チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年9月7日
ダラムサラ法王ティーチング
今月4日から3日間、ダラムサラのツクラカンでダライ・ラマ法王によるティーチングが行われた。今回ティーチングをリクエストしたのは東南アジアグループ。タイ、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インドネシアの人が中心だった。彼らのリクエストによるティーチングは2007年以来これで7度目という。3年前からシャーンティデーヴァ(寂天)の「入菩提行論(チュンジュク)」が連続的に講義のテキストに使われている。今年は第5章「正智(気付き)」と第6章「忍耐」が最初の2日間講義され、最後の日は菩薩戒授与と白ターラ菩薩の灌頂が行われた。
地元のチベット人数千人と共に、50カ国を越える外人が参加した。今回、日本人グループは特に少なく15人ほど。
壇上左手にはテラバーダ系の僧侶たちが並び、なかなか興味深かった。
以下、第一日目午後の部のさわりの部分を日本語にしたものを掲載する。
なお、これは逐語訳ではなく、適当に省いたり、足したりした部分もあるので参考程度と思っていただきたい。
仏・法・僧と言われる三宝は時間的順番で言えば、釈迦牟尼仏陀が最初に現れ、悟った後に四諦等の法輪を回され(教えを説かれ)、それを聞いた弟子たちの心に真理への理解(=法)が生まれた。最初に教えとしての法が説かれ、理解という法が心に生じた。このように教えとその理解を得た人が優れた僧伽となった。このようにして、仏・法・僧が順次生じたのだ。仏は帰依すべき対象、僧伽は目的を達成するための助言者、この二者の援助により自分の心の中に法が生まれる。こうして仏教の本体である法が生まれる(という順番だ)。
この法を生む事ができるという根本の理由は何かと言えば、心の本性が光明(ウーセル)であるからなのだ。心の本性が光明ということの意味は、心の本性が自性空であるということだ。心が自体として成立しない空であるが故に、心は変わる事ができる。心が空でなく、自体として成立しているならば、例えば、煩悩が自体として成立している(空でない)ならば、これを変える、治癒することなどできないということになる。煩悩は条件により生まれたものだ。良き心、悪しき心というものは条件により生まれたものだ。条件により生まれたものであるから、良き条件に出会えば、悪い条件が(相対的に)減ることにより、心が良き方向に変化する。このように心の本性は光明であるから、心に法が生まれる可能性があると言えるのだ。
心の光明という、心の法性(チュニ)の上の汚れが未だ取り除かれていない状態を「仏性」と名付ける。一方、全ての汚れが取り除かれた時の心の法性を「菩提」と名付ける。だから、法が実現できるという保証は、仏性という心の空性が(元に)あるからだ。故に、心から汚れをなくす事が可能であり、良き特性を獲得する事が可能なのだ。徐々に心の薫習も取り除く事ができ、全ての薫習も取り除かれた時を「菩提」と呼ぶ。このような菩提を得るならば、どのような良いことがあるかといえば、その時、自分を完全に利する「福徳」と、他に対する「加持」という二つの利が自在に実現される。
ここでいう、「智慧は菩提を見る」とは、空性としてある心、仏性を認識することは慈悲を瞑想する事とは違うということである。これは対象を考察するということだ。一方、慈悲とか信を瞑想するとは心をそのような状態に持って行き、習慣付けるということだ。心の空性ということは理解であり、心自体ではない。これを瞑想するとはその意味を心に浮かべ、対象として考察するということだ。これを理解と顕現に分ける。
このような菩提ーー全ての汚れから自由になった時の心の空性ーーを実現できるという保証は仏性にあるので、これは智慧の対象であって、慈悲によって得られるものではない。だから、「智慧は菩提を見る」というのだ。
「悟り」というのは非仏教徒の中にもある。仏教でいう「悟り」とは何かと言う時、「仏が滅諦を説かれた」というなら、これは経典を根拠にするものだ。悟りとはどういうものかは分からないが、とにかく仏が説かれたのだ、という場合、これは信の領域だ。特別な理由、論拠がある訳ではない。本当は「悟り」ということを考え、論拠を考察して、悟りいうことを論究べきなのだ。もっとも深淵な考察は龍樹菩薩(ナーガルジュナ)の論書の中にある。龍樹の中論の中に「業と煩悩を滅し解放を得る」とある。業と煩悩を対治を生じさせることにより滅するならば、この時の心の法性が「悟り(解放)」だと。「心の空性」が「悟り」だとおっしゃるのだ。
では、この悟りの障害となる業と煩悩を如何にして滅するべきかというならば、「業と煩悩は雑念(戯論・概念的思考)から」とある。業は煩悩より生じたものものであり、煩悩は誤解という雑念から生まれたという。されに、「それらの雑念は」と続くが、「それら」とは誤解の根本原因である自性を掴む心から生まれたのだ。だから、実体を掴む癖を捨てるべきなのだ。つまり「雑念は空により滅せられる」と。
実体視という間違った認識は何に依って滅せられるかといえば、祈りによってこれをなくす事はできない。十方におわします仏の加持力によりこれをなくす事ができるということもない。五体投地をしたり、コルラしたり、マントラをいくら唱えてもこれはなくならない。同様に愛や慈悲を行じても無くすことはできない。この実体視は何に依って無くすことができるかと言えば、「空性(の理解)により滅せられる」というのだ。ここで「空性は真理として昔からある、なら実体視などとうの昔に無くなっているはずではないか?」という人がいるかもしれない。ここの意味は「空の意味を知るならば、その理解により実体視を無くすことができる」ということだ。効果の意味で「空性により滅する事ができる」という。行に結びつけ「どこに滅せられるのかというと、空性の中に滅せられる」という。これが中論が説く「悟り」へのプロセスだ。
このように、悟りというものは心の空性の内に考えなければならないもの。これがどのように実現されるのかと言えば。悟りの障害となる、煩悩と煩悩の根本原因である無明、その主要なものは「実体視という無明」であるので、これを無くすために「空性を理解する智慧」により自らの「実体を掴む心」を消し去ることにより実現されるのだ。
一つの心が「本当だ」と思っている。これを「実体視する心」と呼ぶ。この「本当だ」と思う心を無くすためには、この心が「本当だ」と思っている対象が、実はそのようには無いということを(もう1つの心/智慧の心で)検証すべきなのだ。最初、そのようには「無い」という教えを聞く事から来る理解に始まり、その後、自ら考える事による本物の理解(納得)を得、それを何度も何度も考え、「本当に全くない!」という強い理解(直接体験)を得る。さらに何度もこの理解に慣れる事により、ものが実体的に存在すると(本能的に)感じる力が徐々に弱まり、そのものを実体視する心は心の本性ではなく一時的な原因と条件により植え付けられた心であるから、いつかそれを完全に無くす事ができる。この(汚れた)心を完全に捨て去ることにより最終的な「悟り」を得るのだ。これが「智慧は悟りを見る」という意味だ。
「慈悲」はこのような「智慧」ではなく、望み、意思の領域だ。苦しみから逃れられたら、自由になれたらという望みだ。自分が苦しみから逃れたいと思う心が「出離」。他の全ての生きとし生ける者が苦しみから自由になれますようにと願う心が「慈悲」だ。「慈悲は有情を見る」とはこのことだ。(了)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)