チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2012年2月16日

ウーセル・ブログ「ラサ旧市街を修復した西洋人」 彼はなぜラサから追い出されたのか?

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最近若くして亡くなった1人の建築家を偲ぶウーセルさんのコラム:その2
その1は>http://blog.livedoor.jp/rftibet/archives/2012-02.html#20120205
この文章は2007年に書かれていたが、アンドレさんの要望もあり、彼の死後まで発表は控えられていた。

原文:http://woeser.middle-way.net/2012/02/blog-post_01.html
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん

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163922_488122994794_535949794_5841145_795522_n◎ラサ旧市街を修復した西洋人

 チベット・ヘリテージ・ファンドがなぜ当局の怒りに触れたのか、誰も知らない。彼らは2002年にラサを追い出された。民間の非営利組織で略称はTHF。ドイツ人アンドレ・アレクサンダーとポルトガル人ピンピン・デ・アゼベードが1996年にラサで設立した。彼らは「歴史都市ラサの研究と保護」に活動の重点を置いていた。高僧や一般市民など、ラサ旧市街のチベット人は今でも彼らを懐かしがっている。「古い家をあれほど大切にしてくれた人には会ったことがない。私たちよりも熱心で、ずっと心を痛めていて、自分が恥ずかしくなるほどだった。でも政府はどうして彼らを追い出さなければいけなかったんだ?」

 一説によると、彼らの活動が際立って優れていたため、「人民に奉仕する」と称する当局が引け目を感じたからだという。THFのウェブサイトによると、1996年にラサ旧市街の修復計画をスタートさせて以来、「歴史ある民家12棟と僧院1座を完全に修復▽民家3棟をほぼ修復▽アパート18棟に応急処置を実施▽住民1000人以上の上下水道を改善▽2カ所に公衆トイレを設置▽路地を整備▽仏塔を1基再建、1基補修▽ラサ南部の古い僧院にあった15世紀の壁画を補強――するなどした。以上のプロジェクトの総投資額は80万ドル近くになり、チベット人300人以上に仕事と職業訓練のチャンスを提供した」。彼らは実質的にラサと周辺で計76の歴史的な伝統建築物を救った。

 また、一説によると、彼らは出版物とネット上でラサの古い住宅の実情を明らかにし、「チベット文化をとてもよく保護している」と宣伝する当局のメンツを潰し、怒りを買ったからだという。画集「ラサ・バルコルの歴史的建造物」が説明しているように、「1980年から都市建設の過程で、旧市街の古い建築物と区画は絶えず破壊を受けていた」。主に地元の画家が一枚一枚描いたバルコルの地図上で、古い建築物の欠けた姿やまだら状になった町並みが物語っていたのは、住宅だけでなく民族の生活スタイルまでもが消失しつつあるという事実だった。THFのサイトも「1993年から毎年平均して35棟の歴史的建築物が取り壊されている。もしこのまま続けば、残りの建築物は4年以内に消えてしまうだろう」と指摘している。

 別の説では、彼らはチベット人労働者とひたすら仕事に没頭するばかりで、ラサや全中国で流行している「不文律」に従わなかったからだという。都市建築の修復は間違いなく「うまみのある事業」であり、腐敗官僚は上から下までこの「うまみ」に注目している。だがTHFは一度も彼らに金を包んだことがなかった。それならば腐敗官僚は「うまみ」にありつけるよう、内地から来た下請け企業に工事を回す方が良かった。こうするには体裁の良い理由が必要だ。チベットで最も厳しい処罰は当然、政治と関わりがある。2002年のある日、国家専制機関は彼らをラサ発の飛行機に押しやった。

 私は長らくTHFの仕事に深い敬意を抱いていた。THFサイトの全ての文章と写真をダウンロードし、ラサ追放後の彼らの状況をあちこちに尋ねた。少し前に英語版の写真集「ラサの僧院」を見て、このNGOを尊敬する気持ちが増した。もしチベット文化に対する真の尊重と愛情がなければ、これほどの思いやりの精神と満ちあふれるエネルギーが持続することは絶対になかっただろう。彼らはチベットの伝統文化が中国化とグローバル化の衝撃を受け、保存するにも困難が伴っていることを目撃した。アンドレ・アレクサンダーが感傷的に語っている通りだ。「毎回訪ねるごとに古い住宅は明らかに減っていく。石一つ、レンガ一つ。路地1本、通り1本。犬までも姿を消している……」

(2007年12月執筆)

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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