チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年5月29日
カム旅行記 その4 ラガン
今日は、今のところ大きなニュースは入っていないので、カム旅行の話を続ける。
草原の中にある小さなラガンの町に到着し、部屋も決めたので、のんびり散歩に出る。
こじんまりとした可愛い家が並ぶ。
中庭でヤーに餌をやりながら数珠を繰る優しそうなおじさん。
家は石造の2階建てが多く、入り口や窓の枠はウツァンのように黒く塗らず白く塗る家が多い。
窓の上のまぐさも特徴的で黒塗りの上に月が並び、両端に三日月。まぐさの上の木組みもばってん白黒デザインとなっている。
門の中に立つ、おばあさんのスカートは黒、チベットシャツは白、袖口と頭の帽子は赤。門枠には金の文様。
中には門や窓枠を黒く塗りエッジのみ白く塗ってる家も見かけた。
黒く塗るほうが窓縁を暖める効果があるとは思うが。
趣味の問題らしい。
この辺のバイクの90%は125CCの中国製バイク。ちなみに値段は新品で5万元(6万5千円)。若いのが「これ買って旅行しようぜ!」とくる。
手前、中国国旗がはためく場所は学校のようだった。この先、どこでも学校には必ず中国国旗が掲げられていた。教室棟と思われる建物には「愛国、、」なんちゃらと書かれている。
もっとも、校庭でバスケットを楽しんでいるのは僧侶のようにも見えるが!?
裏山にはタルシンの群れ。
真ん中には「オンマニペメフン」と観音の真言。三角山形に並べられるのが普通のようだ。
「4つの三角」の配置等に何かの意味付けがありそうだが、聞かなかったのでわからない。
「ラマ・仏・法・僧」への帰依とか「仏陀・観音(慈悲)・文殊(智慧)・金剛手(力)」の象徴かも知れないと勝手に想像。
この町は小さいが、大きな僧院が沢山ある。その中でももっとも古く由緒ある僧院とされるサキャ派のラガン・ゴンパ。なんでもソンツェン・ガンポが建てた僧院という。ここの「ジョカン堂」にある「ラガン・ジョオ」と呼ばれる釈迦牟尼像は唐の文成公主がチベットに嫁いだとき持参した釈迦牟尼像と信じられている。文成公主が道中、ここラガンの地に滞在した時、釈迦牟尼像が「ここに置いていってくれ」と言ったそうな。これが本当ならラサのジョカンにある釈迦牟尼像(ジョオ)は偽物ということになるのだが、、、?
で、我々は入り口で止められ、「入場料100元だ」と告げられる。「ええ~高え!」と若い者。「俺たちはチベット人だ、払わんでもいいだろう」とチベット語で言うと、「なら身分証明書をだせ」ときた。「そんなもの持ってない」。「いいよ、そんなに高いなら入らないぜ」と結局、仏像等に興味のない宗教心の薄い若い者につられて入らないで写真だけとって退散した。
塀の割れ目から覗いた中庭には古そうなチュテンが林立していた。チュテン好きの私はケチったことを少々後悔した。周りは大きなマニ車の列に囲まれ雰囲気のあるマニ塚も沢山あった。
で、このマニ塚の足下にある「マニ板」だが、よく見るとこれはビリヤード台を利用したしろものと。やるわい。
ラガンの東側に見えるグル・リンポチェゆかりの聖山といわれるジャラ・ラツェ(海子山、5820m)。ギザギザの山頂がその特徴。
山を見ながら草原をふらついていると、ピクニックする僧侶たちに呼ばれる。さっき高くて入らなかったサキャ僧院の僧侶たちだった。2日間の休みということで草原でサッカーをしてるとのこと。
中にはダラムサラ近くのビルのサキャ僧院に留学?してたという話のできる僧侶もいて、仲良くなり、茶にジュース、美味しいパンやラビン(トコロテンの一種)をごちそうになった。
サッカー好きの若い者が、見せてやろうじゃないかと、早速一緒にプレイする事になった。
もっとも、高地トレーニングが十分でなく、走っては胸を抑え、倒れ込むという不様さ。
球を追い、袈裟姿で草原を疾走する高地トレーニング中の僧侶たち。
それでも、この試合前半に若いものが入れた2点を守り、2-1で息子参加チームが勝利した。
ちなみに夏にはこの辺りの草原でタギュ(競馬祭)が行われるそうだ。
新しい感じの僧院が見える。この後、そこに行ってみたが閉まっていた。
奥にも僧院がある。
丘から見えた新しい僧院に近づくと、馬に乗って散歩しませんか?とおばちゃんたちが近づいて来る。なかなか可愛く飾られた馬がたくさん並んでいた。もっとも観光客は皆無だった。たまにかもの中国人が来るのかもしれない。
日が暮れる前に、この町に来た目的の一つを果たすために町の南に向かう。
それまでの聞き込みで目的の僧院が写真に写っているニンマ僧院であることが分かったからだ。
この旅行に立つ直前の5月6日付けのブログに「高僧とその姪が焼身者を追悼中火事で焼死 人々は焼身したに違いないと噂」というエントリーを上げた。>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/51743657.html
元ゾクチェン僧院ケンポであり、その時この僧院の僧院長でもあった、高僧トゥルク・アトゥックが4月の満月の日に「それまでの焼身抗議者の霊を弔うために灯明を沢山灯し、尼僧である姪と共に供養を行っていた。その最中故意か事故か?火事となり、2人とも死亡した。付近の人々は状況からして、2人が焼身したものと噂している。」というニュースである。
詳しくはブログを読み返してほしい。
わざわざ、現場検証を行おうというわけだ。
まず、僧院の本堂に入る。そこでは数人の僧侶がトルマを製作中であった。
世間話を終えて、事件のことに話を向ける。僧侶は直ぐに反応し、別の僧侶を呼んで、スマホの中に納めてある死んだトゥルクの写真を見せてくれた。
トゥルクの風格十分な、日本の時代劇にでも出て来そうな立派なリンポチェである。
僧侶たちは「突然のことで、本当のところはよくわからない。しかし、焼身された可能性は高いと思ってる。リンポチェは嘗てより焼身抗議者のことを度々話されていたから」とのこと。
右手の壁が焦げている部屋の中で供養を行っていた。
僧院長であるリンポチェの部屋にしては小さく質素であるとおもった。
近づき、部屋の中も覗いてみた。
まず、気づくのは「火事といっても、大した大火事ではなく、部屋の一部が燃えた程度」だということ。
また、部屋は一階で小さく、バター灯明の火が何かに引火し、火事になったとしても、すぐに外に避難することができる環境と分かる。
このような家で、この程度の火事により2人が焼死したというのは、ちょっと考えられないと感じられた。どうみても、私には「意図的に外に逃げずに死ぬことを選んだ、または最初からその気だった」としか思えなかった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)