チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年4月2日
チベット遊牧民強制移住 <生態移民>
カム、ミニャック・ラガン地区の幹線道路沿いに立てられた巨大看板:日本語訳「(伝統的移動牧畜をやめ)定住プロジェクトに応じることで1000年の時を跳躍した社会発展が実現する」「恩恵を受けたらその恩に感謝して報い(恩義を忘れてはならず)、末長く政治の安定した社会を共に建設すべし」。
焼身者の半数以上は遊牧民或はその家庭の出身者である。故に、チベットの遊牧民の状況を知ることは焼身の背景を知るためにも重要なことである。人民解放軍の「建国の父」とも評され、当時元帥主席、国家副主席であった朱徳は1956年、「(チベットの)全ての遊牧民は、社会主義改革と社会主義社会の建設を容易にするために、定住しなければならない(*1)」という命令を出した。この時期、東チベット、東北チベットでは「民主改革」の名の下に「集団農場化」が進められていた。この集団化の目的は、なにも遊牧民や農民を豊かにしようというものではなく、単に管理を容易にし、思想教育を与え、税金を徴収し易くするためであった。これに対し、自由と独立を心情とする遊牧民たちはもちろん強烈に反発した。結局、この集団化は徹底されず、またその間の共産党の農業政策の失敗もあって、60年代初めには大飢饉が発生し、大量のチベット人が死んでしまった。その後の文革によっても遊牧民たちは痛めつけられ、その後30年間様々な政治的キャンペーンにより苦しみ続けて来た。しかし、本当の苦しみは90年代終わりごろから始められた新たな「遊牧民定住政策」であった。
政府は「原始的」で「非科学的」な生活スタイルを持つチベットの遊牧民たちにより「荒らされた草原を復元する」との口実の下に、遊牧民に放牧を禁止し、幹線道路や街の近くに集団定住地を作りそこに定住することを実質強制し始めた。民族人口の約3分の1にあたる225万人いたと思われるチベット人遊牧民は、チベット高原において何世代にも渡り、草原を健康的に維持管理するノウハウを伝え、生活を維持し続けて来たのである。
2007年6月、ニューヨークに本部を置くHuman Rights Watchは「誰も拒否する自由はない」と題されたチベット遊牧民の定住プロジェクトに関するレポートを発表した。その中で「2002年から中国政府は主にチベット人遊牧民地帯において、定住政策を始め、土地を取り上げ、フェンスによる囲い込みを行っている。これにより彼らの生活は破壊された。この政策は厳しく実行され、、、多くのチベット人遊牧民はほとんど全ての家畜を屠殺場に送るしかなく、伝統的な生活を捨て、新しく建設された街やその近くにある住居コロニーに移住させられる。この政策は西部大開発キャンペーンの一環として進められ、1999年より多くのチベット農牧畜コミュニティーは僅かな補償金と引き換えに彼らの土地を取り上げられている。その土地の多くは鉱山開発、インフラ計画、都市開発のために使われるのである」と述べられている。また、レポートには定住されられた1人の遊牧民の話が載せられている。彼は言う「彼ら(政府)は代々住み続けた土地から我々を追い出し、生活の糧を全て奪い、この世で生活することを困難にし、チベットの遊牧社会を破壊した。中国は自分たちの職業を続けることを許さず、中国が作った街に強制的に移住させる。そこには生活の糧がなく、他の仕事を探すこともできない(*2)」と。
移住させられた街で彼らが中国人植民者と競争し仕事を得るということは非常な困難を伴う。彼らのほとんどは中国語の読み書きができず、また遊牧以外の職業的技能を持たないからだ。その結果、多くの者がアル中になったり、果ては乞食に成り果てるものも多いという。唯一の救いは「冬虫夏草」と呼ばれる中国人が高値で売買する高級漢方薬の採集である。夏場、チベットの草原ではこれを日長採集するチベット人の姿が多く見られる。もっとも、これは全ての地域で採集できる訳ではなく、中国人が入り込んだり、他の地域のチベット人が入り込んだと言って争いが起ったり、採集過多により年々採集量が減ったりと問題が多い。また、中国人役人が入山料のようなものを徴収し、ぼろ儲けしているという話もある。何れにせよ、代々受け継がれて来た遊牧という生活を捨てさせられ、単なる採集民と化したということは悲しい話である。
チベットでは元々遊牧民は比較的豊かな人々であった。そして、宗教熱心であり、僧院等への布施も欠かさない人々だった。だから遊牧地帯の僧院、寺院は巨大なものが多かったのだ。また、遊牧民たちは季節に合わせ宗教行事や各種の文化的イベントも必ず行っていた。チベット民衆文化の基礎を為していたともいえる。そのような生活が根こそぎ取り上げられ、僧院もない僻地に送られた遊牧民も多いのだ。アムド、ゴロ地区では全面的に遊牧が禁止され、多くがゴルムト北部の砂漠地帯に送られた。緑の草原を追われ移住させられた遊牧民たちの喪失感は大きく複雑なものなのだ(*3)。これまでに約100万人のチベット遊牧民が移住させられた(*4)。
ある現地調査報告より
鹿児島大学の韓霖(中国人と思われる)氏が青海省の「生態移民村」の調査を行っている(*5)。2009年に3つの村を調査し、比較研究している。ただ、彼の「生態移民」政策の原因に対する見方は中国政府が主張する「過放牧により草原の生態環境が破壊され, 砂漠化して しまったから」を踏襲するだけに留まっている。確かに過放牧による草原劣化という現象が観察される地域もあるかも知れないが、全体にはもっと広範囲に及ぶ砂漠化や鼠害の問題も存在する。
論文の目的は「遊牧社会とその 価値体系の上に築かれた伝統文化が維持できるのかどうか, ということを問題にし, 考察を展 開する」とされていてこれは評価できるが、こちらも肝心な宗教や言語の問題は取り扱われてなく、その意味では物足りないという思いは残る。ではあるが、チベット人定住村の現地調査自体、非常に少ないので、貴重な資料と言えるものだ。
その中「中国国内の多くの研究者は, 遊牧民の生業形態や生 活様式などの伝統文化が遅れていると位置づけ, 経済的発展には, それまでの生活環境から退 去し, 伝統文化を放棄することが必要であると提唱している」と書かれており、中国国内研究者の多くがチベット人遊牧民の生活形態自体を遅れたものであるという、漢民族一般の差別的チベット認識を持っていることが確認される。とにかく目的は経済発展というのも如何にも中国的過ぎる感もある。
一口に生態移民と言われるものも遊牧地域を対象としてものとは限らず、農村地域が対象になる場合もあるとして、その種類を「黄河の源流地域を守るための 「生態移民」, 砂嵐の発生を防止するため の 「生態移民」, 水災害を防ぐための 「生態移民」, 水力施設建設のための 「生態移民」, 貧困も問題を解決す るための 「生態移民」, 稀少な野生動植物や観光名所を保護するための 「生態移民」 などなどである」とする。ここには含まれていないが、もちろん「鉱山開発に伴う生態移民」もある。何れも、名目上は立派な目的が書かれているが、ようは政府の都合のいいように管理し易くするために住民を移住させ、土地を取り上げるというのが本質である。
調査された3つの定住村とはゴロ州マチェン(瑪沁/大武鎮)の河源新村(以下A村)、海南州カワスンド(同徳県)の果洛新村 (以下 B村)、海南州ツェコ(沢庫県)の智格日定住区(以下C村)である(何れもチベット語名は表記されていないので不明)。
論文中に定住前後における一人当たりの収入の変化という表がある。
定住前とは3村とも2005年であり、後とは2008年である。
A村:1779元>389元(補助金8000元/戸)
B村:1698元>326元(補助金8000元/戸)
C村:1218元>1424元(補助金3000元/戸)
(補助金はその村にもよるが、毎年永遠に支給されるものではなく、酷い場合には移住した年だけであったり、多くは期限付きのものである。また移住先の家の建設費の何パーセントかを負担しなければならない場合も多い)
これを見てすぐに分かることは、A村とB村においては移住後収入が極端に減少しているということである。C村だけは僅かに収入が増加しているが、これも3年間の中国のインフレ率を加味すれば増加とも言い切れないほどではある。
3つの村の間でこのような差が現れる最大の要因として、移住後それぞれの村で家畜を飼うことが許されたかどうかが関わっているという。A村では移住後まったく遊牧も家畜を飼うことも許されず、人々の生活手段は出稼ぎ労働と冬虫夏草の採集に頼るしかなくなった。B村の場合は遊牧は許されなかったが、住宅には畜舎或は温室が付いており、僅かではあるが畜舎で家畜を飼うことが許された。また、温室で野菜を栽培することもできる。これによりB村では現金収入はA村と同じ位減少はしているが、家畜から乳製品や肉を自給できるので、生活自体はA村と比べれば余程ましであるという。C村においては、季節的放牧が許され、温室において野菜も栽培も行えるということで、遊牧からの収入も確保でき、生活の質は定住前とほぼ変わらない水準を保つことができているという。それでも、3つの村ともにその現金収入の約半分は冬虫夏草の採集によるものという。
政府はチベット人遊牧民を遅れた生活から救い出し、生活を豊かにさせてやるために定住させているというが、結果は見ての通り惨憺たる状態である。補助金を無くなれば現金収入年間400元以下という中国でも極貧困民の集団が出来上がることになる。彼らに残された生活の手段は冬虫夏草意外には都市部に肉体労働者として出稼ぎに行くか、乞食となるしかないのである。
注:1. チベット亡命政府編纂 Why Tibet is Burning P35 http://tibet.net/wp-content/uploads/2013/02/Whitepaper-Final-PDF.pdf
2. 同上 P37
3. 強制移住させられた遊牧民たちの話は例えば、チベットNOW@ルンタhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51781804.html
4. チベット亡命政府編纂 Why Tibet is Burning P39 http://tibet.net/wp-content/uploads/2013/02/Whitepaper-Final-PDF.pdf
5. http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/9420/1/04Han.pdfhttp://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/9420/1/04Han.pdf
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)