チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年6月4日
カム旅行記 その8 ダンゴ後編
タウに比べて街は小さく、街の人口も数万人と思われる。そのほとんどはチベット人であろう。
2006年の人口調査によてば、ダンゴや、タウ、ダルツェンド、カンゼ等を含む四川省甘孜(カンゼདཀར་མཛས་)藏族自治州の総人口は約93万万人。その内チベット族(人)は73万2千人で78.7%。漢族16万6千人で17.8%とのこと。その他イ族2万6千人、2.8%等。参考>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51659554.html
1月に起った大規模デモには約5000人が加わったというから、これが本当なら、街のほとんどの成人チベット人が参加したということになる。
もっと言葉が通じたら、「お前、デモのことを覚えてるか?お前も参加したのか?」と聞いてみたくなった、少年。もちろん、中国人と思われて答えてくれなかったとも思うが。
ダンゴ僧院には1人のツェンニー・タツァン時代の元クラスメートがいるはずだった。彼はゲシェになって故郷に帰っていた。
彼を探すために、僧坊の間を歩いているとき、窓から若い僧侶が声を掛けて来た。中に入れと言う。
狭い僧坊に入ると、その僧侶はさっそくお茶を作ろうとストーブに小さな薪と乾燥ヤー糞を焼べ、水を取りに行ってヤカンを掛ける。
訛が強く言葉は通じにくかったが、それでも目当ての僧侶の名前を出し、どこにいるか知らないか?と尋ねてみる。「自分は知らないが、仲間に聞けば分かるだろう、でも電話したくても今携帯のバランスが無くなってて掛けられない。お金がないんだ」という。
その内、窓の下を仲間の若い僧侶がバイクで通り掛かった。すぐに呼び止めると、彼も部屋に入って来た。彼の携帯は使えた。彼が仲間に聞いてくれた。「確かにその僧はいるという。でも今日はほとんどの僧侶が出払ってる。明日ツォがあるので、明日くれば見つかるはずだよ」とのこと。
かなり時間が立って、やっとお湯が湧いた。そこで、お茶でも作るのかと思いきや、当たり前のようにただそのお湯がお椀に注がれた。この僧侶はお茶も持ってないようだった。それでも、喉が乾いてたので、有り難くそのお湯を頂いた。
明日までに、そのゲシェを探しておくことを約束してくれた。
ダンゴ僧院のゴンカン(護法堂)。
ゴンカンの入り口は大概このように人の皮とか骸骨が描かれ、おどろおどろしい。鍵が掛かっており中には入れなかった。
「魔除けには魔を持ってするのが一番効果がある」という発想だ。日本の仁王門と思えばいい。
中には、ヤマーンタカ、パルデンラモを初めとする、怖い系の護法尊が並んでいるはずである。、
私はふと、今、拘束・逮捕され拘置所や監獄で拷問を受けているであろう、知り合いの僧侶や、その他多くのチベット人のことを思ったりした。
次の日の朝、再び僧院に出かけて、まず、昨日の僧侶の僧坊を尋ねた。しかし、彼はいなかった。本堂でツォがあるだろうと、本堂の前に行ったが、まだなのか、僧侶の姿は少ない。本堂のすぐ横には公安の事務所があり、これが気になって気楽に僧侶に話しかけることができない。
その内、1人の話の分かりそうな僧侶に出会ったので、知り合いのゲシェに付いて尋ねる。彼は知っていた。電話番号も知っていた。彼は危険をさけるためなのか、ある外国に出ていた。その外国にいる友人と話ができたが、電話は危険であり、彼も警戒しているようすだった。結局、思うようには話をすることができなかった。
その後、すぐに僧院を後にして、次の街、カンゼに向かった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)