとグシャという大きな音がした。その時今更ながら「ああ、これでこの人は終わったな」という思いが湧いた。その後、骨や肉はツァンパ(麦焦がし)を混ぜながら細かくされた。まるで食事を用意しているようであった。そのころにはすでに回りには沢山のハゲタカが舞い降りて待ち構えている。近づくハゲタカを追い払いながら彼らは黙々と作業を続ける。
準備が整った後、1人が大きな声で何か叫ぶと、それを合図に一斉にハゲタカが岩の上に舞い降りあっという間に全てを食べ尽した。その後ハゲタカは一羽づつ空に舞い上がり、弧を描きながら徐々に空の彼方に消えて行く。それは美しく、見ているとまるで死者の魂が天空に舞い上がり、消えて行くような気がした。自分が死んだときも鳥葬も悪くないなと思ったりした。
ハゲタカが食事を終え飛び立った後、鳥葬係りの男たちは岩の上に残された小さな骨を集め、それを火の中に入れ灰を作った。その灰は遺族に渡された。そのころにはもう見物の外人は去っていたが、私は最後まで見届けていた。すると仕事を終えくつろぎ始めた鳥葬人たちが私を呼んだ。断ることはできない。近づくと彼らの手は真っ赤だった。その手を洗うこともなく彼らはチャン(チベットの地酒)を飲み始め、私にもその血だらけの手で椀をすすめた。私は何とも言えない気分になったが、おとなしく何杯かチャンを飲んだ後、別れを言って立ち去った。
次の日、私は飽きもせず、また鳥葬場に出かけたが、その日とんでもないことが起ったのだ。解体が始まって間もなくしたころ、丘の下を流れる小川を渡ってこちらに向かって来る1台のジープが目に入った。どうも軍人が乗っているようだった。これを見た解体人たちは作業の手を止め、鋭い目になり彼らの動きを見守り始めた。そして、軍人たちが車を降り、丘を登り始めた時、解体人たちは手に沢山の人肉を持ち、彼らに近づきそれを投げつけたのだった。これには流石の軍人たちも肝を冷やしたのか、一目散にジープに戻りそのまま去って行った。解体人たちにとって、神聖なチベットの伝統的葬儀である鳥葬の場を侵略者である中国の軍人に汚されることは決して許してはいけないことだったのであろう。それにしても、私は投げられた人肉のことが気になった。すると、彼らは投げた人肉を丁寧に拾い集め、下の岩の上に返したのだった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)