チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年8月22日
ゲシェラの思い出
富士山麓で地鎮祭を終え、東京に向かっていた豪華バスが、週末の渋滞と重なった事故の煽りで5時間程高速道路上に止まった。バスが動かないことなど全く気にならないらしく、木村肥佐生先生はゲシェラ(ケンスル・リンポチェ・テンパ・ギェルツェン師)とチベット語で楽しそうに会話をしていた。その内、外は暗くなり、夕食の時間も過ぎた。木村先生はバッグから何か取り出しみんなに分け始めた。ナッツやドライフルーツだった。「いや~私はモンゴルやチベットを長く旅行していた時の癖で、今も非常食なしには移動できないのですよ。今日はこうしてそれが役に立ってよかったですよ」と先生。みんなこれには驚き、喜んでその非常食を食べた。
バスの中にはその頃(30年前)チベット関係と言われる錚々たる先生方が一堂に会していた。その頃京大におられた川喜田二郎先生、東大の山口 瑞鳳先生もおられた。ゲシェラに会ったのはこの時が初めてだった。まん丸い顔でにこやかであった。周りの大先生たちもみんなゲシェラを特別に尊敬しているように見えた。一向を先導するペマさんから「今度サムエ寺院の管長になられる方です。法王がそのために選んで日本に送って下さった方です」と紹介された。
みんなでその「サムエ寺」と名付けられた日本で初めての本格的チベット寺院建設予定地で地鎮祭を行い、帰る途中であった。富士山麓の雑木林の中でゲシェラがチベット式地鎮祭を行われた。私はその寺院の設計をペマさんに頼まれ、初めてその敷地を見るために同行したのだった。一緒にバスに載っていた、ゲシェラを初めとする大先生方についてもそのときは名前を知ってるぐらいで、その偉大さについてはそれから後徐々に知る事となった。
私はゲシェラを一目で大好きになった。この人が管長になるなら設計も頑張らなくては、と思ったものだ。
しかし、計画は何度も頓挫した。敷地も富士山から東北へ、北関東へ、千葉へとめまぐるしく変わり続けた。その度に私は一からやり直し図面を引いた。ペマさんは寄付を募った。私の友人、先輩たちもお前が設計してるならと寄付してくれた。寄付は数千万になっていた。しかし、今現在もペマさんからこの寄付が一体どうなったかの説明を聞いた事がない。2年間働いたが、設計料が払われたこともない。
私は「もう建物など借り物でいいじゃないですか。教えを受けるために集まる場所があれば良いはずです」と言った。そして、そのころ建築の出身研究室が関わっていた、ある新潟の村から小学校の廃校を譲り受けるということもやった。しかし、この廃校も使われる事はなかった。
ゲシェラとはその後もペマさんの事務所(その頃のダライ・ラマ代表事務所)で何度も会った。「寺が出来なくて済みません」と私は謝った。ゲシェラは何とも思っていないようだった。それでもゲシェラは「今、儀式のやり方を勉強しているところです。私は今までそのようなことは勉強したことがないので、少し準備しようと思っています」とおっしゃった。
ゲシェラは東洋文庫で研究者のためのインフォーマーとなり、仏教論理学や語学を教えておられた。でも、私はゲシェラにもっと広く多くの人たちに仏教を説いて頂きたいと思っていた。それが、ダライ・ラマ法王の御意志でもあると思った。もちろん、東洋文庫でゲシェラの教えを得た福田洋一先生初め数人の研究者が素晴らしい研究をされている事は間違いないが。
設計に関わる以前から仏教には興味があったが、ゲシェラに会ってから、チベット仏教の本も読み、チベット仏教への期待は大きくなって行った。
サムエ寺院計画が行き詰まっていた頃、法王が日本に来られた。私は法王にサムエ寺院の計画について説明するために呼ばれた。初めてお会いした法王はもちろん私を感動させた。計画がうまく行っていない事を報告した。そして、法王からダラムサラに来る気があるかと問われた。こうして、家族を連れてのダラムサラ生活が始まった。その時にはまさかこんなに長くダラムサラに住み続けることになろうとは夢にも思わなかった。
ダラムサラに来て以来何人もの素晴らしい先生から仏教の教えを受けた。もちろん法王からも驟雨のごとくに教えを聞いた。しかし、元々凡夫の身であり、理解も実践も仏教徒とも言えないレベルのままだ。
ゲシェラは東洋文庫に5年おられた後、デブン・ゴマンの管長として南インドに行かれた。管長職は普通5年勤めるのが当たり前だが、ゲシェラは3年で辞められた。「どうして途中で辞められたのですか?」と聞くと、「管長の仕事は、戒律を破ったりした僧侶をしかることです。時には辞めさせなければいけません。私は人を叱るとこができません。辞めさせることもできません。管長の仕事は本当に嫌なものです」とおっしゃった。そしてまた、日本に来られ東洋文庫に通われた。
その頃、日本に帰った時ゲシェラの部屋を訪れた。そこは木造の祖末な学生下宿の4畳半だった。都電がすぐ近くを通っていて、電車が通る度に部屋が揺れた。私は涙が出た。本当に済まないと思った。「ゲシェラ、こんな近くに電車が通るところでうるさくないですか?部屋も狭くないですか?」と聞くと、「何でもないです。部屋も狭くて良いのです」と小さなガスコンロでお茶を入れてくれようとする。自分の僧院であるデブン・ゴマン学堂にいれば、大先生として多くの弟子から尊敬され、至れり尽くせりの扱いを受けるであろうに。日本でなんとひどい扱いを受けていることか。その時一緒に部屋に行ったT女史はまだ学生だったが、それからゲシェラの面倒を見たいと同じ下宿に住み始めた。
東洋文庫の仕事も終え、インドに戻ってこられたゲシェラが、デラドゥンに土地を買ったので家を設計してほしいと言ってこられた。家が出来たらそこでツァム(お篭もり)をする積もりだと言われた。喜んでゲシェラの家を設計し、完成した後、庭にも沢山の木や花を植えた。そこで、数年ツァムをされた。
その後、いつの事だったかよく覚えてないが、ゲシェラに会った時「いくところが無くなりました」とおっしゃった。「なら、ダラムサラに来て下さい。私の家が有ります」というと、「ダラムサラには行けません。ダラムサラに行けば、法王がナムギェルの管長になれと言われるに決まってます。私はもうそのような仕事はしたくない。静かにしていたいんです」とおっしゃった。それからまた南インドのゴマン学堂に帰られ3年3ヶ月のツァムに入られた。
それからしばらくして、野村君がゲシェラを広島に呼びセンターを始める事になった。野村君と共にゲシェラを連れてダライ・ラマ法王に謁見し「ゲシェラを日本に送って下さい」と頼みに行った。法王はゲシェラを「ジャパンゲシェラ」と呼ばれ、「日本に縁の深いゲシェラだ。良かろう」とおっしゃった。法王はまた「このゲシェラは私より余程学のあるゲシェラだ」ともおっしゃった。広島は私の故郷でもあり、帰郷する度にゲシェラのいる龍蔵院にお邪魔した。
そして、ゲシェラは法王を広島にお呼びする仕事を終えられた後、脳梗塞で倒れられた。2年前に南インドに行きゲシェラを見舞った。右?半身が少し不自由となり、話をするのも少し不自由のようであったが、それでも頭はいつものようにはっきりしており、話もできた。ゲシェラはその時「「自分が亡くなっても弟子たちに 『トゥルク(生まれ変わり)』を探すなと言ってある。(チベット人として生まれ変わるなら)貧しい一僧侶として出家して、何ら特別扱いされずに僧院で過ごすのがよい。心配しなくても勉強してゲシェになるから大丈夫だ」とおっしゃった。そして私には「中原さんはもう沢山教えを聞いた。これからはゴムチェゴレ(ゴムしなさい)」と言われた。「ゴム」は一般には瞑想と訳されるが、原意は「(意識的に)慣らす」ということだ。ツァムしなさいとも取れるし、実践しなさいとも取れる。つまり、慈悲の実践も、現象を全て空と見る事も、それがまったく自然になるまで修習しなさいということだ。ゲシェラの最後の言葉として肝に命じておこうと思う。
ゲシェラは今月12日の午前1時半頃弟子たちに看取られながら、南インドの僧院内の家で静かに亡くなられた。その一報を聞いた時、大きな声が出て、大声で泣いてしまった。人は自分にとても優しく接してくれた人が亡くなると泣くものだ。
私はちょうどゲシェラが亡くなる前の日、ダラムサラのツクラカンの前で日本人の友人とお茶をしていた時、急に目の前にゲシェラの姿が浮かんだ。そしてその友人にゲシェラの話をした。「この道を日本に縁の深い本当に偉い先生が歩いていたことを思い出すよ。先生は道の一番端っこを数珠を繰りながら下を向いて歩いてた。自分が近づいても気がつかない。そこで、思い切り近づいて「ゲシェラ!」と呼ぶと、本当にびっくりしたように顔を上げた。道の上でも瞑想状態だったみたいだ。ゲシェラは本当にこの上なく優しくて、控えめな大先生だったよ」と。
私の大きな光の1つが消えた。
ゲシェラの思い通りの来世が実現されることを心より祈る。
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ゲシェラの日本の人々への最後の教え:
この仏のお言葉はダンマパダに書かれている。私も常々、仏教をまとめて言えばこれだなと思い、覚えて心にゴムしている。
ダラムサラ・ツクラカンの本尊釈迦牟尼像の右手上方に掲げられたこの言葉。
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関係各位のゲシェラ追悼文:
野村正次郎氏>http://www.kokonor.com/shojiro/silence/
石濱先生>http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-630.html
福田先生>http://yfukuda.blog.so-net.ne.jp/2012-08-19
グショラナさん>http://ameblo.jp/ratnaratna/entry-11327565000.html
特に石濱先生のブログに載っている「優曇華の花 文/ 石川美惠」は是非読んで頂きたい。ゲシェラの悲壮な亡命の経緯を知る事ができる。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)