チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2012年1月19日
ウーセル・ブログ「なぜカロン・ティパ(首相)はタベーの名を呼ばないのか?」
原文(1月15日付け):http://p.tl/Mq-k
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん
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「この文章を書いた時点では、今年の3人を含め、チベット本土で16人が焼身抗議していた。しかし14日にンガバで焼身抗議があり、本土の焼身抗議者は17人になった。今年に入ってもう4人が焼身抗議している。(写真は@tonbani撮影)」
◎なぜカロン・ティパはタベーの名を呼ばないのか?
1月4日、カーラチャクラ灌頂法会の4日目が終わった時、新しく選ばれたカロン・ティパ(チベット亡命政府首相)のロブサン・センゲが演説した。本土のチベット人焼身抗議者による悲壮な事件について述べ、焼身抗議者一人ひとりの名前と年齢を読み上げてくれたことに感謝したい。この瞬間、悲しみを抑えられない尊者ダライ・ラマの表情は人々を感動させた。しかし、カロン・ティパはこのとても重要な場面で、2009年に起きた本土初の焼身抗議事件にやはり言及しなかった。彼が読み上げた名簿にも、最初の焼身抗議者タベーの名前はなかった。
これは一体どういうことなのか、カロン・ティパに問いかける必要がある。
カロン・ティパは知らないのだろうか?彼は昨年11月末にヨーロッパを訪問し、チベット情勢を説明した時、本土の焼身抗議者を1人少なく数えていた。本土で最初の焼身抗議事件は2009年2月27日に起きており、焼身者はアムド地方、キルティ・ゴンパの二十歳の僧侶タベーだ。私はブログとフェイスブックで念を押した。彼が払った犠牲を無視しないでほしい。焼身抗議時、中国共産党の軍警に撃たれて障害を負い、今も行方や生死は分かっていない。どうかタベーを忘れないで!
国外のチベット人が当時、ネットを通じて教えてくれた話では、私の念押しはカロン・ティパに伝わっており、彼は分かったと話していたという。私は安心し、数え方を改めてくれるのだろうと信じた。なぜなら、彼は焼身抗議したチベット人の数は単なる数字ではなく、生命を表しているのだと話していたからだ。
1カ月以上がたち、カロン・ティパは今回の重要な法会で焼身抗議者の名簿を読み上げた。確かにそこには修正された箇所があったが、ただ「2011年の」という限定を加えただけだった。この修正はタベーを相変わらず名簿から除外しているが、2011年の焼身抗議者数としては確かに間違っていないため、欠点を指摘されないで済む。しかし、こうした修正は数字のごまかしではないのか?焼身抗議した同胞を数字として扱っているのではないのか?
私が聞きたいのは、カロン・ティパがなぜタベーを除外し続けているのかということだ。まさかタベーはチベットのために命を犠牲にしたのではない、とでも言うのか?2011年から2012年初頭にかけ、チベット本土で焼身抗議した15人の最初のモデルではない、とでも言うのか?カーラチャクラ灌頂法会は尊者ダライ・ラマが執り行い、多くの高僧が集まる。カロン・ティパがここでタベーの名前を読み上げ、然るべき承認と尊重、祈祷を受けることを家族や同郷者、修行仲間は待ち望んでいたのではないのか?カロン・ティパにすれば、タベーの名前と年齢を読むのは口を2回多く動かすだけの話だが、本土にいるタベーの家族はそれによって犠牲の価値を確かめ、極めて大きな慰めを得られる。なぜカロン・ティパはこれほどわずかな音を出し惜しみ、タベーの家族らに彼が忘れ去られたかのような感覚を与えるのか?
カロン・ティパが唯一挙げられる理由は、タベーの焼身抗議がもう3年前の出来事であり、触れなくてもいいということだろう。しかし、時間の経過が記憶を消し、記念を取り消す理由になっていいのだろうか?もし3年前に巨大な代価を払った英雄を持ち出す必要がないとすれば、この半世紀以上にわたって民族の犠牲になった無数の烈士についても全て終わったものと見なし、心に深く刻む必要はないということなのか?
カロン・ティパはただ時間の区切りで焼身抗議者を統計したいだけなのかもしれない。今から始めるならば私たちは今後、「2012年以降、チベット本土では既に3人のチベット人が焼身抗議した」としか言えなくなる。2011年の焼身抗議者12人に触れる必要はないのか?当然ながら2009年のタベーについても二度と触れる必要はないのか?
もしカロン・ティパが引き続きタベーに触れないのなら、申し訳ないが、事実の通りになるまで私はとどまることなく声を発し続けるだろう。
そして私たちが同様に覚えておくべきなのは、60歳を超す亡命チベット人トゥプテン・ゴドゥップが1998年、インドのデリーで焼身抗議の犠牲になったことだ。昨年11月にはニューデリーとネパールのカトマンズで、僧侶ブティと俗人シェラップ・ツェドルが焼身抗議で負傷している。
2011年1月7~9日
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)