チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年11月19日
ウーセル・ブログ:「『共蔵問題』の問題」 漢人民主活動家のチベット史観を批判
ウーセルさんは11月1日付けのブログで、中国共産党軍によるチベット人虐殺を扱った、在米漢人作家李江琳の新刊「鉄の鳥が空を飛んだ時――1956-1962 チベット高原の秘密の戦争」の中に現れる、民主活動家と見なされている彼女のチベットに対する見方を批判し、それが一般に漢人民主活動家に共通するチベット史観であるという。
原文:http://woeser.middle-way.net/2012/11/blog-post.html?m=1
翻訳:@yuntaitaiさん
新唐人テレビは2012年10月22日、李江琳のインタビューを放送した。李は「共蔵問題」という考え方を示した。
チベット研究者エリオット・スパーリンクは「死者の数」という記事で、1958年に死亡したチベット人僧俗の遺骨の写真を発表した。
◎「共蔵問題」の問題
米国在住の漢人作家、李江琳の新刊「鉄の鳥が空を飛んだ時――1956-1962
チベット高原の秘密の戦争」を私はまだ読んでいない。ただネット上で関連ニュースや本の序文を読んだだけだ。序文のポイントは次の部分だ。「1950年代半ばから1960年代初めにかけ、中国の西南部と西北部で凄惨な戦争が起きた。そこに含まれているのはチベット人の暮らすチベット3大エリア、つまり現在の『チベット自治区』と周辺4省のチベット人居住区だ。戦火を交えた一方の側は、現代兵器を持つ中国人民解放軍野戦軍と地方軍隊、軍事訓練を受けた武装民兵。もう一方は手作りの猟銃や小銃、刀剣などを持つチベットの農民と遊牧民、僧侶、少数の政府職員、一部のチベット軍だ」
それは実質的には「戦争」ではなく「虐殺」だった。また、虐殺が起きたのは「中国の西南部と西北部」ではなく、チベット人のチベット3大エリアであるアムドとウツァン、カムだ。とはいえ、この時代の歴史を研究し、明らかにした李江琳にはチベット人として感謝したい。
米インディアナ大学のチベット研究者、エリオット・スパーリンク教授がその時代に関する最新記事「死者の数」(訳注・日本語版は
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-634.html
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-635.html
)でちょうど指摘している通りだ。「おおよそ1950年から1975年までの間にチベットで大量死があったのは明らかだ。中国側の記録を自由に調べない限り正確な数は分からない。だが、大規模な虐殺が起きたという事実に異論の余地はない」記事に添付された3枚の恐ろしい白骨写真は大虐殺の証拠だ。最近掘り出されたカム地方ナンチェン(青海省)の集団埋葬地で撮影された。現地の住民によると、これは1958年に虐殺されたチベット人僧俗の遺骨だという。写真のほか、1982年の国勢調査後に中国が作成した「性別比グラフ」がある。「1982年のチベット高原では、広い範囲で男女比のバランスが崩れている。この不均衡を説明できるのは暴力闘争だけだ。女性の数が一貫して男性を上回っている最大の地域として、チベット高原は中国全土でも(地図に塗られた)赤色で目立っている」。
過去や現在の出来事についてアムドのチベット人と話すと、老人であれ若者であれ、誰もが「ンガ ジュ ンガ ジェ」(58年の意)、または「ンガ ジェ」(58年の省略形)に触れる。1958年前後、中国の軍隊と政権はチベット全土、特にアムドで各家庭にまで及ぶ災難を引き起こした。「ンガ ジェ」はチベット人の記憶に深く刻み込まれた。文化大革命まで「ンガ ジェ」と呼ばれるほどだ。「ンガ ジェ」とは、いわゆる「解放」後のあらゆる災難の集合体だ。
李江琳は新唐人テレビの取材を受け、「チベットで起きた戦争は実質的に、中国共産党が政権を樹立し、国家権力を築き上げる過程の一部分です。そこで起きた全ては本質的には中国の内地と何の違いもありません」と話した。新唐人テレビは次のように総括した。「チベット人民への共産党の暴力的な鎮圧と信仰の破壊は、実は内地の漢族人民に向けられたものと本質的には変わらない。李江琳は記者にそうした見方を示しました。いわゆる『漢蔵(漢人とチベット人)矛盾』は実際には『共蔵(共産党とチベット人)矛盾』(李江琳の表現では「共蔵問題」)なのです」
私はこれには全く同意できない。二つの間にはもちろん本質的な違いがある。中国のいわゆる「内地」で起きたのは内乱だが、チベットで起きた全ては中国の侵略と占領なのだ。もしこの二つに本質的な違いがないのなら、「民族闘争はつまるところ階級闘争の問題である」という毛沢東の言葉が世界中で通用する真理になる。侵略と占領、植民に体裁の良い理由が与えられてしまう。また、虐殺と反抗について、「共」と「蔵」の間に「問題」が起きた、あるいは「矛盾」があったなどと言うのは、あまりにも表現が軽すぎるのではないか?これでは真相から目をそらすことになるのではないか?まさか私たちはナチスのホロコーストを「ナチス・ユダヤ人問題」「ナチス・ユダヤ人矛盾」と言い換えても構わないのだろうか?
漢人の民主活動家は長い間、「チベットには民族による圧迫はなく、ただ共産党政権の圧迫があるだけだ。こうした圧迫はチベット人に対しても漢人に対しても同じことだ」という主張を堅持してきた。有無を言わせずそう堅持する姿勢から見えてくるものがある。それは、「チベットは古来より中国の一部分だった」という官の言い分に民主のベールを覆いかぶせる反復的行為だ。まさしくここに、歴史認識についてチベット人との根本的な食い違いが存在している。だが、(それ以上に)チベット人がどうしても失望を感じるのは、漢人民主活動家のこうした言説がチベット人の考えをほとんど気にかけていないという点だ。民主の砦に立ってさえいれば、帝国主義的な大中国意識を再びチベット人に押し付けてもいいかのようだ。
2012年11月1日、ラサにて (RFA特約評論)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)