チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年4月2日
中学校女子生徒ツェリン・キ「焼身への道」
3月3日、アムド、マチュで中学校の女子生徒ツェリン・キが焼身抗議を行い、その場で死亡した。
詳細は過去ブログ>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2012-03.html?p=3#20120305
http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2012-03.html?p=3#20120306
中国人商人の多い野菜市場の中で焼身したが、この時、中国人たちは燃え上がる彼女に向かって石を投げつけたと報告されている。
以下、紹介する記事の中で、イギリス、ガーディアンの記者はダラムサラでツェリン・キの子供時代を知る近しい親戚などにインタビューし、それを基に彼女の子供時代から始め、焼身への道を跡づけようと試みている。
現地に入ったとは思われず、十分な跡づけができているとは言えないが、それでも、なかなか泣けるストーリーだと感じ、少し長いが全文を翻訳してみた。
これと同じように焼身に至った、チベット人一人一人にはそれぞれのストーリーがあるのだということを少しでも想像してもらいたい。
原文:http://www.guardian.co.uk/world/2012/mar/26/nomad-path-self-immolation?CMP=twt_gu
1人のチベット人女性、焼身への悲劇の道
イギリス、ガーディアン紙レポーター Jason Burke、3月26日:ダラムサラ
ツェリン・キは家族の生活様式の崩壊と仲間の生徒たちの抗議活動が弾圧されるのを目撃した。今月(2012年3月)彼女は5リットルのガソリンをかぶり、自らに火をつけた。
幼い頃、一年の内、ツェリン・キのお気に入りの日は夏、牧草地に向かう日と、そこから帰る日だった。中国甘粛省の田舎、テトック遊牧村の30家族の生活は季節のリズムに従っていた。春、家畜の草を求め、ヤクの背に家財を乗せ高地の丘や谷に向かう。子供たちは湖や小川でカエルと戯れる。冬が近づくと彼らは低地の草原に帰って行った。
移動する前日にはすべての重い荷物が荷造りされ、先に送りだされる。女性と子供たちは一足遅れ、星空の下で眠る。この時がキのお気に入りの時間であった。
「彼女がそのときいつも興奮していたのを思い出す。兄弟、姉妹、いとこたちと外で寝るのが大好きだった」と先週ガーディアンがインタビューした彼女の近い親戚が語る。「学校に行くようになってからも、10代後半になってからも彼女は家族が夏の牧草地に向かうとき行動を共にした。彼女は町があまり好きではなかった」
3週間前(3月3日)、午後遅く、20歳の学生となっていたキは、マチュの町中の野菜市場で焼身した。彼女の最後の行動は、公衆トイレの中に入り、チベットの伝統的な服を脱ぎ、体にガソリンをかぶることであった。そして、彼女は市場に歩き出し、火をつけた。1年間で23人目の焼身抗議者となった。
この何週間か、数日ごとに新たな焼身が伝えられている。キが亡くなった後にも、中国の国家主席胡錦濤の訪問を前にニューデリーで焼身した27歳の男性を含め、すでに7人が焼身している。インドの丘の町、亡命チベット人が住むダラムサラの通りには、これら「殉死者」たちのポスターが溢れている。最も新しいものは44歳の農民のポスターである。疑う余地なく、さらに多くの者たちが続くであろう。
1959年の蜂起に失敗し、ダライ・ラマがチベットを逃れて以来暮らす、ここダラムサラのチベット人たちは、「焼身抗議は中国当局の弾圧政策を前にした絶望感から生まれたものだ」という。ある僧院から秘密裏に持ち出された手紙の中には、地域の学校におけるチベット語教育の規制、保安要員の増強、宗教活動に対する新たな規制、これらが2週間前に34歳の僧侶が僧院の前で焼身した背景であると書かれている。さらに、その他の要因として地域の遊牧民に対する強制移住も上げられていた。
中国の役人たちはこの自殺を「分裂主義者の陰謀」或は「犯罪」として非難する。中国の公的報道機関は「キは事故により頭を負傷し、鬱状態に苦しんでいた」と言う。匿名希望の親戚はこれとは異なった話をする。
キは1992年に、遊牧兼業農家の2人目の子供として生まれた。村には30所帯が暮らしていた。生活はヤク、馬、羊によって支えられ、彼女もこれらの家畜と共に暮らしていた。マチュの町まではバイクで2時間ほどであった。そこには学校や病院がある。しかし、彼女が町に出かけることはほとんどなかった。それは単純で質素な暮らしだった。医療事情は悪く、出産時に母親が死ぬことを見た。ほとんど誰も読み書きができなかった。
しかし、変化の時がやって来た。キがまだ少女だった頃、親戚が話すには、新しい政策が始まり、それぞれの家族に牧草地が割り当てられ、山には境界線として鉄条網が張渡された。かつてのように、自由に移動するという遊牧スタイルの時代は終わらされてしまった。
もう一つの変化は教育だった。遊牧民の子供たちの中に遠く離れた町の学校に行くものは誰もいなかった。しかし、マチュのように遊牧民が大勢強制的に移住させられた土地には、新しく彼らを対象にした施設が作られるようになった。キは彼女と弟を町のチベット族中学校に送ってくれるよう両親を説得した。最後に1人の叔母が両親を説得した。こうしてキが11歳の時、学期中の寄宿舎生活が始まり、学校に通い始めた。
「彼女は本当によく頑張った。他の多くの遊牧民の子供たちのように、彼女も遅れて学校に通い始めた。しかし、その遅れを短期間で取り返した。先生たちは彼女は他の生徒たちの模範だと言っていた」と親戚は語る。
こうして学校で成功していたキではあったが、彼女は決して田舎のことを忘れることはなかった。親戚の中には適切な牧草地を得ることができず、町に移り住む者もいた。夏と冬の休みに、キは必ず田舎の家族の下に帰った。彼女が勉強のために住むようになった町は、格子状の道路、商店と多量の中国人入植者と共に急速に発展していた。それは田舎の風景と対照的なものだった。
「彼女が学校から帰って来ると、何も変わらない昔のままの生活が続いているように思えた。成長した彼女はヤクの面倒をみたり、羊の毛を刈る仕事等もテキパキとできるようになっていた。彼女には他にも楽しみがあった」と親戚は思い出す。「彼女はすばらしい声の持ち主だった。だから、村で祭り事があるときには、いつも彼女はそこで歌うために呼ばれていた」
宗教的儀式も加わるそのような祭りは、時代の流れを緩慢なものにする作用があった。チベット仏教の儀式は念入りに、疑いの余地なく守られた。夏場の牧草地においても、お経とダライ・ラマ法王の写真を掲げるために特別の小さなテントが用意された。
「宗教は至る所にあった。それは生活の一部となっていた」と親戚は言う。
ティーンエイジャーとなったキは、しかし「政治的」と思われるような印はまったく示さなかった。彼女は読書家となっていた。知識に飢えていた。
「家族の下に帰るとき、彼女はいつも何冊かの本を携えていた。暗くなり、みんなが寝入った後、ランプのそばで彼女は本を読んでいた」と親戚。
キが焼身抗議を行うに至ったその原因となる出来事を、跡付けることは困難だ。行為自体は仏教の基本的教義の多くに反するものだ。ダライ・ラマも焼身という行為の背景、原因は理解できるが、行為を容認しているわけではない。キは自から進んで政治的活動に関与しようと思ったのではなかったが、間もなく自然にその渦の中心に位置することになっていった。
2008年の春、チベットは数十年に一度の動乱を経験した。平和的デモに対し当局が厳しい弾圧を行った故に、多くの町で深刻な衝突事件が起った。マチュでも警察の車両や政府の建物が燃やされた。チベット支援団体や人権団体、西欧諸国の報道によれば、このとき何百人ものチベット人が逮捕されている。
少なくともマチュにおいては、この時始まった動乱は容易には収束しなかった。2010年、学生たちがチベットの自由と独立を求めて立ち上がったとき、キの学校はその中心となった。10人以上が逮捕された。しかし、それでもデモは一ヶ月後に再度行われた。そして、人気の校長が辞職させられ、少なくとも2人の教師が拘束された。これがさらに怒りを煽った。キはいつしか活動の中心にいた。
2008年の後、前例を見ないほどの「政治意識と愛国心」が生まれた、とダラムサラの僧侶は語る。彼はチベットに帰る時のために匿名を希望しながら「インターネットと携帯電話の普及により、今は誰でもダライ・ラマ法王の動向、抗議デモ、焼身について知ることができる。これは大きな変化だ」とガーディアンに話す。
一月はじめにキは、近い親戚に対し「連続する焼身抗議がなぜ起るのかが理解できる」と話した。「誰だってこのような生活を続けることはできない」と語った。
キは一ヶ月の冬休みを家族の下で過ごし、町に帰った。その次の日に、亡くなった。前日の夜、いとこの家に泊まった。朝、友人がバイクで学校まで送った。その日、彼女はクラスの生徒たちの登録を集める責任があった、しかし、彼女は学校には入らず、町に向かった。最初に寄ったガソリンスタンドは彼女にガソリンを売ることを拒否した。2軒目も断られた。その次のスタンドで彼女が5リットルのガソリンを買うのが目撃されている。
数時間後、中国の保安部の役人が、マチュの野菜市場から、彼女の黒こげになった遺体を運び出した。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)