チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2013年5月4日

世界の焼身 後編 アジア圏(ベトナム、中国、日本)

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アジアの焼身

033ベトナム

アジアの近代史上もっとも有名な焼身抗議はベトナムで1963年6月11日に僧ティック・クアン・ドックが行った焼身であろう。彼は当時アメリカの軍事的支援を受けていた南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権の仏教徒弾圧に抗議するために、サイゴン(現、ホーチミン)のアメリカ大使館の前でガソリンを冠り焼身を行った。彼は支援者やメディアが注目する中、燃え上がる炎の中でも結跏趺坐を崩さず、一切苦悶の表情を見せず、声を出さず、絶命するまでその姿を崩さなかった。その姿はカメラを通じて全世界に放映された。この衝撃的な事件が世界中に放映され、国内の仏教徒だけでなく世界中の反戦主義者に大きな影響を与えることとなった。この焼身が契機となり、政府打倒の運動が起こり同年11月にはクーデターによりゴ・ディン・ジエムは殺害され、政権が交代することになった。特に、彼の焼身がビデオにも取られ、世界中のTVで放映されたことが影響を拡大するのに貢献したと思われる。彼の焼身を撮影したアメリカ人ジャーナリスト、マルコム・ブラウンの写真は1963年度の世界報道写真コンテストでグランプリを受賞している。また、当時のアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディは「これほど、世界中に衝撃を与えた報道写真はないであろう」と衝撃を受けたことを表明した。彼はその時このゴ・ディン・ジエム政権と対立しながらも「軍事顧問団」の名目で南ベトナムへの軍事援助を拡大していた。そして、この焼身を受けベトナムから手を引くことも表明していたが、そんな中1963年11月22日にテキサス州ダラスでオズワルドにより暗殺されたのである。

僧ティック・クアン・ドックの焼身抗議に影響されその後10人近い僧侶と尼僧がベトナムで焼身している。この焼身抗議は後にベトナム戦争反対の意味を持ちはじめ、これに同調しアメリカ人女性アリス・バーンをはじめ8人のアメリカ人が焼身している。僧ティック・クアン・ドックの焼身は法華経が説く最高の供養形態としての「捨身」の意味を持つものと思われている。彼の焼身が影響力を持つことができたのは、何よりもメディアの力が大きく貢献したわけだが、そこにはアメリカを批難できるメディア環境があり、ビジュアルなものも揃っていたからだといえよう。この点がチベットの場合と微妙に異なる点である。チベットには一切メディアは入れず、準備された焼身にメディアが呼ばれ、一部始終が撮影されるなんてことはあり得ない。危険を冒して伝えられる隠し撮りが伝わるだけだ。相手の中国を批難できるメディア環境はあるが、常に様々な脅しを覚悟しなければならない。また、相手が人間的良心や慈悲の心、恥の感覚を全く持たぬ中国政府ということも大いに関係している。

僧ティック・クアン・ドックの焼身は法華経に影響された仏教的供養を抗議の手段として用いた記録に残る最初の例であろう。決意の勇気と利他という意義を教典から得、宗教的目的と政治的目的を合わせた焼身といえる。チベット僧ソバ・リンポチェ等の焼身も同様の焼身である。その他、焼身した一般人であるチベット人の多くもチベット人だけでなく、全ての有情の幸せを祈る言葉を残している。例えば2012年5月30日にザムタンで焼身した遊牧民リキョはその遺書の中で世界平和を祈り、「生きとし生けるものすべての苦しみを引き受ける」ために焼身すると明言している。これは菩薩の誓願である。

中国

チベット人の焼身抗議に対し中国共産党が最近盛んに「焼身自殺は仏教に反する」というキャンペーンを行っている。僧侶が焼身自殺することは戒律にも反すると言っている。

中国には中世の仏教僧侶の伝記を集めた「高僧伝」というものがある。その中には沢山の僧侶が焼身したことが記されている。その中、最も古いのは「396年、冀州出身の僧法羽、45歳が法華経薬王品に喚起されてこれを唱えた後に焼身。これを見た人々は悲しみと賞賛の心で一杯になった」と記されている。1、2世紀頃にインドで成立した法華経の漢訳は日本では5世紀の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」が有名であるが、早くも2世紀に竺法護がこれを漢訳し、中国に伝えているのである。

これ以降、中国ではこの薬王品に感化され多くの僧侶が焼身を行っている。故にこの「捨身品」とも呼ばれる経典は実際の焼身との関係が深いので、その内容を要約しお伝えしておく。正式な漢訳名称は「法華経第二十三品・薬王菩薩本事品」。宿王華菩薩が釈尊に薬王菩薩について尋ね、釈尊が薬王菩薩の前世の話を聞かせるという筋書き。

「薬王菩薩というお方は、どのようにして、大変素晴らしい働きがおできになるようになったのでしょうか?」。釈尊これに答えて「遠い遠い昔、日月淨明徳如来という仏さまがいました。仏さまは、一切衆生喜見菩薩をはじめとするもろもろの菩薩、声聞に法華経の教えをお説きになりました」。「すると一切衆生喜見菩薩は、法華経を1万2千年の間、一心に修行して、高い境地に達し、大いに歓喜し、仏恩に報いる大きな力を得て、一切衆生を救いたいと思い、日月淨明徳如来と法華経を供養するため、自ら香を飲み、身体に香油を塗り焼身したのです。諸仏は賛嘆し、その光は広大な世界の闇を照らし出し、千二百歳まで燃え続けました」。「燃え尽きて、一度亡くなった一切衆生喜見菩薩は再度生まれ、今度は釈迦の入滅後、舎利を供養するために両腕(又は肘)を燃やし、七万二千歳に渡って供養しました」。「さて、あなたは、どう思いますか。この一切衆生喜見菩薩は、ほかでもありません、今の薬王菩薩の前世なのです」というお話である。

中国中世の焼身について今、主に参照しているカナダのマックマスター大学の中国中世史専門家James A. Bennによれば(注4)、先の僧法羽以降、現在まで数百人(several hundred)の僧侶、尼僧、一般人が仏教的供養の目的で焼身その他の方法で自殺しているという。もちろん、これらの自殺は抗議目的ではなく、それどころか多くの場合、当時の権力支配者から賞賛を受けているのだ。特に焼身供養が行われる時には多くの見物人が集められ、往々にして役人や時には支配者本人も立ち会い、死後の遺灰は丁重に扱われ、彼らの偉業を讃えるための詩句が作られたりしたという。焼身は仏教的伝統に反する常軌を逸した行動ではなく、至高の悟りに至るための手段と見なされていたのだ。

焼身以外にも、この仏教的「捨身供養」のために、ある人は食を断ち死に至ったり、動物や昆虫に身を捧げたり、投身したり、その他必ずしも死ぬことを目的としない腿などの肉を削ぎ落すとか指や腕を焼くということも行われた。つまり、インドで大乗仏教が起こり、菩薩思想の発展により自己犠牲が強調されるようになり、悟りに至るための極端な供養方法が、法華経その他にインド的誇張を含んだ文学的表現として記されるようになったものを、中国では苦行の一環として文字通りに解釈し、本当にやってしまう人々が現れたということである。いや、私は、釈迦本人は苦行を否定したにせよ、これら菩薩との自己 同一化を目視し焼身供養を行った僧侶たちをただの気違いと見なしているのではない。中には、自己の身を焼く功徳で衆生の罪を滅しようと述べ、さらに病人 のためにもその功徳をまわすことに言及した僧侶もいたという。とにかく、長い間中国の仏教徒の間ではこれらの焼身が賞賛されるべき行為であったことは否定できない。何れにせよ、宗教を否定する今の共産党が「焼身は仏教に反する」というのはかくの如く歴史的にも茶番であるということは確かだ。

チベットではこの法華経は翻訳はされたが、一般にはそれほど普及しなかった。ただその28品である普賢菩薩勧発品は有名で祈祷会などでは必ず唱えられる。チベット人歴史学者であるタシ・ツェリンによれば、チベット人もこれまでに1人だけこの供養を目的とした焼身を行った人がいるという。それは11世紀のことであり、ドルチュン・コルポンという地方官吏がラサ・ジョカン寺のジョオ(チベットでもっとも有名な信仰を集める釈迦牟尼像)の前で焼身を行い、そのとき「彼の頭から偉大な光が現れ、かれは悟りに至った」とされている(注5)。現在行われているチベットの焼身抗議については、教典からの影響という点においては、例えばゴロで焼身したソバ・リンポチェがその遺書の中で明かしているように法華経からではなく、むしろジャータカ物語の中に描かれる捨身飼虎の物語に影響されていると言えよう。

以上は中国における宗教(仏教)的供養を目的とした焼身であるが、次に抗議目的の焼身について記す。長い中国の歴史の中で中世や近世においてももちろん抗議の焼身があったはずだと推測されるが、これについては残念ながら今手元に資料がないので、なんともいえない。ダライ・ラマ法王やウーセルさんが言及される嘗ての焼身抗議とし、文革時代に僧侶が抗議のために焼身したという話がある。これは1967年7月に陝西省西安の法門寺で良郷という僧侶が、紅衛兵が仏塔を破壊することを阻止するために抗議の焼身を行ったというものだ。実際にこの焼身が効果したかどうかは定かではない。

その他、2001年1月23日に北京・天安門広場で5人の中国人が一緒に焼身した事件は有名である。7人のグループが焼身を行おうとして2人は未遂に終わっている。火を点けた5人の内女性1人が焼死、彼女の娘とされる12歳の少女が2ヶ月後に死亡している。中国当局は彼らを法輪功信奉者とし、この焼身は法輪功のカルト的性格を露にした事件であるとして、その後法輪功への弾圧をさらに強化している。もっとも、法輪功側は彼らは法輪功信者ではなく、中国政府が法輪功弾圧の口実を作るために捏造、自作自演したものであるという声明を発表している。真相は今も明らかではないが江沢民が法輪功信者弾圧を指示し、今も彼らが激しく弾圧されていることは確かである。

チベット圏以外の中国で最近もっとも多い抗議目的の焼身は土地強制収用に伴うものである。アムネスティ・インターナショナルはこの種の焼身抗議が2009年~2011年だけでも41件記録されているという。この種の焼身は2000年ぐらいから始まっているので、おそらくこれまでに100件以上の焼身が行われていると思われる。焼身の中心は山東省や江蘇省等の沿岸部である。土地開発ブームにのり地方当局が不動産業者とぐるになり庶民の土地を強制的に収容している実体が露になっている。チベットでもジェクンド(ケグド、玉樹)で大地震後の土地強制収用に抗議する焼身が少なくとも2件発生している。チベット全域の焼身抗議もその根本原因のもとを辿れば中国がチベット人の土地を侵略し強奪したことに至る。人は代々住み続けた土地を不当に奪われるとき、もっとも激しい抗議を行うものであると言えよう。

注4:Multiple Meanings of Buddhist Self-Immolation in China ― A Historical Perspective James A. Benn (McMaster University) p204
注5:Revue d’Etudes Tibetaines p9

日本

最後にどうしても日本の話も書かなくてはいけない気がするので少しだけ。日本にも古代において法華経薬王品が伝わった後に最高の供養の方法として焼身が行われたらしく、早くも702年の大宝律令には「僧侶や尼僧は焼身を行ったり、捨身(入水、投身、断食等)を行ってはならない。この決まりを尊重せず、実行した者は罰せられる(凡僧尼。不得 焚身捨身。若違及所由者。並依律科断)」と書かれている。行基は奈良時代の高僧として有名だが、時の朝廷は彼が民間に仏教を布教することを好ましく思わず、717年に糾弾されている。この時の詔には「妄に罪福を説き、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身・皮膚を剥いで写経……) 」と書かれているので、このころ、行基の弟子の中に指等を供養の印に焼く者がいたことが知れる。

平安時代には少なからぬ人数の人が仏教的焼身を行ったらしい。13世紀編纂の百練抄には995年に「上人(僧侶)が阿弥陀峰で焼身した。僧侶や一般人が大勢これを見守った。近年各地で11人が焼身した。(上人於阿弥陀峰焼身、上下雲集見之、近年 国焼身者十一)」とある。この中で阿弥陀峰と書かれているように、これらの焼身は法華経薬王品に影響されたものではなく、阿弥陀如来への帰依を説く金光明経寿量品やジャータカの捨身飼虎を焼き直した焼身品の影響と思われる。その他、平安中期に書かれた仏教説話集である大日本国法華経験記の中にも熊野の那智で修行していた和尚応照が法華経の薬王品に強く影響され薪の上で結跏趺坐して焼身したという話がある。しかし、これは如何にも美化して描かれており、実際に行われたものかどうかは明らかではない。

その後は、というか以前より日本では仏教的供養のための自殺としては断食が一般的であったようだ。これは山伏たちにも引き継がれ、生きたまま土中に掘った穴に入り、ミイラ化したという話は幾つか伝わっている。その他、平家物語の中でも描かれているような「入水往生」が行われるようになった。集団で「補陀落渡海」と呼ばれる補陀落(ポタラ)の浄土へ船で向かうということが9世紀から18世紀まで行われた。那智勝浦からはこの間に20回行われたという。

仏教と関係あるかないかは何とも言えないが、日本では中世以降長い間、抗議の印や忠誠心を示すため、名誉を保つため等のために「切腹」が一般的となって行った。

戦後有名な焼身が2件起っている。1969年の建国記念日に、江藤小三郎が国会議事堂前で世を警め同胞の覚醒を促すと称して焼身した。江藤の死は翌年三島由紀夫の切腹自決に大きな影響を与えたと言われている。また、1975年には米軍嘉手納飛行場前で船本洲治、当時29歳が皇太子訪沖反対を叫びつつ焼身した。これは明らかな政治的焼身抗議である。彼は新左翼、山谷・釜ヶ崎闘争の活動家であった。

最後にチベットの焼身とは大きく離れた話になったな、と思いつつも船本洲治の略歴を読みながら、いや、案外彼の焼身はチベットの焼身抗議にも繋がるものがあるのではないかと感じてしまった。彼は父親が満州で八路軍に銃殺された後、広島県呉市(私の出身地)広町で母親1人に育てられた後、広島大学物理学科に入学。在学中に釜ヶ崎はじめ関西方面に出稼ぎに行き始めた。そこで出会った虐げられた底辺の労働者たちに共感し、1968年10月山谷自立合同組合を結成。1972年6月3日暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議の結成に中心的な役割を果たす。1973年4月対関西建設闘争に関する証人威迫容疑で指名手配。半潜行しながら釜ヶ崎・山谷の闘争に指導的役割を担う。1974年3月愛隣センター爆破(72年12月26日)デッチ上げによって、主犯として爆取容疑で全国指名手配。完全に潜行し、全国を歩く。1975年6月25日潜行先の沖縄嘉手納基地ゲート前において、皇太子訪沖反対を叫びつつ焼身決起。29歳。最後の言葉は「山谷・釜ヶ崎の仲間たちよ。黙って野たれ死ぬな!胸には熱いものがこみあげて、これ以上は書けぬ」であったという。

これで、世界中とは言えないまでも、焼身が目立つ地域の話は大体概観したことになる。最初の問いは「チベット人の焼身抗議は世界の歴史上もっとも激しい政治的焼身である」かどうか?ということであった。皆さんは以上の話を読んでどう判断されたであろうか。少なくとも言えることは、人口比的に言って、チベット人の政治的焼身は一番数が多く、その意味で「激しい」と言えるのではなかろうか。
チベットの焼身の特徴は、弾圧に対する非暴力闘争の一環として、その究極の手段として選ばれたものということだ。また、人により個人差はあるものの政治的目的と宗教的目的を併せ持つものと言えよう。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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