チベットNOW@ルンタ

ダラムサラ通信 by 中原一博

2011年11月6日

米議会人権委員会におけるキルティ・リンポチェの証言

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キルティ

11月3日、アメリカ議会はその人権委員会でチベットのための公聴会を開き、チベット亡命政府首相ロプサン・センゲ、キルティ僧院総管主キルティ・リンポチェ、及びICT(国際チベットキャンペーン)のプチュン・ツェリン、3名の証言を聴いた。
そして、これを受け次の日には中国政府に対しチベットの人権弾圧を非難する決議案を採択している。

以下、この時のキルティ・リンポチェの証言を前半中心に約半分翻訳したものを掲載する。

原文(英文):http://p.tl/LL6z
中国語訳(ウーセル・ブログ):http://woeser.middle-way.net/
写真はウーセル・ブログより。

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米議会トム・ラントス(Tom Lantos)人権委員会へのキルティ僧院総管主キルティ・リンポチェの証言

相継ぐ焼身抗議が象徴しているチベットの厳しい人権状況に関する、米議会トム・ラントス人権委員会におけるキルティ僧院総管主キルティ・リンポチェの証言

米議会に対し、悪化するチベットの人権状況に関し報告する機会を私に与えて下さったことに感謝いたします。


381914_311136558902627_100000188577039_1486301_2145101562_n今日のこの会合で私は、チベットが中国共産党により占領された独立国であるということを報告しようと思っています。占領されてすでに半世紀以上が立ちます。その間、チベットの状況は年ごとに悪化しています。この主な原因は、初期に中国が行った所謂民主的改革を通してチベットを支援するという約束が虹の如く消え去り、その代わりにチベット人への弾圧政策が実行されているからであります。中国政府はかつての約束が完全に消え去っていることを意図的に忘れ去り、如何なる肯定的政策ももたらしませんでした。その結果、地域の党幹部たちは宗教の自由を否定し、田畑、牧草地やその生産物を強奪する等の抑圧的政策を行っています。彼らの言うところの法律は名ばかりとなり、刑罰は彼らの収入源となっています。この事が人々に正義に訴える希望を失わせ、若者たちを絶望に追いやっているのです。

チベットは所謂自治区と自治州に分割され、名目上、自由な政治システムが行われているかのように聞こえます。しかし、実際にはそのような寛容なシステムどころか、チベット人には一般の漢民族が得ている権利の半分も与えられていないのです。漢民族至上主義に縁取られた政策がチベットの人々をその限界にまで追いやっているのです。その中国人の教育の有無に関わらずリーダーは常に中国人なのです。中国政府の下で働くチベット人は差別され、信用されないのです。もしも、中国の指導者たちがダライ・ラマ法王が提言される相互利益に基づく中道政策を受け入れていたならば、チベット人と中国人は、かつてのチベットの偉大な宗教王たちの時代のように、同等な関係を享受していたことでありましょう。

かつて、胡耀邦は漢民族至上主義の役人たちこそが中央政府を暗黒と化した真の分裂主義者であると認める雄弁な報告書を作成しています。ここで、私はチベット全体の状況、特に個人的に近い関係にある北東チベット地域アムド、ンガバの状況に付いて報告したいと思います。ンガバ自治県の人々は3代に渡り非常な苦悩を経験し、心に傷を負いました。この傷は忘れがたく、癒し難いものであります。

1. 第一世代の傷:ンガバはチベット内で近代、中国により襲撃された最初の地域であります。中華人民共和国建国以前の1935年、紅軍の長征がンガバを通過した時、中国軍は当時2000人の僧侶が暮らしていたラテン僧院を完全に破壊しました。その後、隊はムゲ・ゴンチェンに向かい道すがら多くの僧侶や一般人が殺害されたり、負傷しました。軍はムゲ僧院で会議を開き、その後ギャロン・チョクツェ、キョンキョ、ジャプック、及びダツァン僧院から貴重な物品と穀物を略奪しました。その結果、地域ではチベットの歴史上初めての飢餓が発生しました。この時地域のチベット人は初めて木の葉を食べることにより生き抜くことになったのです。

ミュの首長チョクツェの王と周辺のチベット人たちは占領軍と戦いました。しかし数に勝る中国兵に勝つことはできませんでした。紅軍指導者朱徳とその部下がキルティ僧院の中堂を占拠した時、ンガバ・キルティ僧院の第44代僧院長アク・タプケの一族はじめ多くの人々が銃殺され、仏像・菩薩像は略奪、破壊されました。紅軍とは宗教破壊者であるのみか略奪者であるということを人々は知ったのです。この時、毛沢東は広大なチベット地域を見て、これを占領しようというアイデアを得たのです。そして、1949年に中華人民共和国を建国した翌年、彼は第18旅団を送り込む事によりこれを実行したのです。このような事件がンガバの人々の心に癒しがたい傷を残したのです。

2. 第2世代の傷:1958年、所謂民主改革がンガバで行われました。文化大革命が1966年に始まり、その2年後にはHung Chengと呼ばれる地域紅衛兵がンガバで組織されました。相継ぐこれらのキャンペーンにより何百、何千というチベット人が投獄され、拷問、公開闘争セッション(タムジン)、飢餓、その他様々な非人間的迫害を受けたのです。ミュの王、ティンレー・ラプテンは拷問に耐えきれず川に身を投げ自殺しました。ジグメ・サムテン・ツァンの転生者やその他多くの著名なチベット人に死刑が宣告されました。端的に申せば、チベット人全体を抹殺しようという政策が実行されたのです。全ての宗教施設は破壊されました。土地の名前、チベット人の名前さえ中国語に変えさせられました。チベット語とその文化を否定し、消し去るためにです。半世紀以上に渡り、ンガバ周辺の豊な自然資源、特に森林は過剰開発され、地滑り、洪水その他の自然災害の原因となっています。自然環境の破壊はすでに修復不可能なまでに進んでいます。これら全てのことが中国支配の下で育った第2世代の人々の心に傷を残しました。

3. 第3世代の傷:1998年以来「愛国教育」キャンペーンがンガバ周辺の僧院で強化されました。同じ年、4月27日にはインドの首都デリーで年長チベット人トゥプテン・ンゴドゥップが抗議の焼身自殺を行い死亡しました。2003年、そして再び2008年にはンガバ・キルティ僧院が運営する1200人の学生が学んでいた学校が当局により強制的に閉鎖されました。チベット人が経営するボンツェ学校、カシェ・トンに近い場所にある他の学校は政府に取り上げられました。一方で、地域にある中国の僧院や中国人が経営する学校は運営が許可され続けています。

2008年3月16日、キルティ僧院僧侶に先導されたンガバの人々が平和的抗議デモを行った際、中国の保安部隊は直ちにデモを弾圧し、23人のチベット人を殺害しました。キルティ僧院は中国軍に包囲され、外界と遮断され、刑務所と化しました。それ以来ンガバには軍の駐屯地が5カ所新設されました。ニューヨークに本部を置くHuman Rights Watchの最近の報告によれば、中国四川省の他の地域に比べンガバの保安予算は2倍であると言います。この報告書によれば、ンガバ地区には現在5万人以上の武装保安要員が配備されています。

(今年)3月20日以来、キルティ僧院の僧侶は8つのグループに分けられ、「愛国教育」キャンペーンが昼夜を問わず強制的に行われています。僧房は捜査され、全ての電気製品は取り上げられ、聖なる経典はナイフで切り裂かれ、僧侶たちはダライ・ラマ法王の写真の上に足を置き踏みにじることを強要されます。約100人の僧侶が逮捕され、尋問、拷問を受けました。さらに、僧院の護法尊に捧げられた法具は取り上げられ、僧院は中国政府と戦うための武器を保持していたと謂れもない非難を受けました。これは広くプロパガンダとして利用されました。キルティ僧院の僧侶2人、ドンリ僧院の僧侶1人、ゴマン僧院の僧侶1人が拷問とその恐怖故に自殺しました。キルティ僧院の70歳の老僧はこの息詰まる状況の中、心臓発作により亡くなりました。僧院は冬の重要な宗教儀式を行う事を禁止されました。今年のチベット新年に行われ予定であった恒例の祝賀式も禁止されました。

2009年2月27日、27歳のキルティ僧院僧侶タペーが中国の抑圧支配に抗議するために焼身自殺を図りました。保安要員は火を消す代わりに彼を銃撃しました。彼の居所は今も不明のままです。

(以下、今年3月16日の僧プンツォの焼身自殺に始まる、ンガバその他チベット地区の焼身自殺を中心に今年の状況に関する詳しい報告が続く。この部分中略させて頂き、最後の一節を訳す)

チベットの若者たちが焼身自殺しているという事実は、チベット人の苦しみを証明するものであります。彼らはそのアピールが世界の指導者たち、人権団体を含め、世界中の自由を愛する政府と人々に届く事を願っています。そして、中国に対しチベットの弾圧を止めるようアピールし、その弾圧によって安定を得ることなどできないのだということを解らせて頂きたいと願っているのです。チベット人と中国人の間に友好的な共存関係を醸し出すために、また胡錦濤の提唱する調和社会を築くために、チベットと中国の対話が早急に開始されなければなりません。我々はまた、中国に対し、独立した国際使節団とメディアがンガバその他のチベット地区を視察のため訪れることを許可するよう働き掛けて頂きたい。あなた方の支援は内外のチベット人の内的な力を取り戻させてくれます。一人のチベット人スポークスマンとしてチベット人、特に最近の事件により直接的な影響を被っている人々の願望をあなた方へ伝えることは私の義務であります。

チベット人とその苦境に関する証言を行う機会を私に与えて下さったことに対し、最後に再び、深い感謝の意を表明致します。

筆者プロフィール

中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro

1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)

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