チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2013年1月5日
内地チベットからの手紙 その1「焼身者ケルサン・ジンパの経歴」
最近、内地チベットから一通の手紙が亡命側に送られて来た。これを書いたチベット人の名前は匿名とされているが、11月8日にレゴンのロンウォ僧院ドルマ広場で焼身、死亡した元ロンウォ僧院僧侶ケルサン・ジンパ18歳の親しい友人であるらしいことは文面から推察できる。(ケルサン・ジンパの焼身については>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2012-11.html?p=3#20121108)
彼は手紙の中でまず、焼身したケルサン・ジンパのこれまで伝わっていなかった経歴を紹介し、その後、中国当局の焼身に対する反応、対応を詳しく報告し、最後にチベット人の焼身は「自由を求める非暴力の石柱として長く世界の人々の記憶に刻まれるであろう」と結ぶ。
手紙はやや長いので何回かに分けて掲載するつもりである。一般に焼身者の経歴はほとんど伝えられていない。その意味でこの手紙は焼身に至ったある1人の若者の軌跡を辿ることで、焼身の背景を知るための手助けになると思われる。その他、内地のチベット人が焼身に付いてどのように感じ、評価しているのかを知るためにも役立つと思われる。
焼身抗議者ケルサン・ジンパを偲びつつ
ケルサン・ジンパの経歴
勇者ケルサン・ジンパは1995年に、アムド、レゴン地区の遊牧民地帯であるドワの一角であるドン・ンゲで生まれた。父の名はユロ、母の名はデチョク・キ。母親の父親は地域で指導的な僧侶ラマ・キャプである。
彼は祖父母の下で育てられ、9歳の時ドワ小学校に入学した。2007年、13歳の時、僧侶となり、ロンウォ僧院に入り仏教の勉強を始めた。
2008年、レゴンの武装警官隊は、当局に抗議したという口実の下、彼を拘束し、手かせ、足かせをはめ2日間拷問した。
2009年には問答試験にクラスで一番の成績で受かったとして賞を受けている。2009年8月15日に初期過程を卒業した。学僧として名高いレゴン・シャル・キャプゴンは彼に勉学を続けるよう勧めた。
2010年1月に彼はラサへの巡礼の旅に出た。ガンデン僧院等を訪問し、巡礼からの帰り道、タクツェル県の警察は理由もなく彼を拘束した。2日間拘束された後、僧侶を止め還俗することを強要された。このことが彼に深い傷を残した。
2011年、17歳の時、ロンウォ論理学学校の中級クラスに入学した。彼の勤勉さと、年長者を敬い、年少者を可愛がるという態度により、彼はすでに僧衣を着てはいなかったが、みんなは彼を尊敬すべき僧侶と見なしていた。
2012年2月、18歳の時、故郷に帰り、タニ母国語クラブのメンバーとなった。彼は純粋な母語(チベット語)を話すという運動に熱心になっていた。彼は地区で行われたチベット語競争で2位となった。
2012年11月8日(チベット歴の9月25日)、午後4時頃、彼はロンウォ僧院の僧門近くでその貴重な命を捧げた。その時、ダライ・ラマ法王のチベット帰還、民族平等、言語自由、環境保護を声を上げ求め、また遺書として書き残した。炎に包まれながらドルマ広場のドルマ像に向かって170歩も走った。そして力つき倒れ、菩薩と化した。
以上が亡きケルサン・ジンパの略歴である。2012年の初めと終わりに、レコン出身の17歳から40歳までのチベット人15人が、精神的苦しみと、レゴンの人々を含めた全てのチベット人の長年の希望を表明するために自らに火を放った。ほとんどの人々は彼らの真のメッセージを理解している。 続く。
参照:12月3日付けRangzen Alliance Blog http://www.rangzen.net/2013/01/03/remembering-martyr-kalsang-jinpa/#more-5774
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)