チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年9月10日
ダラムサラ図書館の仏教哲学講義
最近、また思い出したようにダラムサラの図書館で行われている仏教哲学のクラスに通い始めた。かつて85年から10年間せっせと通ったクラスだ。このところアーリアデーヴァ「四百論」の講義が続いている。今日は特にこれと言った内地チベットのニュースも入っていないので、最近聞いた授業の内容を一部伝えることにする。
アーリアデーヴァ(提婆)はナーガルジュナ(龍樹)の直弟子として有名である。AD150~250年頃の人とされている。哲学的立場は師であるナーガルジュナの中観思想を踏襲し、空性の思想を理論と実践の両面において師とともに発展せしめたとされる。
なお、ダラムサラ図書館の仏教講義は今ではウェブでライブを聞くこともできる。http://p.tl/tS2j
また、今行われている授業のベースとも言える英文テキストが先生であるゲシェ・ソナム・リンチェン師と通訳のルース・ソナム女史により出版されている。http://p.tl/-r-i
以下、9月7日分の前半と8日分の前半:
ゲン・リンポチェ(ゲシェ・ソナム・リンチェン)は今、アーリアデーヴァの「四百論/菩薩のヨーガ行」を講義されている。その第8章に入っている。8章においては「煩悩を如何に捨てるか?」について論じられている。
昨日は、煩悩を捨てるためには必ず存在の空性(無自性、実体性の欠如)を理解せねばならない、少なくともまず興味を持たねばならないという話まで進んだ。
(第183偈)反論に「もしも、そのように空性を理解することがそれほど重要ならば、なぜ仏は無明・行・識……と続く十二支縁起によりサンサーラの縁起を説かれたのか?空の話だけすればいいのではないか?」と。
これに対し、「まず世俗諦の正しい理解を得ない限り、勝義諦(空性)の理解を得ることはできないからだ。正しい世俗諦を理解することは勝義諦理解への方便となるのだ」と応える。存在の真実のあり方を間違って理解している(無明)が故に、その間違った理解を基に様々な行為をなし、その結果として苦しみを受けサンサーラを巡り続けている。これに対し、存在の真実のあり方を知り、無明を晴らすことにより、すぐにではないが、じょじょにサンサーラを動かしている原動力を失わせ輪廻を止めることができるのだ。このようにして悟り、解放、ニルバーナに至ることができる。
(第184偈)「全ての現象は空である、実体的に存在しない」と聞いて、驚き、怖れを抱くものがいる。この「空」に対する「恐怖」を如何に克服すべきか?が次に説かれている。反論に「もしも現象に実体がないなら、何も存在しないことになる。行為者も行為もないことになる。誰もいなくて、行為もないなら、どうして悟りなど有り得よう。実体がないなら多くの不都合が起こる」という。
一般に我々は「実体がない」と聞いても「怖れる」ことはない。これは我々がそんなに深くこのことを考えていないからだ。「怖れる人」はこの考えに対し熟考するも、「実体がない(空)」ということと「存在しない(無)」を区別できないからだ。これは実際簡単ではない。怖れは「空」を「無」と誤解することから起こる。これは一応ちゃんと考えた人に起こる可能性があるのだ。話を聞いてノートとって、そのまま飯食って終わりにする人には起こらない。
全ての現象(存在)、器である周りの環境世界も中身の有情も実体を持たないという。我々は「現象は実体的には存在しない」というのであって「存在しない」というのではない。
ここにいる皆さんは「空」と「無」をはっきり区別できますか?
アーリアデーヴァは「もしも現象が実体的に存在するなら、現象が生起することはできなくて、悟りにいたることもできないことになる」という。
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9月8日分前半:
アーリアデーヴァは「全ての悪しき態度と感情(煩悩)とその基となっている無明から解放されることは確実に可能である。またそうせねばならない。そのためには存在の正しいあり方、全ての実体的存在の空に対し興味を持たねばならない」と説く。この理解により無明(基本的誤解)が晴らされるからだ。
また、この理解に努力すれば、解放を得ることは容易いともいう。手の届かないものではないと。行為と行為者が共に空であることを理解し、その理解に慣れることにより、様々な行為を遠ざけること(無為)ができるようになる。
「完全な解放(悟り)に至る事はとても困難なことだ。それよりも世俗的幸福を求めた方が良いではないか?」との反論に対し、アーリアデーヴァは「そうではない、実際に世俗の幸福を得ることの方がよほど大変なのだ。それよりも単純に悟りを求めた方が余程楽なのだ」という。
第186偈に
「無為によりニルバーナは達成される
有為は再び再生の因となる
だから思い悩むことなく、ニルバーナは
簡単に達成できる。反対は簡単ではない。」
今、経験しているサンサーラ(世俗)は間違い多く、苦しみに満ちたものであるが、この否定的側面を認識しない限り、決してニルバーナ(解放)に至ることはできない。
再び反論に「そのように存在の空性を理解することで簡単にニルバーナに到ることができるというなら、なぜその他の無常とか苦とかをあなたは説く必要があるのか?」と。
「これらはサンサーラの否定的側面だ。これらのことに気付く事なく、俗世を捨てようとは思わないからだ」と。世俗の様々な活動への執着心を捨てさせるために、無常とか苦について説くのだ。
第187偈に
「これ(サンサーラ)に嫌悪を持たないものが
どうして平安(ニルバーナ)に関心を持とうか?
家族を捨てることが難しいように
サンサーラを捨てることは難しいもの」
サンサーラの状況、サンサーラとは如何に苦しいものであるかということについて思いを巡らすなら、サンサーラを捨てようと考えるであろう。まったく考えないなら、解放を求めることもない。喉の乾く苦しみを味わわない限り、何か飲み物を探そうとしないことと同様だ。
例えば、自分が生まれた場所が、それほど利のある場所でなかったとしても、その場所を離れることはほとんどの人にとって難しいもの。故郷の否定的側面を認識せず、理由なく執着するように、その否定的側面を認識することなく、多くの人はそのまま俗世を生き続け、解放を求めようとしないものだ。その場所の状況や条件を熟考しない限り、そこから逃げ出そうとはしない。
もちろん、この悪条件を認識する目的は暗くなるためではない。一方で我々は人として生まれ様々なよき条件に恵まれていることを認識し喜べという教えもある。この場合は、俗世の現実を認識しない限り、その束縛の条件から自由になることを求めないということだ。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)