チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年6月9日
カム旅行記 その10 カンゼ後編
この辺のカム一帯は現在中国の行政単位としてはカンゼ・チベット族自治州と呼ばれている。州都は東端にあるダルツェンドであるが、チベット人的にはこのカンゼが中心である。街の規模はタウと変わりないぐらいで案外小さいなと感じた。
この街で目立つのは何と言っても、軍の駐屯地。5月25日付けRFA英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/camps-05252012150516.htmlは「最近さらに2カ所の軍駐屯地がカンゼ県に新設された」と報じている。
新設された軍駐屯地の1つはチベット語中学校を強制閉鎖してその跡地に作られた。「2008年以降カンゼ県内だけですでに26カ所の軍駐屯地が新設された」という。この内17カ所はカンゼ市内周辺にある。
それだけ、当局はこのカンゼを抵抗運動の拠点と認識し、厳重警戒しているということだ。
そんな中でも、僧院内の宗教活動は表向き平常通り行われているように思われた。
本堂前の広場には公安の車が停まっていたが。
「甘孜(カンゼ)県公安局城北派出所」「甘孜寺警務工作室」と書かれている、僧院内の警察事務所。
ところで、この僧院の中庭で去年10月25日、チャム(仮面舞踏)が行われていた最中、1人の僧侶が焼身抗議を行った。僧侶の名はダワ・ツェリン、当時38歳。詳しくは過去ブログ>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51708691.html
彼はその後、僧院に一旦匿われ、治療を受けた後、今は僧院下の村で療養中とのこと。顔をはじめ手足は酷いケロイドとなっているが、話はできるという。
彼の話を街のある人から少し詳しく聞いたので、以下それを要約紹介する。
彼は焼身の前に間違えなく死ねるようにと「睡眠薬のようなもの」を多量に飲み、さらにガソリンを2瓶飲んだ後、体にガソリンを掛け火を付けた。それでも、すぐ傍に多くの人がいて、すぐに火を消したので、彼は死ねなかった。
「以前より、仲間のように街に出てデモをしたいと思っていたが、デモの最中に暴力沙汰になると、それはダライ・ラマ法王の非暴力の教えに背くことになると思い、デモには参加できなかった。」
「アムド、ンガバを中心に焼身抗議が連続していることを知り、カム、カンゼのチベット人である自分もやるべきだと考え始めた。宗教の自由がなく、僧侶として僧院にとどまる事が苦痛となっていた。ダライ・ラマ法王さえチベットにお帰りになれば、すべてがうまく行くはずだと考えた。特に「独立」を求める気持ちはなく、宗教の自由と法王帰還を求めて焼身した。」
「僧侶となって後、今生のために生きる事は捨てていた。来生のためにも、チベット人全員の幸福のために焼身することは善なることだと考えた。」という。
あるお堂の中には大きな立体ツォクシン(釈迦牟尼仏陀を中心にゲルク派の法灯の系譜をヴィジュアル化したもの)があった。ツォクシンはタンカに描かれたものしか見た事がなかったので、これには驚いた。
僧坊でのんびりお茶等頂いた後、僧院を後にした。
次の日にも僧院に出かけたりしてカンゼには2泊した。カンゼ市内に温泉があることを知り、入りに行ったり。
天候さえ良ければ、カンゼの先にある、景勝地に出かけるつもりだったが、次の日も小雨が降るあいにくの天気。リタン方面に向かう予定を変更し、ダルツェンドに帰り、ミニアコンガ山に向かうことになった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)