チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年9月1日
法王のダラムサラ仏教講義
ダラムサラのツクラカンでは先月の30日、31日、そして今日9月1日と3日間に渡り、ダライ・ラマ法王による仏教講義が行われた。
今回の講義は東南アジアグループのリクエストに応えられたもの。シンガポールの華僑を中心に香港、マレーシアからの参加者が多かった。その他、中国本土の中国人グループもいた。その他、韓国グループ、ブラジルグループ、日本人グループも同時通訳付きの特別席を与えられていた。保安部の発表によれば、海外25カ国の人が参加し、総勢5000人以上が登録したという。
テキストはシャーンティデーヴァ(寂天)の「入菩提行論 སྤྱོད་འཇུག༏」。過去、法王はこのテキストの講義をすでに何十回ともなく行われている。法王がもっとも大事とされるテキストの一つだ。
今回は一日目に第一章のみ終えられ、全部で十章あるので、このままでは終わりそうにないなと思っていたが、結局2日目に第5章まで終えられ、「続きは来年だ」とおっしゃった。3日目の朝には「千手観音の灌頂」を行われ。講義を終了された。
なおこの講義は以下にアクセルすれば、今からでも全部聞く(見る)ことができる。
チベット語/英語:http://p.tl/FkTf
「今日、教えを与える主な人はシンガポールから来られた中国人だが、ホンコンとマレーシアからの人もおられる。その中には仏教徒の方もおられるし、キリスト教徒の方もおられる。特に仏教を信じている訳ではないという方もおられる。……最初に英語で話すことにする……天気も皆さんを祝福しているようだ。昨日までひどい雨だったが、今日は良い天気だ。
ここにこうして集まっている理由は、幸せな人生を得るためだ。成功した人生を得るためだ。これが、主な目的だと私は思う。幸せで成功した人生を得るための正しい方法は、金銭、権力、物質的充足だけではなく、究極的には心の状態を正すことによる。物質的充足ももちろんある種の満足を与える。主にその満足は感覚的レベルだ。ある美しい物は目の感覚器官を通じ一定の満足をもたらす。音楽も一定の満足を与えてくれる。ピースフルな音楽、いい音楽は短い間だが、静寂感を与えてくれる。これも完全に感覚器官に依るものだが、意識に影響を与える。そして食事、味も身体的感覚だ、香りも触覚もそうだ。ある種の満足、幸福感をもたらす。しかし、これらの感覚は、すべて一時的なものだ。美しい音楽が流れている間はそうだが、終われば、幸福感ももうそこにない。
もう一方の側面に付いても考えるてみるべきだ。いかなる感覚的経験もそれがいかに強くとも、その人の心が不安や苦しみの中にある時には感覚的快楽は、その心を晴らす事に役立たない。一方で、心が静かなら、力と自信、勇気に溢れているなら、感覚レベルにおいて、例えば肉体的苦痛も大したこととおもわれない。ある場合には肉体的苦痛をある種の満足のために意図的に求める事さえある。
自分の経験に照らして理解できることだが、幸福感には2つのレベルがある、感覚的幸福感と心的幸福感だ。この2つの内、心的幸福感がより重要だ。……」
と、まあこのような分り易い話から始められ、まとめて言えば、最初に法王の第一の使命・請願である「人間性向上」に関し、暖かい心、慈悲に満ちた心が如何に幸せな人生を送るために重要かを説かれた。
その後、第二の使命・請願である「宗教間の調和」に関連し、全ての宗教は道徳観を共有し、実際に道徳促進に寄与しているとして、全ての宗教に尊敬心を持つべきと説かれた。
創造神を認めない縁起を基本とする仏教の考え方を説明され、「この意味では仏教はダーウンの進化論に似てる」ともおっしゃった。「中国人はアミタバ、アミタバ、チベット人もオマニペメフン、オマニペメフンと真言を唱えるだけで、何か願いが叶えられると思っていたりする。これ等は、ほとんどその対象を創造神か何かと思って、完全に帰依するだけで十分と思う態度だ。仏教であるかどうか疑わしい」とも話される。「アミタバ、アミタバばっかり唱えてばかりいないで、縁起、無自性を中心とする仏教の教えをしっかり勉強するように。分ったね」とも。
ここまで英語で話され、チベット語にスイッチ。仏教の歴史を外観された。ブッダがブッダガヤで完全な悟りを開かれたその内容。サルナートで最初に説かれた四諦の意味。弟子たちが第一、第二、第三結集において話した内容。その哲学的見解の差異。説一切有部、経量部、唯識派、中観派それぞれの空に対する哲学的見解の差異を割と詳しく説かれ。チベットに仏教が伝えられた経緯。現在に到るその後の展開を概観された。
一日目の午前の部はここまで。
午後にはテキストに入られ、第一章「菩提心の利益」を詳しく講義された。
2日目には第二章から第五章まで。内容は日本語の解説書も出ているのでそれを参照されたし。例えば、在日本ソナム先生のhttp://p.tl/lB2M等お勧め。
第六章「忍耐」のみ、私が訳したものをかつてブログに載せた>http://p.tl/Ehw7
講義には来なくても、灌頂となるとどっと街の人が押し掛ける、という傾向がある。
この日もツクラカンは満員御礼状態。
「全ての現象は空であるが故に、我々が悟ることも可能なのだ。我に自性なく、仏性を持つ故に、観音菩薩となる事も可能だ。完全な涅槃に達する事も可能なのだ。我が独立した、不変で固有性を持つ存在ならば、涅槃に到ることは不可能となる。……空の理解なくしては密教の灌頂は成り立たない。自分を観音と観想する前に空なる心を…….」と法王は説かれる、、、がもちろん私を含めその他大勢の外野の人々は、お守りの赤い紐を貰ったり、赤い鉢巻きや甘露代わりのサフラン水やクシャ草を争ってもらおうとするばかり。
灌頂の準備のため、朝早くからツクラカンにお出になり前行を行われる法王。
日本人グループの席。20人位いた。右隣の韓国人グループの中にはチベットの僧衣を着た僧尼が10人程はいた。いつもながら差を感じる。
最後にお堂を出られた法王。「今日は額に黄色い粉を付けているが、これは今日がガネーシュの祭りとかで、ヒンドゥーの人に付けられたのだ。講義には全く関係ない」と最初に言われた。
で、この写真を撮った後、法王がマジに自分の方に近づいて来られたのでカメラを外すと、いきなり顎ひげをつかまれ、ぐいぐいと引き上げられ「ひひひ…」と。周りの皆も「ハヒハヒハハハ…..」となったしだい。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)