チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年3月18日
<続報・閲覧注意>レゴン ソナム・タルギェの焼身抗議 死亡
昨日17日にアムド、レゴン(同仁)で焼身抗議を行い、その場で死亡したソナム・タルギェ、44歳(*1)の焼身の経緯、その後の葬儀、抗議デモに関する報告と写真やビデオが伝えられた。
焼身の経緯
ソナム・タルギェは14日に焼身した僧ジャミヤンの親しい友人であったという。一緒にラサまで巡礼にも行っている。
ソナムは前日、妻子と別れ、シャダン村からレゴンの街中にあるシャダン村遊牧民会が経営するロッジに向かった。宿の人の証言によれば、彼は一晩そこで過ごし、早朝身体を洗った後、法王の写真を前に灯明を灯し、聖水を器に満たし、お祈りを行ったという。焼身後、彼が泊まった部屋にはこれらが残されていた。
ソナムは焼身により確実に死ぬことができるためと、さらにその後中国の警官に容易に持ち去られないようにと、特別な細工を身体に施していた。腹や胸の周りに多量の綿を有刺鉄線を使い巻き込んでいたのだった。
外に出て灯油を飲み、身体に十分振りかけた後、目撃者の話によれば、「ダライ・ラマ法王をチベットにお迎えすべきだ!」と叫んだのち火を放ったという。
近くにいたチベット人たちは大きな炎に包まれたソナムを見てすぐに火を消そうとしたが、炎の勢いは凄まじく、どうすることもできなかったという。「彼が燃え尽きた時、腹から腸が飛び出していた」という目撃者の話も伝わっている。
遺体は直ちに回りにいたチベット人たちが担ぎ、ロンウォ僧院(*2)のドルマ広場ドルマ菩薩像の前に運ばれた。
葬儀
広場で 僧侶たちによる追悼の法要が行われた後、遺体は僧院の裏山にある葬儀場に運ばれた。この葬儀場は僧侶が亡くなったときにしか使われない神聖な場所であり、一般人がここで火葬に付されるのは初めてのことだという。
葬儀には数千人のチベット人が参加したという。当局の部隊が介入しようとしたが、あまりに大人数のチベット人が参加し始めたのであきらめたという。
左の写真は14日、レゴンの中学校生徒たちが行ったデモ。
葬儀の後、参加した人々は街に向かって「チベットに自由を!言語平等!ダライ・ラマ法王をチベットへ!」等のスローガンを叫びながら行進を始めた。
Free Tibet等はこのデモに参加したチベット人の数を7~8000人と報告し、これほどのチベット人が参加したデモは08年以来初めてだとコメントする。
ソナム・タルギェ氏の妻は夫の死にショックを受けながら、同時に「彼が自分の命を重要で高貴な目的のために捧げたことを誇りに思う」と語ったという。
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* 1 最初、彼の年齢は43歳と発表されていたが、後に44歳と書くメディアが増えた。
* 2 僧院の名前は標準ラサ方言では「ロンボ」に近いが、アムド方言に従い「ロンウォ」と表記することにする。
参照:17日付けRFA英語版http://www.rfa.org/english/news/tibet/blaze-03172012102709.html
17日付けphayulhttp://www.phayul.com/news/article.aspx?id=31076&article=Thousands+protest+in+Rebkong%2c+Sonam+Dhargey+cremated
17日付けTibet Times チベット語版http://www.tibettimes.net/news.php?showfooter=1&id=5747
17日付けTibet Expressチベット語版http://www.tibetexpress.net/bo/home/2010-02-04-05-37-19/7753-2012-03-17-10-43-36
写真、右手より、16日にンガバで焼身した僧ロブサン・ツルティム(20)、14日にレゴンで焼身した僧ジャミヤン・パルデン(38)、17日にレゴンで焼身したソナム・タルギェ(44)。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)