チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年3月28日
ついに亡命政府がラガンで焼身の2人を数に含める
昨日、ダラムサラのツクラカンでは亡命政府主催で焼身者を弔う法要が行われた。24日にンガバ・ザムタンで焼身・死亡したケル・キと25日にサンチュで焼身・死亡したラモ・キャプを弔うことが中心であったが、センゲ首相はスピーチでついにラガンで焼身したトゥルク・トゥプテン・ネンダと尼僧アツェの2人を焼身者の中に含めると正式に発表した。
「最近アムド、ザムタンでケル・キとアムド、サンチュでラモ・キャプが焼身抗議を行い、死亡した。他にもチベット内で焼身があったという知らせが複数入っている。以前から亡命政府は以下の焼身について知らせては来たが、ここではっきりと皆さんに断定する。2012年4月6日、カム、ダルツェド県ミニャク・ラガンにあるダクカル僧院のトゥルク・トゥプテン・ネンダ、45歳、及び彼の姪である尼僧アツェ、23歳が焼身抗議を行い死亡した」と。
この2人のケースはこれまで私やウーセルさんが亡命政府に対し、焼身者の数に何故入れないのか、入れるべきだと何度も要請していたものである。この知らせを聞いてウーセルさんは涙を流されたという。
この焼身に付いてはブログにも何度か書いているが、最初火事による焼死ではないかと言われていたhttp://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51743657.html http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51753150.html。その後、トゥルク・トゥプテン・ネンダ(アトゥップ・リンポチェ)は焼身の直前に家族に電話を入れ「今、これまで焼身を行った人々のために沢山の灯明を灯している。私も彼らの偉業に続く」と話していたこととか、当局は焼身の事実を隠すために家族に一万元を渡していた、という情報が入り、彼らの死は焼身抗議によるものではないかという疑念が深まっていた。
そして、私は去年5月中にカムに入った際、ミニャク・ラガンを訪れ、彼が僧院長をしていたニンマ派の僧院を訪れ、火事で燃えたという家も探し出し、写真を撮った(詳しくは:http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51747398.html下の方)。そして、焼けた部屋の状況からして、私はこのケースは意図的焼身に違いないと感じた。部屋の一部しか燃えておらず、その部屋はとても小さく、外に出る事ができるドアがすぐ近くにあったからだ。
ウーセルさんは2人は結跏趺坐の姿勢を保ったまま、死亡していたと報告されている。私はウーセルさんとも連絡を取り、写真を提供し、政府等にも写真を見せながら説明し、焼身者の中にこの2人を入れるべきだと要請して来た。ウーセルさんも何度も、彼らの名誉のためにも、必ず2人を焼身者の中に入れるべきだとブログ等で亡命政府に対し要請していた。
しかし、亡命政府は慎重であり、なかなかこの2人を焼身者の数に含めなかった。そして、今回、新しい事実が判明したのかどうかははっきりしないが、とにかく認めたのである。これで、私も一々政府発表の数字との差を説明しなくても良くなり、彼らの死も無駄にならず、正式の法要も行われたということを喜ぶ。
参照:27日付けTibet Expressチベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-35-27/10321-2013-03-27-13-02-08
27日付けRFA中国語版http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/shaoshuminzu/dz-03272013163627.html
27日付けVOT中国語版http://vot.org/cn/?p=24085
28日付けウーセルブログhttp://woeser.middle-way.net/2013/03/blog-post_28.html
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)