チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年7月4日
雲南北部旅行その4:ナムカ・タシ(風来寺)へ
ギェルタン(香格里拉=シャングリラ)のバス停で9時発デチェン行きのバスに乗る。これまでのバスに比べ、サイズが小さく椅子も硬め。気に入ったのは、バスの前部座席のほとんどが例の武装警官(隊)によって占められたことだった。何の用あってデチェンに向かっているのかは聞けなかったが「一般のバスを利用して移動することもあるんだ」とまずはちょっと以外な(光栄?)感。サングラスしたリーダー格らしきドス効かせたお兄さん以外は一様に幼く(おそらく18~21歳)田舎出身のような、大人しそうな顔をしていた。リーダーさんが居眠り中、彼のポケットから大きな音とともに電気棒が床に落ちたのには苦笑い。
写真はデチェンに近づいたころ、工事現場で停止中。こんな記念写真しか撮れなかった。
ガイドブックにはデチェンまで5時間と書いてあるが、この間全線に渡り道路拡張工事中、ひどい工事中の道をのろのろと行くこと多く、結局8時間も掛かった。揺れとホコリと途中の暑さも加わり、少々長いと感じた。来年辺りには、山奥をこれでもかというほどに削り取った高速道路が完成しているかも知れない。完成すればこの180キロ足らずをほんの2~3時間で結んでしまうことだろう。何のためにこんな山奥に高速道路がいるのか?何で大金つぎ込んでるの?と考えた。後に、その答えの参考になるある現象を観察することとなった。
ギェルタンを後にすると、北西に向かう道はやがて下り始める。ディチュ(金砂江、長江上流)河に沿う道(標高約2000m)まで一旦高度を下げる。
写真はその長江上流と周りの村。この辺村ではブドウ栽培が広く行われているようだった。ギェルタンで飲んだおいしいワインはこの辺で作られているらしい。河に下りると暑くなる。乾燥しているらしく、辺りの山には木がなく(伐採のためのようには見えなかった)代わりにサボテンが至る所に生えていた。それでも、住民のほとんどは今もチベット人らしくれっきとしたチベット圏だのだ。
ギェルタンで偶然再会した友人もこの辺の出身と言ってた。
道が再び河から離れ、登り始め、しばらくして目にした立派なチベット僧院。
チベット名を調べてないが中国式には「東竹林寺」と呼ばれているらしい。
僧院の集会堂の上部明かり取りの部分を派手な三層に積み上げてるのが面白い。
屋根のそりも穏やかになって来てる。
友人が幼いとき出家した僧院というのがここらしい。
道はどんどん高度を上げ峠に近づく。次第に気温が下がる。松林、ヒマラヤ・オーク地帯も抜け、ツツジ等の高山性灌木地帯から草原地帯に入った。辺りの山にも雪が残っている。再びチベット高原に入ったと実感する。広い大きな峠の頂きらしき場所にタルチョ塚があり、4300mと書かれていた。
写真は峠の手前。
峠のそばの山。中国名:白茫雪山(5640m)山系の山と思われる。
デチェンの町。山間にはまり込んだ、想像してたより大分小さい町だった。
デチェンにもデチェン僧院とか、見るべき場所もあったと思われるが、日程の関係で飛ばし。その日はデチェンのバス停に着くと、すぐに乗り合いタクシーに乗り換え10キロ先にあるナムカ・タシ(飛来寺)に向かった。そこは目的のカワカルポ連山が一望の下に眺められるというので近年、宿がひしめくようになったという地点だ。
中央に写ってる氷河はカワカルポから流れ出たものに違いなく、その上に聳えるはずのまだ見ぬ頂上を、その日は想像するしかなかった。
宿の人は、「今年は例年より天気が悪く、雨の日もよくある。頂上まではっきり見えるのは一週間に一度有るか無いかだよ。」と甘くない話を聞かせてくれた。
それでも、いや明日の明け方、きっと晴れ渡るに違いないと目覚ましを6時にして眠りにつく。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)