チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年6月13日
カム旅行記 その13 ミニアコンカ後編
次の日の朝5時半に起き、ホテルの屋上に上がる。朝日に映えるミニアコンカが見えると聞いたからだ。屋上には既に、ニコンやキャノンの立派なカメラを三脚の上に置いて構える中年中国人が大勢いた。
だけど、正面に見えたのはミニアコンカではなく、中国語で金銀山とか日照金山と呼ばれる6368mの山であることが判明。日本人が書いたネットの中には天名峰(6416m)と書かれているのも見かけた。
雲もなく綺麗だったから彼らに混じり沢山シャッターを切る。
この金銀山の左手に見えるのは、これもチベット名が分からないが中国名で神鷹峰または三連峰、6468m。
この日、朝一、8時発のケーブルカーに乗り、この金銀山の麓を目指すことになった。
結局、実になが~~く、しんどい一日となるのである。
ケーブルカーに乗り、しばらくすると右手、氷河の奥にミニアコンカ、7556mを拝む事ができた。
このブログではミニアコンカ(昨日までミニアコンガと書いてた)と日本で呼び慣わされてる名前で表記しているが、元のチベット語はམི་ཉག་གངས་དཀར་である。発音はミナック・ガンカルまたはミナ・カンカルで意味は「ミナック地方の雪山」。この地方が「ミナック(黒い人)」と呼ばれているのはなぜだろうと考えるに、肌の色が黒い人というより、中国のことを、その服が黒いということからギャナ(ック)と呼ぶから、この地方の人が昔から中国の影響を受け黒い服を着る人が多かったか、中国人が多かったということではなかろうか?ただの推測であるが。
確かに回りの山々からは抜きん出て高く、真っ白な雪に覆われている。
この山に挑戦し、日本人が大勢亡くなっている。1981年には北海道山岳連盟登山隊8名が滑落死している。1982年には日本の登山隊2名が遭難し、その中の1人である松田宏也氏が19日後に奇跡的に生還。「ミニヤコンカ奇跡の生還」という本を書かれている。地元のチベット人に助けられたそうだ。
他に外国人も大勢この山に挑戦し死んでる。天候不安定で、簡単でない山のようである。
6人乗りケーブルカーは立派で安心して乗ってることができた。それもそのはず、すべてオーストリア製であった。乗り賃は150元。終点は3550m。
終点はちょっとした公園になってて、わざとらしくも見えるチュテン(チベット式仏塔)とか仏像があった。普通の人たちはここが終点でまたケーブルカーに乗って帰るらしかった。
しかし我々は最初はここまでも歩いてくる積もりだったし、まったく歩いてないというのは物足りない。時間もあるということで、上の方を目指すことにする。
もっとも、道らしきものも、目標もないのだが、とにかく上の方に歩き出す。
道なんて全くなくなり、この写真のような登りとなる。見えにくいが、写真中央に嬉しそうに手を上げる若いのがいる。経験は上だが、年も上の爺はくやしいが、遅れ気味となる。
写真、左手稜線上にくぼんだ地点があるが、これを峠と見て、若いのが「あそこまで行こうぜ」と言い始める。爺「あほか、あそこは5000mはある、どれだけ掛かると思う。飯もないし、行けても暗くなる前に帰るのは到底無理、無理」。「じゃ、行けるとこまで行こうぜ」と元気がいい。
あくまでハイな若いのは、得意の「サンゲ・チャーシャ(仏になっちゃった)の芸」を披露。
「もういい加減にせい」というも登る事を止めない若いのが写真中央あたりに写ってる。
もう少し季節が夏に近かったらきっとこの辺りは一面のお花畑と思われた。唯一見かけた花はこのイエローポピー。ネパールのランタン渓谷などで沢山見かけた花だ。
4000mはとっくに越え、道は安定しない岩と雪穴の連続。天候も崩れ始め、雪も降る。若いのは「腹減った!チョコレートさえあればな!エネルギー切れ始めたぜ」と愚痴る。食料は最初からまったく持ってなく、水も切れ、口にするのは雪ばかり。運動靴の中はびっしょり。さすがに疲れの色を見せ、へたる若いの。
股上まで雪に埋まり、上がれなくてもがく若いの。こんなことがしょっちゅうある。
「ところでケーブルカーの最終は何時だか知ってるの?」と爺。「5時だよ」。「あれはでも上から消してあったよな」。「そうだけど、きっと5時だよ」。
下りは楽と思ったが、そうでもなく、エネルギーも使い果たし、くたくたになる。3時間以上かかって、やっとケーブルカーの見える丘の上に着き、下を眺める。5時前というのに、なんとすでにケーブルカーが動いている気配はなかった。近づくも、店はすべて閉まっており、人影は全くない。
これは、これはちとヤバいかも?もう、遅いし、食い物もなし。ここから氷河を渡って下に降りるのは無理かも、、、と。
それでもケーブルカー乗り場に行くと、そこには保安員のような人が2人いた。通じないのは分かってたが、英語やチベット語とジェスチャーで「どうにか降りれないか?」と頼む。
面倒くさそうな態度だが「2人か?待ってろ」と言ってるらしかった。
ストーブのある部屋に入れられる。目の前には彼ら2人分の夕食の食材が並べられてる。腹が減ってた2人はこれから目が離れない。それでも暖かいストーブで冷えきった足を暖めることができて、ぐったりリラックス。 ケーブルカーはうごく気配はない。「2人のためにわざわざケーブルカー動かしてくれるってことはこの国ではあり得んだろう。今日はここで寝るしかないな、、、」と爺。
6時過ぎになり、ケーブルカーが動く音がした。しばらくして本当に1台だけケーブルカーが到着した。大喜びで、2人の保安員に両手を合わせ感謝の意を示し、乗り込む。
乗った後、爺「おい、ひょっとして着いたとこで、罰金ぐらいは払わさせそうだよな。着いたら、すぐに逃げようぜ!」。「了解!」。
着いてドアが開いたと同時に飛び降りて、走って逃げたが、誰も追いかけて来る様子はなかった。
若いの「中国、案外いいとこだよな。助かったね」。爺「山でほっとく訳に行かなかったのさ。分かってて死なせたら責任問題になるからさ」とあくまで、素直に感謝しようとしない。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)