チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2012年12月16日

ウーセル・ブログ「書き換えられるレティン・リンポチェとシデ・タツァン」

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001ラサのチベット人街の中に今もそのままにされている目立つ廃墟が1つある。中国侵略による破壊の象徴のような廃墟を、なぜ当局はそのまま放置しているのか、私には不思議でならなかった。以下のウーセルさんのコラムを読み、やっと当局の意図が分かったような気がした。それにしても、すでにこの廃墟は長年放置され、多くの観光客が目にしており、普通の人は文革時代の破壊の象徴として解釈し済みな気がするが。

この廃墟はシデ・タツァンと呼ばれ、13世ダライ・ラマが崩御されたのち摂政として選ばれ、現在の14世ダライ・ラマの選出にも関わったとされる、5世レティン・リンポチェのラサでの修行場であった。5世レティン・リンポチェは1934年に3人の候補の中からくじ引きにより摂政(シキョン)に選ばれた。しかし、その後貴族内の争いに巻き込まれ、彼は逮捕され、代わりにタクタ・リンポチェが摂政となり、レティン・リンポチェは1947年に獄中で死んでいる。この貴族間の争いを中国は親中派であったレティン・リンポチェとその他の親英派の争いと解釈するが、真相ははっきり言って私にはよくわからない。ただ、はっきりしているのは、その時代の中国とは共産党ではなく国民党のことであるということだ。日中戦争と場合と同じように、ここでも共産党は国民党と共産党を都合良く置き換えるという嘘をついているのだ。

何があったにせよ、現在の偉大なダライ・ラマ法王を選びだす契機となった人として5世レティン・リンポチェはチベット社会では賞賛されているのである。

原文:12月8日付け 唯色:被改写的五世热振仁波切与希德林http://woeser.middle-way.net/2012/12/blog-post_8.html
翻訳:@yuntaitaiさん

写真説明(ウーセルさん):
1番上の写真…文化大革命で破壊されたシデ・タツァンの廃墟。2012年10月21日撮影。
2枚目雑誌画像…「亜州週刊」第26巻35期
3枚目人物写真…愛国者へと書き換えられたレティン・リンポチェ5世
本文終了後の写真3枚…下の写真は現在のシデ・タツァン。2012年10~11月に撮影。

◎書き換えられるレティン・リンポチェとシデ・タツァン

1345735401905_i2emq9ネット上で「亜州週刊」(香港の雑誌)の最近の記事「漢蔵が忘れられない愛国の感情」(http://www.yzzk.com/cfm/Content_Archive.cfm?Channel=hs&Path=2268715452/35hs1a.cfm)を読んだ。筆者はこの雑誌のベテラン記者、紀碩鳴だ。私たちは一度だけ会ったことがある。彼は数年前、北京で私と私の夫を取材し、チベットのさまざまな状況を理解している。中国共産党のメディアと記者ではない限り、書かれている内容は事実に基づいているだろうと私はずっと考えていた。

だが、この記事を読み、私はそうした見方に自信が持てなくなった。つまり、「『亜州週刊』はどんな雑誌なんでしょう?『人民日報』の香港版ですか?」とツイッターとフェイスブックで尋ねた通りだ。記事には、チベットの歴史に対する共産党と国民党のごまかしが満ちあふれていたからだ。完全にこれは歴史を書き換える稚拙な行為だ。

あるチベット人研究者はフェイスブックで、「いつの時代の話なんだ、未だに『愛国』『親英』『解放』といった分類でチベット近代史を説明している。この手の記事をまだ信じるのは漢人だけだろう。読んだ時、頭の中で反論するのも馬鹿馬鹿しかった」とコメントした。私は「使い古された言葉ばかりの文章ですが、
読んでみると、とても注意深く書かれていると分かります。それに、『亜州週刊』の読者は少なくないので、間違いが広まってしまうでしょう」と返信した。

チベット近代史に関する記述はまるで共産党式の書き直しだ。レティン・リンポチェについて、「チベット地方と中央政府の正常な関係を守ろうとしたため、当時の分裂勢力にひそかに毒殺された」「チベットの親英勢力は(中略)数々の陰謀をめぐらし、レティン・リンポチェを誹謗中傷した。(中略)レティン・リンポチェは大局に立ち、一時的に辞職することを決めた」と書いている。

レティン・リンポチェ次の部分はまるで中国中央テレビ(CCTV)の革命ドラマのようだ。「親英分子は『なぜチベットが中国に接近しなければいけないんだ?』とレティン・リンポチェに問いただした。レティン・リンポチェは毅然と、『1904年にイギリス軍のヤングハズバンドがラサへ攻め入った後、軍事費の賠償は全て中央政府が支払った。もし中国の金がなかったら、どうやってチベットを取り戻せただろう?』と答えた」

次の部分は更に事実からかけ離れている。「タクタ・リンポチェは3000人以上のチベット軍を動員し、(レティン・リンポチェを支持する)セラ僧院の僧侶600~700人を包囲した。そして英国人の指揮の下、機関銃や大砲で彼らを攻撃した。これはチベット現代史上に鮮血で記された極めて悲壮な愛国叙事詩だ。心を動かされ、涙があふれ出る」

「亜州週刊」はレティン・リンポチェとチベット史について、「チベット写真家の楊克林」の説明を至るところで引用している。楊克林は「チベットの重要な指導者を何人も取材したことがある」だけではなく、「ダライ・ラマ法王に十数回謁見している」という。彼はレティン・リンポチェ5世の悲劇について、元国民党蒙蔵委員会秘書で、後に中国社会科学院研究員となる柳陞祺の数年前の回想を紹介し、中国を深く愛するがゆえの「殉国」だったと説明する。だが、柳陞祺が当時ラサで書いた「実録チベット政変」から分かるのは、レティン・リンポチェは摂政になった時に恨みを買ったため、公の場で数人の貴族に復讐される結果になったということだ。西洋人がチベット兵の砲撃を指揮したという話がでたらめだということもはっきりと分かる。

シデ・タツァンは1959年3月に共産党の軍隊に攻撃された。1960年代の初めには、「3大領主」とその子女を改造する「学習班」が設けられ、文化大革命では紅衛兵と造反派に放送局や武闘の場にされた。文革後期になると軍が駐屯し、最終的に廃墟となった。この記事で最も許しがたいのは、「レティン・リンポチェの死後、タクタ・リンポチェはまず彼の遺体をシデ・タツァンに移し、策を巡らせて暴徒にここを襲わせた。そしてシデ・タツァンは廃墟になった」などと書いていることだ。補足しておくと、シデ・タツァンは(記事中に書かれているような)レティン・リンポチェのラサでの住まいではなく、ラサでの修行場だ。

記事によれば、楊克林は「レティン・リンポチェの殉国物語」の記録映画とテレビドラマを撮ろうとしている。また、シデ・タツァンを修復し、いわゆる「民族団結」を示す文献や文物を内部に展示したいのだという。つまり、シデ・タツァンを革命的な観光スポットに改造し、観光客に次のようなストーリーを聞かせようと企てている。「偉大な愛国主義者レティン・リンポチェ5世がイギリス帝国主義者とチベット独立主義者の魔の手にかかった後、彼の僧院は独立主義者によって廃墟にされた。現在では漢蔵団結と祖国統一に力を尽くす各界人士の努力により、かつての姿を取り戻した」。レティン・リンポチェとシデ・タツァンを書き換える取り組みが今進められているようだ。チベットの歴史を書き換える一つ一つの具体的な取り組みは今もなお続いているのだ。

2012年11月、ラサにて (RFA特約評論)

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筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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