チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2012年1月20日

余傑「中共の暴政を暴き、自由世界へ—-わが出国声明」

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images写真はGoogleより。

獄中にある2010年度のノーベル平和賞受賞者劉暁波氏の盟友であり、中国の反体制作家のリーダー的人物である余傑(ユイ・チエ)氏は最近家族とともに渡米を果たすことができた。渡米後、彼は中国当局の脅しにも関わらず、受けた拷問の様子などを証言している。18日に行った記者会見における発言等は日本の各紙もすでに報道している。(例えば 朝日:http://p.tl/Acls

これとは別に彼は19日付で「中共の暴政を暴き、自由世界へ—-わが出国声明」という文章を発表し、更に詳しく拷問等の証言を行い、これから「中共の暴政を暴く」という強い決意を語っている。

昨日、この少々長い声明をツイッター上にTakeuchi Jun (@tkucminya/@Minya_J )さんが速攻で翻訳掲載して下さった。本人の了解の下、この翻訳を以下に掲載する。
なお、本人はご謙遜で「拙譯御免」と断っておられる。だから一応これは校正を経ない「試訳」としておく。

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余傑氏の「中共の暴政を暴き、自由世界へ—-わが出国声明」2012-01-19 



原文:余杰:揭露中共暴政,奔向自由世界——我的去国声明 http://p.tl/sDGY 


 2012年1月11日午後、一家3人は北京発米国行きの機に。5人の警察の下っ端が家からずっと搭乗するまでついて来て、記念撮影を要求、大いばりで帰って行った。



 中国を去る選択は困難で時間がかかった。

 1998年北京大学在学中に『火と水』を出版して、すぐ中共中央宣伝部安全部門の厳しい監視下におかれ、2000年に修士課程を出た後も当局の干渉で、即座に失業し、以来「非フリーライター」になった。

江沢民の時代はまだ多少の自由があり、一部の作品は国内で発表・出版できた。04年胡錦濤・温家宝体制になってからは完全に封殺されて、以来国内のいかなるメディアにも一文字も発表はできなくなり、他人の文章に私の名前があっても削除されてしまった。

つまり、身は国内にありながら、「心の亡命者」となり、公の空間には「存在しない人」になってしまったわけである。

 それでも私は創作を続けた。一人の独立した知識人として、中共批判を続け、劉暁波と肩を並べて親しい友人となった。

私は海外で15冊前後の本を出版した。発表した文章は千にもなるだろう。これによって、何度となく呼び出され、軟禁され、恐喝され邪魔をされ、状況はますます困難になった。何年か前に欧米し友人を訪問したとき、その友人は引き止めたが「命の危険さえなければ中国を離れる事はできんよ」と答えた。

一人の作家として、言論と出版の自由は最も基本的なものであり、信仰の自由はキリスト教徒として不可欠なものである。そして一人の人間として、恐怖からの自由もまたそうである。



 しかし、2010年10月8日、最大の親友の劉暁波がノーベル平和賞を受賞するというニュースの後、私はこれらの最も基本的自由を失い、違法に監禁され、酷い刑罰を受け、監視され、尾行され”強制旅行”に連れ出されるのが日常生活の一部分になった。

こうした1年以上にわたる非人間的扱いと苦しみと戦って来た後、私は中国を離れるという選択をし、ファシズム化し、野蛮で暴虐の中国共産党政府と決別せざるを得なかった。



 この一年以上の間、私はこんな目にあったのだ。2010年10月8日、劉暁波ノーベル賞受賞のニュースが伝えられたその日、私は米国訪問中で、昼、南カリフォルニア大学で講演をし、夜、このニュースを聞いた。私は深く感動し、直ちに帰国の準備を始めた。

友人は、私に中共当局は怒り狂っているし、国内の人権状況は急激に悪化しているから暫く米国に滞在して様子をみたほうがいい、と言った。しかし、劉暁波は10年来の親友であり、先輩である。彼が独立中文ペンクラブの会長であり、私は副会長。

ここ数年、劉暁波が参加したほとんどすべての活動に、私も拘っていた。2008年12月、劉暁波が逮捕されて以来、私は彼の妻の劉霞の同意を得て、劉暁波の伝記執筆に着手した。だから、一国も早く帰国して、劉暁波の親友達のインタビューをつづけ、できるだけこの重要な本を完成させたかったのだ。

 ノーベル賞獲得の報道の5日後、十月十三日に、私は米国から中国に戻った。飛行機を降りたとたんに、直ちに北京の警察当局によって違法に自宅軟禁された。4人の私服が24時間門を見張り、なんと机をもってきて我が家の門を開かない様にした。わが家の周りには6台のビデオカメラと赤外線探知機が設置される大袈裟な大警備体制だった。

 最初の数日はまだ妻は仕事にでかけられたし、劉霞の弟と家内は連絡がとれ、劉暁波の為に服や食品を買えた。が、不運にも劉霞の弟から家内へのメモが警察に発見されてしまい、家内の携帯電話は突然不通となり、私同様軟禁されてしまい、仕事に行く事も許されなくなった。

 ある日、妻は病気になり、40度の熱がでてほとんど意識がなくなったが警察は医者に行く事を許さなかった。朝陽公安局の郝琪的という警官は憎々しげに「お前が死んだって、出すもんか。死んだら誰か上のやつが責任をとるだろうし」と言い放った。この非常時に私はネットで救助を求めた。で、ある善意の友人が救急車を呼んでくれた。だが、警察はその医者を門の外で阻止した。幸運にもその医者が頑張ってくれたので、最後には連中も妻の体温を計る事に同意した。医者は、容態が大変危険だとして、入院治療が必要だとし、交渉の末、夜明け近くになって家内は6人の警官がぴったり張り付いたままやっと救急車で運ばれたが、私は同行を許されなかったのだ。

 事態はその後ますます悪化した。十一月初めから我が家の電話、ネット、携帯は全部切断された。誰も私達に接触できなくなった。私と妻は家の中で世の中と隔絶された状態にされた。生活に必要な品々はメモに書き、銭とともに門番の警官に渡して買って来て貰うのだ。私達は外の出来事がわからず、両親や子供とも連絡がとれなかった。牢屋よりひどいものだった。牢ならまだ刑期が有る、知人の訪問もある。毎日運動もある。だが我々は真っ暗な洞窟に入れられたと同然、途方もなく長く感じられる日々を、こうして2か月も過ごした。

 12月9日、ノーベル平和賞授与式の前の日、生涯で最悪の日がやってきた。午後1時過ぎ、以前からきていた朝陽区の王春辉という下っ端警官が、地元派出所の馬副主任と一緒に我が家にきて「うちのボスがあんたと話したい」と言って来た。この罠を私は全然疑わず、普段着をひっかけたままオーバーを着て連中と家をでた。

 階下にきたとき異常を感じた。十数名の私服と数台のクルマが待っていたのだ。2人の大男がいきなり私の眼鏡を手でぶっとばし、黒い頭巾をアタマから被せられて車の後部座席に押し込められた。車はすぐ発進。両脇の私服が私が身動きできないように押さえつけた。

 約1時間後、車は秘密の場所に到着。警官が私のアタマをわきの下に挟み込み部屋に連れ込み、座らされて動くな、と言われた。ちょっとでも動くと殴ったり蹴ったり、その間中も私は黒い頭巾を頭から被せられていた。

 夜の10時頃、連中は私の黒頭巾をとった、ホットしたとたんに数人の私服が襲いかかって真っ正面から私を殴った。連中は私の服をぬがせ、私は素っ裸で床の上に転がされて蹴られた。その姿を連中は得意げに写真に撮って、「ハダカをネットに載せてやる」と言った。

 連中は私を膝まづかせ、百回ぐらいビンタをくれた。どころか私に自分を殴る様に脅迫した。私が自分をなぐって音が聞こえるぐらいになって、連中はやっと満足し、狂った様に笑い出した。連中はさらに私の胸を蹴り倒れた私の胸を踏みつけた。私は肋骨が折れたようで、そのあとも一月胸が痛かったし、腰を延ばすのも大変だった。

 連中は私の指を開かせ、一本つづ反り曲て、「おめえの手は共産党を攻撃する文章をいっぱい書きやがったな、全部一本一本へし折ってやる」と言った。

 連中はさらにタバコの火を火傷させるほど
私の顔に近づけ、タバコの煙りを顔に吹きかけて、ずっと私を辱める言葉を吐き、「てめえは売国奴だ、裏切り者だ、クズだ」と。さらに家族や友人を侮辱し、その侮辱どおり私に繰り返させた。私が自分を罵らないと連中は私を殴り、蹴飛ばしたのだった。

 連中のボスは「おめえは3つの大罪を犯した。ひとつは劉暁波を十年も積極的に応援して帝国主義が中国を転覆させる陰謀に荷担した。二つ目は、香港で『中国の映画スター皇帝温家宝』という本を書いて国家の指導者の悪口を言った。「三つ目は、劉暁波の伝記を書こうとしている。こんな本だしやがったら、刑務所に放り込んでやる」と。

 そして「もし上が命令さえしたら、てめえなんざ30分で穴ほって埋めちまう、世界の誰も知らんうちにな。いま外国人は劉に授賞して俺らの党と政府を侮辱しやがったが、俺たちはお前をぶっころして復讐するのだ」と。そして「いいか、国内で共産党に反対して、影響力の有るインテリなんてなあたった二百人だ。一旦中央がヤバいとおもったら一夜で全員パクって生き埋めよ」と言った。

 一体どのぐらい殴られていたかわからないが、私は気を失った。そして体中が痙攣を起こしたので病院に連れて行かれた。そのときは私はほとんど知覚がなかったが、もうろうとした中でぼんやりこれは北京郊外の昌平だとわかった。医者は「怪我が酷いのでここじゃ無理だ。大病院に送らないと」と言った。警察は「じゃ、救急車でおくれ、金は払う」といったが医者は「ここにはそんな特殊設備の救急車は無い。すぐに市内の設備のある救急車を呼ばないと助からない」と言った。

 やがて救急車が来て、私を市内の高級病院である北京医院に連れて行き、私の名を「李力」として、「こいつ癲癇を起こしてね」と言った。

 何時間もの救急措置で私はなんとか死の寸前から救われた。翌日、医者は私に事情を聞いた。私は「連中が殴ったんです」と言った途端に警官が医者を傍らに呼び、別の警官が私の耳元で「もしそれ以上デタラメを言ったら、お前の身体についているチューブをみなひっこぬいて殺してやる」と言った。

 10日の午後、彼らは私が命の危険がもうないとみて、病院の近くのホテルに移した。午後休ませて夕方、連中のボスが来る、と言って別の部屋に連れて行った。そいつは于と名乗り、北京市公安局の副局長兼国保総隊長だと名乗った。于は空々しくも「昨日の事は誤解でね、下の連中が間違ったんだ。外部にそのことを喋るな」と言った。数日後、私はまた郊外の別の所に連れて行かれ、連日、ここ数年かかわった活動と文章について査問された。連中は私に無理矢理、この内容を喋らない様に、取材をうけないように、外国大使館員と接触しない様に、9人の常任委員の悪口をかかないようにという誓約書を書かせた。

 2010年12月13日になって私は釈放され家に帰された。この後2週間、私と妻は外出を許された。だが、そのときは階下の24時間監視している警察に行き先と帰宅時間を告げなければならなかった。12月下旬、私は四川の郷里に帰った。警察は飛行場迄ついて来た。このあと4ヶ月、故郷では半月ごとに警察が来た。姜と名乗る所長と張と名のる課長が何人かの部下をつれて来て私の担当だ、と告げた。



 この後1年、いわゆる「敏感な時節」になると私は違法に自宅軟禁されるか、”強制旅行”させられた。例えば祝祭日や記念日、大会開催日、外国要人訪問の日など3日に空けず、ほとんど日常の半分、私は自由を奪われた。海外で文章を発表する事も禁じられた。文章がでるやすぐ警察が脅しに来たのだ。私達一家3人は3つの違う場所で暮らす事を余儀なくされた。私は知らぬ土地で監視され、妻は北京で仕事、子供は四川の郷里で祖父母に面倒を見てもらっていた。そしてまもなく妻の勤務先にも警察の圧力がかかり彼女は仕事を失った。こんなことは初めてではない。私は教会の集まりにもいけず、聖書の研究もできなかった。キリスト教徒としての正常な信仰生活もおくれないことは、わたしには極めてつらいことだった。

 こんな生活はとても続けられない、一家が共に暮らせず、ものを書く自由が完全に失われ、命の安全さえ保障されない-真実を語り続ける知識人として14年生きて来たが、私はついに出国する決意をせまられた。

 しかし、2011年の夏、警察に出国の要求をしたが、連中は私の妻と子を出国させるのは上級が許さない、と言った。何度も話し合う中で、連中はクリスマスの後なら考えると言いだした。クリスマス後、私は米国行きの切符を買って、警察に「なんとしてでも出国する、もし飛行場で捕まえるつもりなら、頑張って一切の真相をぶちまける」といったら、連中は妻子の件で上が許可する様に努力する、といった。

 1月9日、私が買った切符の前々日、北京の警察総隊の姜という所長が、新任の北京市公安局副局長(兼国保総隊隊長)が会うといっていると。翌日、あるホテルで会った劉と名乗る男は、于の後任で私に誓約書を書いたら考慮すると言った。

 連中が要求した内容は「私はこの一年以上、過去十年書いて来た文章を深刻に反省した結果、特に海外メディアで発表した政治評論類は、多くの問題があった。まず関係著作において、実際の調査をろくにせずネット上のいい加減な情報や間違ったニュース・資料に基づき安易に間違った結論に達した。また私の立論も偏ったもので、中国社会の暗黒面や欠点ばかりみて、中国社会の巨大な進歩をみていなかった。
これらの文章を発表した為に、調和有る社会主義建設に害を及ぼし、読者を間違った道に導き、中国の大局的発展に損害をあたえた、と書けというのだった。

 このような状況に鑑みて、私は自分の生活をいささか調整したい、と思った。北京大学で学んでいた間、私が専攻したのはもっぱら近代文学と思想で、政治評論ではなかった。キリスト教徒になってから、その歴史に大きな興味をもったのだ。
だから、私は学者に立ち返ることにし、自分の特徴を生かし、米国でキリスト教等の歴史を研究し、政治評論の類いは書かないことにした。そして同時にだんだん成長しつつ有る我が子が米国で良い教育を受けられる様に願って渡米することにした。

 圧力の元でこの誓約書を書いた後、私は出発許可がおりた。この政府高官は「米国に行ったら自由だなどとおもうなよ。もし話すべきでないことを話したら、やっちゃいかんことをやったら、お前は帰国できない。家族(両親等)とも会えない。行いを慎むんだな」と。

 政治権力がなんと憲法で保障した市民の出入国の自由をもって、その市民を脅迫する、というのはまことにその政権の虚偽と弱さをあらわしているのだ。

 こうして1月11日、私達一家は警察の厳重な監視下、機上の人となった。

 今や私は米国という自由な国にいる。ここに私は重ねて宣言する。残酷な刑罰と脅迫の元での誓約書は、自分の真実の願いに反するもので、すべて破棄する、と。

 さらにわたしは重ねて、国際社会に向けて自分がこの一年遭遇したすべてを明らかにし、国連人権理事会等の機関に訴える。私はこの先も共産党独裁制度を批判するし、この日々ファッショ化し野蛮になる残虐な政権は自由世界の最大の敵である。私はこれからも揺るぎない決意をもって、中共の暴政に反対しつづけることを宣言する。

 米国に来てからの私のこれからの主な計画;2月後に「劉暁波伝」の中国語版を出版。以後、この本の各国版を出版。これは2009年に書き始め、彼の妻劉霞が許諾した唯一の劉暁波伝記だ。この伝記によって全面的な劉暁波の生涯と、思想、創作を中国人を含む全世界の人々にもっと深くこのノーベル平和賞受賞者を知ってもらえれば、と思う。それは当然、可能な限り人々に劉暁波と劉霞の命運に対して関心を持ち続ける様に呼びかけ、一日も早く彼らが自由になることでもある。

 半年以内に、「冷血暴君・胡錦濤」を出版する。これは「中国の政治的映画スター温家宝」の姉妹書になる。そして歴史の舞台から引き下がる胡錦濤への「弔辞」である。中味は胡錦濤政治の和諧社会だの大国復活だの中国モデル

、所謂治安維持等、胡錦濤時代の重要な特徴への全面的分析と論評であり、国内外の読者や国際社会に中国経済の成長の裏にある専制暴虐、腐敗の横行、人権の悪化、環境破壊、道徳の崩壊など多くの真相を知らせ、歴史上の許されざる2人の罪人であることを示す。

 中国出国後、多くの国内の友が我が選択に同情と理解をし、激励、期待してくれたことに本当に感動し励まされた。私は自由世界の多くの情報に触れ、自分の作品を一歩も引かず、むしろ前進させ高められると、きっと皆さんの期待に答える作品を生み出すと信じている。



 また、広い国際社会の舞台で、中国の民主と自由の為に自らの声をふりしぼり、国際社会に更に劉暁波、刘霞、陈光诚、高智晟、胡佳、范亚峰や余知られていない刘贤斌,陈卫、陈西、杨天水らの境遇を知らせたい。私は今、得難い自由と安全を獲得したが、依然として自由も安全もない同胞のために声を上げる事は私のおろす事のできない責任と使命である。縛られた者とともにあり、悲しめる者とともにあるのは、キリスト教の教えでもある。

 そして私は本当に愛国者なのだ。シェイクスピアのマクベスの中にこんな台詞がある。「我らの国は思い軛の下に沈み、泣き叫び血を流している。毎日彼女の傷の上には新しい傷が重なる」。私はこの傷の痛みに憂い悲しみ、今後共産党の暴政を暴露することを生涯の仕事とする。

 この中国の財富を盗み略奪し、中国人民を奴隷とするこの政府が崩れるその日迄、私は一日たりとも批判と真相追求をやめることはない。そして、いつか遠く無い将来、民主、自由の実現した中国に戻り、そのときは聖書にあるとおり私達の暮らしは「兄弟姉妹がつどい、仲良く暮らすことこそ最高の美である」とのようになる。そしてかの国を奪った暴政国賊、売国の賊、胡や温や、悪辣な警察連が審判席に送られ、フセインやムバラク、カダフィのような末路をとげるだろう。其の日が一日でも早まる様に、ともに努力しましょう。(終)

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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