チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2012年9月17日

王力雄「チベット独立ロードマップ」

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OHHDL2-1王力雄さんはウーセルさんの旦那さんであり、チベット問題に精通し、かつ支援する、勇敢で良心に従う事を知る中国人知識人である。チベット関連の著作も多い。2010年5月には中国国内の中国人とダライ・ラマ法王のネット対話を実現させている。

彼は2008年3月のチベット蜂起を受け、この蜂起の本質を分析し、「チベット独立」が果して可能であるのかどうかについて大胆な分析と予測を行っている。2008年中に発表されたこの文章の中で、彼は東チモールやコソボの例を出し、ある条件が揃えばチベット独立は可能であると結論づける。その条件の主なものは「中国共産党の瓦解」と「チベット人総蜂起」である。残念ながら、この全面蜂起は彼によれば「法王崩御」を契機とするものであり、もちろん「大量の犠牲者」が出ることも半ば独立への必要条件であるという。

中国の政治組織に対する鋭い洞察に富み、色んな意味で深く考えさせられる論文と感じた。また、今現在行われている反日デモを分析、理解するためにも参考になると思われたので、今日これを紹介することにした。

少々、長い論文ではあるが、@sinpenzakkiさんの確かな翻訳により幸い日本語で読むことができるのだ、チベット問題に関心がある方で、まだこの論文を読まれていない人は、是非最後まで読んでみてほしい。

以下、本人の了承を得てブログ「思いつくまま」http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ef1cc767204f12eabb9cbd727d91548より転載させて頂く。

王力雄:チベット独立ロードマップ(1)

原文:http://woeser.middle-way.net/2008/11/blog-post_05.html

一、チベット事件が分水嶺

1、官僚集団が主導した

このロードマップは分水嶺から出発する。2008年のチベット事件以前には、私はまじめにチベット独立に向き合ったことはなかった。この事件は分水嶺であり、私に初めてチベットに独立の可能性があることを直視させた。これ以前にチベット独立が夢にすぎなかったとしたら、これ以降はチベット独立は水面に浮上し、目視できる範囲に入ってきた。このような変化が起きたのは、推進者が他でもなく、まさに中国の権力システムの中で「反分裂」機能を担っている官僚集団だったからだ。

19世紀中葉から20世紀中葉にかけての中国は、ずっと帝国主義の被害者というイメージだ。近代中国人はその時の屈辱をしっかりと覚えているが、中国もまたかつて帝国であったことを直視する人は少ない。中国は17世紀から18世紀にかけて巨大な国土の拡張を行った。時にほかの帝国に負けて割譲した屈辱もあったが、いまだにチベットを含むかなりの帝国遺産を継承している。

今日、チベットの領土は中華帝国版図の四分の一を占める。チベット問題は帝国政治の中で重要な位置を占め、中国の共産党政府権力システムの中の多くの部門がチベットに関係している。省・部級機関は下記の13機関が関係している。

1、チベット自治区
2、青海省
3、甘粛省
4、四川省
5、雲南省
6、中国共産党中央チベット工作調整小組
7、中国共産党統一戦線部
8、公安部
9、国家安全部
10、軍隊
11、武装警察部隊
12、国務院新聞弁公室
13、国務院宗教事務局

これらの機関は、いずれもチベット問題を専門に処理する部署を持っており、長期間にわたって、ときには一生その職権を行使し続ける官僚がいる。この13の機関の他に、さらに下記の11の省・部級以上の機関が直接にチベットにかかわるわけではないが、同じように「反分裂」機能を担っている。

1、中国共産党中央政法委員会
2、中国共産党中央新疆工作調整小組
3、新疆自治区
4、新疆生産建設兵団(訳注:別名「新建集団公司」)
5、内モンゴル自治区
6、外交部
7、国家民族事務弁公室
8、国務院台湾事務弁公室
9、国務院香港マカオ事務弁公室
10、中央人民政府駐香港特別行政区連絡弁公室
11、中央人民政府駐マカオ特別行政区連絡弁公室

すべて足すと、中国の官僚体系のなかで「反分裂」機能を有する機関は計24機関あり、膨大な集団であり、有する権力、人力、資源は並大抵ではない。今回のチベット事件処理において、それらは一つの同盟として、全処理過程を主導した。この点では毛沢東時代や小平時代とは違う。当時は、チベットに対して「統一戦線」をやるにせよ「反乱平定」をやるにせよ、「正常化」をやるにせよ、「戒厳令」を敷くにせよ、いずれも権力トップが決定し、官僚集団が執行していた。しかし、今回のチベット事件は、権力トップは基本的にたいしたことはしておらず、完全に官僚集団が自分たちで処理した。

とはいえトップが権限を譲ったと簡単にみなすことはできない。実際、ラサ事件発生の当月、温家宝総理はラオスで大メコン圏サミットに出席したとき、ダライラマが彼の影響力を発揮してチベット事件を鎮静化させるよう希望している。このこれまでになかった言い方は、中国リーダーの新思考ではないかと、国際社会の注目を集めた。しかし、そのあとは続かず「反分裂」官僚集団の事件処理方法に何の変化も現れなかった。この件が示したのは、今日の中共政権のチベット問題処理は、権力トップの決定が必要ないばかりか、たとえトップが決定しても、官僚集団の意向に沿わなければ、効果を発揮することができないということだ。この仕組みはたぶん今後の前例になるだろう。なぜこのような変化が生じたかについては、後述する。

権力トップが独裁できる時は、一方で、専横、粗暴、はては荒唐無稽でありうるし、また一方では高遠な志、正常化、ブレークスルー、政局変動の可能性もある。両者は一歩の違いであり、ときとして権力者の気が変わっただけである。一方、官僚集団が主導するときは、そのような劇的なことは起こらず、明確なルールの枠組みができる。官僚集団とは一種の相互けん制をし、段取りを踏まえて仕事をする、前例踏襲の構造である。より重要なのは、官僚集団は一つの利益主体であり、それが政策決定を支配したら、すべての決定を彼ら自身の利益に一致させようとするということだ。自身の利益と社会利益が対立した時は、官僚集団は破壊者となる。民衆の利益を破壊するだけでなく、それが本来奉仕の対象とする統治目標をも破壊しうる。「反分裂」官僚集団がまさにそれであり、それが自身の利益により「反分裂」行動をとる時、その結果は中国をいっそう危険な分裂に押しやる。このような視点から、今回のチベット事件の流れを見てみよう。

ラサの「3・14」のような街頭抗議行動や暴力事件は、中国国内では別に珍しいことではない。内地の事件処理の方法も相当ひどい。しかし、もし「3・14」事件に対して内地と同じ方法――情報封鎖・大事件を小さく報道・矛盾先鋭化防止・鎮圧と慰撫の組み合わせ・下級官僚からスケープゴートを探して民衆の怒りを鎮めるなど――を取ったならば、その後チベット人地区(訳注:ウ・ツァン、アムド、カム=中国の行政区ではチベット自治区+青海省+四川省東部+甘粛省の一部+雲南省の一部)全体に波及した連鎖反応は生じなかっただろう。しかし、チベット問題に対しては、官僚たちはそのような平常心を持ち合わせてはいない。なぜならまず、チベットは世界から注目されており、事件は国際世論を呼び起すからである。次に、チベット動乱はチベットを担当したことのある中共指導者胡錦涛の顔をつぶすから、役人は上から下までとがめだてを恐れる。第三に、当局が何度も「チベットは歴史上一番いい時期だ」と繰り返してきた以上、このような自分の顔を平手打ちする(訳注:メンツをつぶす)ことは何とか言い繕わなくてはならない。中国の官界では、少数の個人や単一の機関が責任を負うべき事項は、スケープゴートを探してきて処理すればよく、官僚の間の出世競争もそれにより人の災難に付け込んで追い打ちをかけることになりやすい。しかし、チベット事件はチベットだけの担当ではない。多額の金を使い、長い時間をかけ、多大な努力を払って、それでもこれだけ大規模な民衆抗議行動が起こったということは、常識でもチベット統治路線が失敗であったことが分かる。しかし、チベット統治路線は多くの機関が共同で推進し実行してきたものであり、路線の失敗を承認すれば、13のチベットにかかわる機関いずれも責任を逃れられず、ほかの「反分裂」機関も巻き添えを食う。この責任は全体的であり、直面する責任追及も官僚の間の責任のなすりあいで解消するものではない。多くの官僚が出世の行方に影響を受ける。ゆえに、「反分裂」官僚たちは団結して、同盟を組み、一緒に行動して、チベットの官僚の責任逃れを助けることではじめて彼らも責任を逃れられる。

責任はだれになすりつけるのが一番効果的か? 「ダライ集団」になすりつける以上の上策はないことは推して知るべきである。なぜなら、どんな理由であれ、チベット本土の中で原因をさがすのであれば、官僚の責任は免れられない。責任を国外に押し付けることで、初めて自分は完全に関係なくなる。チベット自治区当局はラサ事件発生の当日には新華社に「これはダライ集団が組織的、計画的に入念に準備したものであるという十分な証拠がある」と言明している(訳注:末尾の「参考」に全文あり)。この言明でただちにすべてのチベットに関係する機関と反分裂機関は口裏を合わせた。彼らはいまだに「十分な証拠」を示せていないことから、これは責任逃れの虚言だったことがわかる。しかし、官僚たちは証拠を示せるかどうかなど意に介していない。彼らの目的は先制して世論を主導することだ。この点は成功した――彼らの虚言がすぐに中国の一致した世論となり、疑義をはさむことを許さない言説となり、社会(権力トップを含む)に口裏合わせを誘導し強要する効果をもたらした。

出発点が方向を決定する。出発点はミリのずれでも、結果は千里の誤差が出る。この責任逃れの官僚の口裏合わせが、その後の行動の枠組みを決め、事態の発展方向を決めた。たとえば3月14日ラサの騒ぎが発生した地域では数時間の放任状態が出現していた。周囲には軍と警察が集結していたが中に入らず、行動せず、暴力行為のエスカレートに任せた。多くの人がこの奇妙な現象に途方に暮れた。いくつかの解釈の中で、私が傾く解釈は、この放置は鎮圧のために口実を「育成」するもの、および「プロパガンダ攻勢」のためのビデオ映像を集めるためというものである。一方で撮影隊が騒ぎの地点に入って撮影する時間が必要であり、もう一方で抑制されない暴力はどんどんエスカレートし、鎮圧に十分な合法性を与えることができる。また強烈な暴力映像を証拠として撮影することができる。もし、騒ぎの最初から警察力で規制していたら、事件の規模は非常に小さく、全体には有利だが関係官僚には不利だっただろう。なぜなら、事件がすでに発生した以上、あまり激しくないうちに鎮圧したら非難されるだろう。北京も多分不満だろう。官僚は事件発生の責任を他にそらすことができないばかりか、処理不適切という罪名も増えるかもしれない。ゆえに彼らは任務を遂行せず、事態を拡大させ、事件が非常に深刻になって「組織的、計画的に入念に準備したもの」と認められるようになるのを待って、やっと鎮圧した。そうすれば外部からは批判されないし、北京も咎め立てしにくい。

これが独裁制度の特徴である。権力システムの中のすべての役者がみな自分の利益を中心にすえて、個人の得失で行動を決める。官僚は個人のそろばん勘定のためには、あえて状況を悪い方向に向かわせ、どんな悪い結果になろうと構わない。今回のチベット事件の脈絡を顧みると、ラサの僧侶の平和的請願から、一歩ずつチベット人地区全域に及ぶ騒動と鎮圧に発展していき、さらに全世界的な抗議と反抗議に拡大したが、どの段階にもこの要素が作用している。

2、民族矛盾の民族対立への変化

3・14事件発生後、官僚たちはまず政権トップ、国内民衆そして国際社会に鎮圧の必要性と合法性を証明しようとした。彼らが取った方法は機先を制して、すべての言論手段を使って頻繁な情報爆撃を行い、同時に現場を封鎖し、情報を遮断して、相手に自分に不利な証拠を握らせず、言論独占の目的を達成した。中国の他の地方で似たような事件が発生した時は官製メディアはほとんど報道しないし、テレビに登場することはもっと少ないのに対し、今回のラサで起こった暴力ではいつもと態度を一変させた。10数時間後、テレビニュースを通じて映像を全国さらには全世界に送り、集中的にチベット人の中国人に対する暴力映像を放送し、事件の原因は語らず、ただチベット人の中国人への攻撃だけを流し続けた(たしかにその攻撃はあったとしても)。責任を国外の分裂策動になすりつけることによって、中国人のチベット人に対する民族主義的感情を扇動した。

民族対立は国家が分裂する根本的原因である。本来まず避けるべき分裂を、「反分裂」の職責を負う官僚集団はむしろ今回のチベット事件では一手に作り出した。彼らはそれがもたらす結果を知らなかったのではなく、十分わかったうえで民族対立を利用した。彼らに必要なのはこのような結果だった。中国の多数派民族――中国人の民族感情を煽動し、敵への憎しみによって団結する社会的雰囲気を醸成すれば、彼らは後ろに隠れることができ、民意の詰問と追及を逃れられるだけでなく、沸き上がる民意を借りて権力トップを彼らの軌道に乗せることができる。いかなる陰謀論に対する懐疑も、自分の側の反省も、穏健な処理の努力も、矛盾緩和の意図も、みな激怒した民意の威嚇の前では広まることはできず、「反分裂」官僚の虚言だけが疑いを許さない定説となり、拡大し続け、すべてのそれ以外の声と行動を飲み込んでしまった。

この種のプロパガンダは事件を鎮静化せず、むしろ火に油を注ぐ。1980年代のチベット人の抗議はラサに限定されていたが、今回チベット人地区全体に広がった大きな原因はテレビである。当時少なかったテレビが今では隅々まで普及した。チベット人が中国人を攻撃する映像は中国人にチベット人弾圧に賛成させるが、チベット人に対する効果は逆である。各地のチベット人の日常生活の中で積った不満は、感覚的なテレビ画面から容易に引き出される。テレビは相当程度チベット人地区での抗議行動の動員令になったということができる。チベット人として、ラサの街頭で起こった行為は理解し同情できるだけでなく、一部の人々はテレビの内容にミスリードされ、同じような行為で不満を表現すべきだと考えた。チベット人地区の一部では異民族に対する暴力事件が発生したが、それはまさにラサ街頭のテレビ映像を見た後だった。当局はチベット人地区各地で同時に発生した抗議行動を「組織的、計画的に入念に準備したもの」であることの証明であるという。しかし、組織、計画、準備など全く必要ない。各地のチベット人が、ラサの人々が立ちあがった生々しい映像を見たら、それだけで彼らが同時に街頭に出るには十分だ。この動員令は、まさに当局自身が出したものだった。

もう一方で、一方的に材料を取捨し、理由を検討せず現象を誇張して世論を煽動し、事件を一方的にチベット人の中国人に対する理由のない怨恨殺人と表現した。その結果は中国人とチベット人の民族分断である。近年の中国人がチベット文化に対して示していた憧れと親しみは、180度転換し、チベット人全体に対する恐れと憎しみに変わり、チベット人を恩を仇で返す民族とみなすようになった。インターネット上では中国憤青(訳注:民族主義的感情に突き動かされて排外主義的言動をとる青年。1989年天安門事件以降の愛国主義教育のもとで育った世代が中心)のチベット人に対する熱狂的罵倒で充ち溢れた。チベット人に対する排斥ムードが中国社会に充満した。あちこちでチベット人に対する差別と不当な処遇が発生した。空港・ホテル・各種のチェックポイントでチベット人と見れば高い地位の人であっても侮辱的な処遇を免れない。さらにはチベット人の児童が学校で中国人児童からいじめられている。この種の中国人全体からの敵視は、チベット人全体を中国人の対立側に追いやる。当局のプロパガンダに対する反感により、チベット人は当局の言葉を一切拒絶するようになり、また中国人の反チベット人に対して反中国人で答えようになる。今回の事件の後、中国チベット間には既に血縁で分割された種族対立が生まれてしまったといえよう。もっとも典型的な例はその後開かれた北京オリンピックの期間中、本来民族間の区別のなかったチベット人の子供が以前の中国ガンバレから中国が金メダルを逃すたびに歓声を上げるように変わったことだ。子どもの変化が、チベット問題の長期的方向を暗示している。

今回のチベット事件の前から、チベット独立の他の条件はかなり揃っていた――単一民族、単一の宗教と文化、地理的境界の明確さ、歴史的地位の明白さ、国際社会の承諾、衆望の帰するリーダーと長く運営されてきた政府(訳注:ダランサラの亡命政府)……しかし、最も重要な条件がそろっていなかった。すなわちチベット人の主体である国内のチベット人に独立追求の十分な意欲がなかったことだ。チベット問題が長期にわたって存在してきたとはいえ、政治・歴史あるいは文化レベルに集中していた。対立に関与していたのは当局・民族の上層部・知識人と国際社会であった。1950年代のチベット人武装抵抗とダライラマ亡命があったとはいえ、毛沢東によって階級闘争に解消され、民族対立にはならなかった。1980年代のラサ抗議行動はほかのチベット人地区に拡大しなかったがゆえに、チベット中国関係全体には影響しなかった。二つの民族の一般民衆の間では、これ以前の関係は一貫して比較的良好だった、ないしは比較的親しかったといえる。国内のチベット人の多数が独立を追求していなかったときは、チベット独立に有利なほかの条件がいくら多くても、影響は生じなかった。私が以前チベット独立の先行きを直視しなかった原因は、まさにここにある。

しかし、今回のチベット事件はチベット人と中国人の民族間全体に溝を切ってしまった。民族関係は民族対立になり、状況は本質的に変化した。上層とエリートの間の民族矛盾は比較的解消しやすい。政策の変化、体制改革、名誉回復などによって解決の道をつけられる。しかし、血縁で区切られた民族矛盾は各個人にまでおよび、二つの民族の日常交流のすべての細部に及ぶ。双方のすべての成員、すべての接触が衝突の原因になりうる。そしてすべての衝突が動員拡大の作用をし、民族間の憎悪を増大させ、報復の応酬となり、衝突はエスカレートし、二つの民族はますます疎遠になり、引き返すことができなくなる。その時、抑圧と差別を受ける少数民族側に独立の要求が生じるのはほとんど理の当然である。一旦国内のチベット人がひろくチベット独立を望み出したら、チベットがもともと具備していた独立条件はすぐに効果を発揮する。まさにこの重大な変化が、チベット独立を現実レベルに引き上げた。最終的に独立できるかどうかは歴史のチャンスと外部環境に左右されるとはいえ、少なくともチベット人自身にとって、条件はすべてそろった。これが今回のチベット事件がもたらした転機である。もし「チベット独立」に論功行賞を行うのであれば、最大の功績は勿論チベット人と中国人を民族対立に追いやった中国の「反分裂」官僚集団である。

続く

チベット独立ロードマップ(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/0ff44f54f233cb296c1ab0eafb74f928

チベット独立ロードマップ(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/1e38df56380bb6a52b5c17871cd0c7f1

チベット独立ロードマップ(4)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3a53e3e0803b96c4807a55f9c5665c01

チベット独立ロードマップ(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/ad0b149a99460cc9b1333fe1463878f7

チベット独立ロードマップ(6)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/22ce52f7c20ee1714fb388f36d78a0b1

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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