チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年7月3日
雲南北部旅行その3:ギェルタン(シャングリラ)編
6月15日、朝、麗江(ジャン・サダム)のバス停からギェルタン(གྱལ་ཐང་/シャングリラ)行きのバスに乗る。所要約5時間。
ギェルタンはかつて中国風には中旬と呼ばれていた。が、2002年から香格里拉(シャングリラ)と町の名前を変えた。この場合の「シャングリラ」は映画化された小説「失われた地平線」(ジェームス・ヒルトン著)の舞台になった理想郷「シャングリラ」がここであると勝手に主張して、当局が観光開発促進計画の一環として命名した元々チベット人の町の新しい名前。
麗江は標高2400m、ギェルタンは3276m、標高から言ってもチベット高原の南端に位置するチベット人の町と言えよう。
数時間するとバスは長い坂道を上り始め、峠に向かっているなと思わせた。窓から入る空気は次第にひんやりしてくる。広い松林の高原に入る。さらにじょじょに高度を上げ、峠と思える丘を越えると突然前の前に広々とした草原が広がった。チベットに入ったことが納得された。急に青い空が広がったのに合わせるように私の心も急に広がったような気がした。
チベット人街である旧市街に宿を取り、すぐ裏の丘に登ってみる。丘の中腹から町の北部市街地。手前の切妻屋根の集落が旧市街。後はほぼ完全に中国人が侵入後に開発?した新しい町。中にはいくつかチベット仏教寺院の金色の屋根もある。それにしても、思ったより町は大きく、漢族が溢れており、少々ショック。
同じく丘から東方向の風景。丘の上の寺を中心に広がり写真手前、板葺切妻屋根の屋根を持つ集落が旧市街。
寺の左に建っているマニ車はギネスブックにも登録された、世界一大きなマニ車だそうです。後で行ってみた。近づくほどに巨大。一度に20人ほどで回すこともできる。こんな大きなマニ(ー)車作っちゃって、、、唖然。
丘の中腹にある美しい三層の観音堂。チベット仏教のお堂だが、様式は90%漢式。
丘の上にあるお堂。この辺では珍しくと思われる石組みで壁が作られてる。石の色の違いが、自然な模様になってていい。チベ・漢折衷様式の中ではイケルタイプのお堂と認定。
中に入ると、高校生位の若者が寝そべって音楽聞いてた。
このお堂の主尊はゲルク派祖師のジェ・ツォンカパであった。思わず、顔がほころぶと同時に、何だか叱られそうで緊張した。このお堂はツォンカパ堂ということだ。この辺りにはゲルク派の寺が多い。
大マニ車のある寺の前の広場にいた、見せ物用/一緒に写真を撮る用観光ドッキ(チベタン・マスティフ)の親子。
旧市街、チュテンのある広場。
大理も麗江もそうなのだが、ここギェルタンも旧市街は車が入れないことになってる。もちろんいい事なのだが、最初に荷物をもって到着した時。旧市街の外に降ろされ、そこから重くはないにしても背中に荷物をもった状態で宿を探さないと行けなくなる。しばしば古城と呼ばれる旧市街は、道が入り組み非常に方向感覚が狂いやすく、詳しい地図を持ってない新参者は容易く迷子になってしまう。この日もこれという宿がないまま、相当歩いてしまった。疲れたころ「自由館」という漢字につられある宿に入った。感じのいい、中国人の若者たちが始めた宿のようだった。宿代が昆明、大理、麗江にくらべ突然安くなる。1人部屋30元とのこと。でもシャワー、トイレは共同。部屋はこぎれいだったので安いと思った。それまではシャワー、トイレ付きだが100元以上した。
町を歩くと、ここはカムの一部なんだと思わせる店が目につく。カムの刀を専門に扱う店が沢山あった。そのようなあるカム刀剣屋のディスプレー写真。ほんと強そう!
夕方、町の中心広場でチベットのコルシェ(輪踊り)が始まった。ここのコルシェは観光事業の一環というよりは自然に見えた。町の中から踊りたい老若男女が集まり勝ってに踊っているという感じ。相当大勢が踊ってた。もちろん外人観光客や中国人観光客も中に加わっていた。
そのコルシェの輪の中に発見した。ミス・ギェルタン/シャングリラ。
旧市街の石畳の道を歩いていたとき、ある奇跡的出来事が起こった。
私はここに来るバスの中で、「そういえば、この辺から来た若いお坊さんと昔ツェンニー(論理大学)のクラスの最中よく松茸商売の話をしたっけ、、、あの坊さん確か国に帰ったと聞いたが」とふと昔のことを思い出していた。
まさしくその人にばったり道の上で会ったのだ。
「おー ****!」といきなり道ばたで肩を叩かれた。
顔を上げると、そこには確かにロブサンが立っていた。もう若くもなく、僧衣も着てなかった。少し太ったようでもあった。でも、いつもの善良そのものといった笑顔は変わりなかった。
「ひぇ~ なんて奇遇。ちょうどお前のことを考えてたとこだったぜ!」なんて話となる。彼は今、レストランを経営しているという。肩組合い、そのレルトランとかに入る。そこは古い民家をそのまま利用したという感じのかなり大きなサカン(レストラン)であった。
レストランで自家製ワインというのを飲まされた。これが最高にうまかった。
で、彼の話を少し。彼はギェルタンと次のデチェンの間にある長江上流沿いの町で生まれた。8歳で近くの僧院に送られ出家。「法事でお経を唱えることは知っていたが。本当の意味は誰も知らなかった」状態に飽き足らず、本格的に仏教を勉強したいと15歳のときインド亡命を思い立つ。カイラス方面からネパール北西部に抜けるルートをガイドなしで越える。結局40日も歩き続け、やっとカトマンドゥの収容所に到着。途中で食料が尽き、4、5日何も食べなかったこともあると。亡命後はまず南インドのデブン僧院ロセリン学堂で勉強を始めた。間もなく暑さで病気になった、そうだ。で、涼しいダラムサラの姉妹校のようなツェンニー・ダツァンで勉強を続ける事にしたと。ここの校長であったロプサン・ギャツォ師の出身地もこの辺ということでツェンニーにはもともとこのギェルタンやデチェンの出身者が多かったのだ。10年勉強したあと国に帰りたいと思い始める。なかなか容易には中国へ帰るパスは手に入らなかった。ふとした縁でデリーの中国大使館に同郷のコネを得て、パスを発行してもらい、国に帰ったと。国に帰ると昔の仲間たちが商売で成功してるというケースを多く発見。仲間の勧めと援助もありレストランを始める事になった。もう、僧侶を続ける気もなく「仏教は行じるものだし、、、」と僧衣も脱いだ。商売はまあまあ順調だそうだ。外人観光客も良く来るそうだ。結婚はまだとのこと。
夜になると、ちょっと散歩に出ようと外に出、あるチベットライブハウスに入る。ダルツェドから来たというバンドが元気よくチベットの歌を続けてた。観客は興が乗ったと思われる度に派手なカタをステージのバンドのメンバーに掛ける。
その内真ん中のステージの上でコルシェが始まった。
次の日の朝、友人に「また、デチェンからの帰りに寄るから」としばしの別れを交わし、デチェン行きのバスに乗る。写真は町を離れたすぐ後に車窓から見えた、ヤーが遊ぶ美しい湿地帯。
このデチェン行きのバスはちょっとだけきつかった。デチェンまで8時間かかった。
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)