チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2013年6月19日

1985年チベット旅行記 その1「遠いチベット」

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今日はこれと言った内地チベットのニュースもないということで、趣向を変えて、私の昔のチベット旅行の話を紹介することにする。昔も昔、1985年の話である。

自分で撮った写真も沢山あるのではあるが、今手元にないということで、掲載の写真はネットで見つけたものである。

話は少し長いので数回に分けて載せるつもりだ。

一回目の今日はラサに至る前、中国やシルクロード辺りの話。軽く読飛ばしてほしい。

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121030a471985年の中国

笑わない人々

ひょんなことから私はチベット亡命政府に建築家として雇われる事になった。亡命政府があるインドのダラムサラに行く前に、チベット本土を見ておきたいと思い1985年の夏、中国に向かった。その頃の中国は今とはまるで別世界。さらに、その頃の世界のどの国と比較しても非常に特異な国であったろう。私はそれまでに相当多くのいわゆる発展途上国を旅していたが、中国ほど異質な国を旅したことがなかった。中国の文革は77年に終わったことになっていたが、80年代にはまだ中国人のほぼ全員が人民服を着ていた。女性も子供もである。人民服には深緑色と紺青色の2種類あった。どの街にも人が溢れていたが、見渡す限り同じような、個性というものを抹殺された人々が続いていた。

旅行者である私も目立つ事を避けるために直ぐに人民服と人民帽を手に入れ、群衆にまみれることにした。その頃の中国人の特徴はまず笑わないということであった。笑顔さえ見ることはなかった。街を歩けば、至る所でいがみ合う声を耳にした。中国人のいがみ合う様は実に激しいものだった。いがみ合うだけではなく、本気の殴り合いの喧嘩も沢山見た。殴り合いの喧嘩が始まっても、回りの人たちはこれを止めるということはない。ただ、回りを囲んで成り行きを眺めるだけであった。バスの中や電車の中でも殴り合いが始まった。一言でいえば、そこは人の世界ではなく動物の世界のようであった。ちょっとしたことで火が点く不平、不満、不幸が充満していた。

遠いチベット

今でもチベット自治区に入るには特別の許可証が必要であり入域は簡単ではないが、チベットは80年代始めに外国人に対し解放されたばかりであり、もちろんそのころ入域は簡単ではなかった。入域許可証を得るためにまず四川省の成都で試し断られる。その後西安、蘭州でも入手できず途方にくれた。外人旅行者から「カシュガルで許可証を手に入れた者がいる。もしも入域許可証が手に入らなくても、カシュガルからならカイラス経由でラサに入る方法がある」という情報を得た。カシュガルはシルクロードの西の果て、中国の最西端である。蘭州から数千キロも離れた砂漠の向こうにある。それでも、シルクロードという呼び名に旅情を覚えカシュガルまで行くことを決めた。

当時ウルムチまでは列車が通じていたが、その先はバスしかなかった。途中、吐蕃時代にはチベット領にもなっていた敦煌を見学し、トルファンに至った。当時のトルファンにはまだ漢人は少なく、ほとんどの住民はウイグル人だった。男性は人民服を着ていたが女性は色鮮やかなウイグル族の服装をしていた。そしてないより驚いたのは、人々が笑顔を見せることであった。ほんの数週間ではあるが、中国に入りそれまで一度も笑顔を見ていなかったことに今更気付き、その笑顔に自分でも驚くほど癒されたことを思い出す。やっと、人の世界に戻ったと感じた。これはその後チベット圏に入った時も同じであった。チベット人も笑顔を見せるのだった。もちろん、ウイグル人もチベット人も漢人に支配され差別され、弾圧され、貧しさは漢人の町より酷かったが、それでも彼らは笑顔を保っていた。

トルファンは特に心地よく、少し長居した。近くの高昌古城にロバの馬車で見学に行ったりした。その後ウルムチにも行ったが、ウルムチはすでに漢人が大多数となっており、その殺伐さは蘭州に似ていた。ウルムチを抜けて天山に数日遊び、トルファンに戻った。そして、トルファンからカシュガルまで4泊5日というバスに乗った。その頃の中国のバスは長距離であろうと、シートはほぼ板のままである、5日乗り続けた挙げ句、本気に尻の皮が剥けた。バスの中でも殴り合いの喧嘩が始まったのにはさすがに驚いた。

b0049671_13470391993年のカシュガル。

その頃、カシュガルはウイグル人がまだ多数派であり街並も異国情緒に溢れていた。私はそれまでにイスラム圏に数年住んだ事もありイスラム社会に馴染み易かった。直ぐに友人もできた。そして彼らから中国が来て宗教がどれだけ弾圧されたかを聞かされた。

カシュガルは中国の西の果てだが、今ではそこからパキスタンに抜けることができるので、ここを通過地点とする旅行者も多い。しかし、そのころそこはどんずまりであり、再び過酷なバスで東に帰る以外どこにも通じていない場所であった。そして、そこで出会った外人旅行者たちは普通じゃないやつばかりだった。そこの安宿での話題はもっぱら如何にして隣接するパキスタンやアフガニスタン、タジキスタンやキルギスに密入国することができるかというものであった。この他、カイラス経由でラサに至るというルートを狙っている者もいた。私もカシュガルでも正規のチベット入域許可証が手に入らないということを知り、許可証なしでそこからラサに向かうことに決めた。

カイラス経由ラサを目指すが

そのためには毎日トラックのたまり場にでかけ、ラサ方面に向かう運転手を見つけ交渉するしかなかった。それは簡単ではなかった。アリと呼ばれるカイラスの手前の町まで行くトラックはほぼ毎日見つかったが、運転手も外人を乗せれば罰せられる可能性が高いと知っており、断られてばかりだった。しかし、やっと6日目にチベット人の運転手が私の片言のチベット語にいい反応を示し、次の日の出発を承諾してくれた。もっとも、私1人ではなく他に2人の外人も一緒であった。その2人に会い、人民服等の目立たない服を手に入れるように約束させた。外人も人民服を着ると、ウイグル人風に見えなくもないのだった。1人はアメリカ人、もう1人はフランス人だった。

しかし、なんと当日フランス人が前日と同じ赤いチェックのシャツを着ていた。私は「なんでそんな目立つのを着て来たのだ」と責めたが、「これしかない」というので仕方なかった。運転手と助手、それに我々3人を乗せたオンボロトラックは早朝カシュガルのトラックステーションを出発し、一路カイラスの麓を目指した。外人の入域は全く許可されていない道である。そのころはまだカイラス山に辿り着いたという日本人の話も聞いていなかったので、私は久しぶりに冒険心を掻き立てられ、緊張感の中にも浮かれた気分であった。

そのトラックは想像以上にポンコツであった。ほぼ2時間おきに何かが故障し、止まっては修理の繰り返し。いくらも走らないうちに日が暮れた。我々は外人であることがバレないように他の人との接触を避け、トラックステーションの中に泊まり外には一切出なかった。翌日も同じように砂漠のただ中で故障を繰り返しながらイエチェンと呼ばれる町まで到達し、同じくトラックステーションの中に泊まることにした。我々は日が高いうちには外にあるトイレに行くことも控え、部屋にじっとしていた。暗くなった頃、突然ドアが叩かれた。開けてみるとそこには警官が立っていた。警察の車が2台止まっており、すぐに6、7人の警官に囲まれた。お前らは外人だろう、パスポートを見せろと言う。パスポートを見せると彼らはそのままそのパスポートを取り上げた。監視付きのホテルに移され、次の日、警官に付添われカシュガルまで送り返された。

何故バレてしまったのか?誰かが通報したに違いなかった。2日目の昼間に一度だけ普通の食堂に入って食事をとった。あの時、我々が外人であると気付いた誰かが通報したに違いないと思われた。3日目にはやっと山岳部に入れると思っていたので、こうしてあまりに早く拘束されてしまい3人とも大いに落胆した。

カシュガルの警察署へ送られ

カシュガルの警察で尋問が始まった。そこは2畳ほどしかないとても狭い部屋だった。大きな机の向こうに怖そうな中国人の警官が座る。最初にいきなり机を叩き、なにやら中国語でまくしたてる。私は紙をくれといい、「私は中国語ができない。英語ができる人を呼ぶか、あるいは筆談にしよう」と書いた。中国語はほんの片言しかできなかったが、筆談なら何とかなると思ったからだ。その後、筆談が始まり相手は厳つい顔を崩さないまま、静かに書き始めた。そのように紙があっちこっちと移動しながら進む様子を眺めていた他の2人が笑い出した。真剣な顔して書き合っている様がとても可笑しいというのだった。すると、警官はまた机を強く叩き怒った。

警官の話を要約すれば、「お前たちはあのルートが外人に許可されていないことを承知で向かったはずだ。お前たちは法を犯した。罰せられるべきだ。まずは始末書を書け。そして、明日お前たちの態度に従いどのような罰を与えるかを決定し伝える」ということであった。その他「運転手の名前」をしつこく聞いた。これに対してはもちろん我々は「知らない」と言い張った。

このルートを先に辿れば原水爆実験場として有名なロプノール地区に至る。またラサ方面に向かったとしても、カイラス山の手前にはアクサイチンというインドと領土問題を争う高原がある。中国にとっては非常に敏感な多くの秘密を持つルートなのだ。秘密という意味ではチベット全土が秘密の土地であった。

3人の内、フランス人はこのように拘束されたのが2度目という。彼は国外退去になるのではないかと処罰を相当怖れていた。次の日の決定は全員150ドルの罰金を払うというものだった。150ドルは痛かったがそれだけで済んだという思いもあった。ただ、次にどうするかが問題だった。アメリカ人は再び同じルートをトライすると言った。私はもうその気になれず、仕方なく蘭州まで帰りそこからラサを目指すことにした。再び4泊5日のバスに乗り、何千キロも迂回しなければならないという徒労感に襲われたがラサを諦める訳には行かなかったのだ。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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