チベットNOW@ルンタ
ダラムサラ通信 by 中原一博
2011年5月13日
李江琳「50年代少数民族地区での土地改革と鎮圧」
ウーセルさんは5月11日のブログに李江琳女史の歴史検証論文を掲載されている。
李江琳( @JianglinLi リー・ジャンリン)女史は米国ニューヨーク在住のチベット現代史を専門とする漢人女性歴史学者。当ブログ4月16日から3回に分けて紹介した「青海草原に消えた亡霊」http://p.tl/TinRの筆者でもある。今年1月、『1959拉薩!──達喇嘛如何出走(1959年ラサ!―ダライ・ラマはいかにして脱出したか)』という本(中国語)を台湾の出版社から出版、本人がダラムサラまで行って出版記者会見をやっている。「1959拉薩!」の中で彼女は1959年の「チベット動乱」は、中国共産党によって仕組まれた(計画され、扇動された)ものであったという検証を行っているようだ。<この辺@uralungtaさんの解説。
原文: http://is.gd/vjVNOP
翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん
訳分は全訳ではなく、一部省略している。
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<50年代少数民族地区での土地改革と鎮圧 >
大まかに言うと、中国共産党の民族政策の変化は、「民族自決の支持」→「地方自治」→「地方民族主義反対」→「反乱平定」――という発展過程を経ている。「民族自決の支持」は政権を奪い取る過程での単なる統一戦線の策略だ。「建国後の重要文献集」1巻の文献「『少数民族』自決権問題に関する共産党中央の人民解放軍第2野戦軍前敵委員会への指示」はとてもはっきりとこの点を説明している。
国共内戦の時期、西南と西北の各民族は基本的に中立を守り、青海省の馬歩芳のわずかな例を除き、かかわったり実力行使したりする民族はいなかった。多くの民族は昔から高度な自治を持ち、そこに外来の政権が打ち立てられることはなかった。一般民衆は漢族主体の共産党と接触したことがなく、民族雑居区以外で周辺地域の民衆と漢人に接触はなく、彼らが初めて見た漢人は村落の土地改革に来た工作グループだった。
私の研究は1950年以降のチベットの歴史と亡命史に限られており、ほかの民族について専門的に研究したことがない。資料収集でも、チベット人関連の資料を探している時に偶然見かけるものだけだ。私が把握している細かな資料によれば、55年から60年代初頭にかけ、少なくともチベット、モンゴル、フイ、トゥ、モン、イ、ワ、サラールなどの民族が暴動を起こし、過酷な軍事鎮圧に遭った。そのうちチベット人の反抗は長く、規模も大きい。その次はイ族だろう。涼山イ族は55年11月に抵抗を始め、チベット人と同じ鎮圧過程をたどり、正規軍が抵抗者を虐殺した。これらの民族の不運は今まで専門的に研究されておらず、史料も限られていて、いまだに中国現代史の空白だと言っていい。これらの空白を埋めないのなら、中国現代史は欠けたものになる。
なぜ少数民族は抵抗したのか?これは55年に少数民族地区で始まった社会改造の強制と関係する。共産党史は「中国革命」を2段階に分ける。49年以前は「新民主主義革命」、数年の過渡期に続く社会改造は「社会主義革命」と呼ばれる。55年前後にこの2段階が中国の他地区でほぼ完成した。
少数民族地区の土地改革で注意すべき問題がある。少数民族の社会改造が「民主改革」と呼ばれ、「土地改革」と呼ばれないのは、共産党の理論では少数民族地区はまだ「新民主主義革命」を経ておらず、「中国革命」2段階を同時に行わなければならなかったからだ。「土地改革」「合作化」の同時進行だ。
だからプロパガンダが言う「土地分配」は名義だけだ。同時に反革命鎮圧、国家の統一買付・販売、「宗教制度改革」などが進んだ。その結果、民衆の抵抗を呼び起こし、武装蜂起が起きた。共産党はもちろん自らの政策がなぜ民衆に受け入れられないのかを省みず、すべて「武装反乱」と定義し鎮圧した。
貴州少数民族地区の工作隊の行為を示す上の写真の資料は、少数民族が寛大に処置されなかったことをはっきりと伝えている。この内部参考が反映する状況は氷山の一角に過ぎず、実際の状況は遥かにひどかったのではないか。
工作組は漢人中心で、ある地区では全員漢人で、軍隊も漢人だったから、少数民族が漢人に清算を求めるのは当然だ。私たちが居心地悪く感じるのも仕方がない。50年代に高地に住み、漢人を見たことなかったチベット人らに「圧迫者は共産党であって一般漢人ではない」と区別を求めるのは非現実的だ。
下にあるのは公開史料だ。一言述べておこう。投降者と戦場の捕虜は後日、基本的に全員が捕まり、労働改造農場と「集中訓練班」に送られ、大多数は死亡した。
以下資料、甘粛省志・軍事志」の臨夏回族暴動の鎮圧に関する簡単な説明
以下資料、「四川省志・軍事志」の涼山イ族鎮圧に関する簡単な説明
カム暴動の原因に関する共産党の標準的な説明は、ダライ・ラマがチベットに戻る途中、ティチャン・リンポチェと索康(ガルン・スオカン?)が道中で「扇動」したというものだ。しかし、イ人の暴動についてはダライ・ラマを非難しようがない。ではイ人はなぜ同じ時期に暴動を起こしたのだろう?
数十年来のプロパガンダはいつも少数民族地区の発展、少数民族の優遇などを強調しているが、史実はまったく異なる。例えばセルタでは、70年代になってようやく県内初の中学校ができた。現地幹部の子弟のためだ。現在でも少数民族居住地の多くは車道が通っておらず、粗末なトイレさえない。
私たちがかなりの程度これらのプロパガンダを信じたがるのは、昔から少数民族に対して漢人の抱く「救世主願望」にこうした話が迎合しているからだ。自分は「中央帝国」であり、他人は「蛮夷」で、漢文明による「教化」が必要だという願望だ。
公開資料の中では、「反逆者」が幹部を殺す血なまぐさい描写をよく見るが、土地改革工作隊がどう少数民族を傷つけたかが分かるのは内部参考だけだ。「反乱鎮圧」過程で共産党軍は少数民族に極めて残酷だった。捕虜殺害や爆撃などは「政策違反」として公開資料の中でわずかに触れられるだけだ。
大きな苦難を経験してきた少数民族は沈黙を強いられ、自らの体験や感情を口にできず、歴史はこうしてプロパガンダに取って代わられた。この歴史は多くの民族の中で既に集団的記憶の一部分となっており、共産党側の史書が言う「反逆者の首領」は彼らにとって民族の英雄だ。
これは私たちが避けて通れない歴史だ。主要民族として、私たちはこの歴史に向き合う必要があるし、歴史について少数民族が自分たちの解釈、感情を持つことを認めなければならない。私はこの歴史を知っているため、中国民主化によって自動的に民族間の衝突が解決されるとはまったく考えていない。
これは未来の民主的な中国が継承せざるを得ない負の遺産だ。衝突をどう解消するのか?民族の和解をどう実現するのか?私たちがやるべき第一歩はプロパガンダを排除し、史実を知り、他民族の感情を尊重することだ。(終)
筆者プロフィール
中原 一博
NAKAHARA Kazuhiro
1952年、広島県呉市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業。建築家。大学在学中、インド北部ラダック地方のチベット様式建築を研究したことがきっかけになり、インド・ダラムサラのチベット亡命政府より建築設計を依頼される。1985年よりダラムサラ在住。これまでに手掛けた建築は、亡命政府国際関係省、TCV難民学校ホール(1,500人収容)、チベット伝統工芸センターノルブリンカといった代表作のほか、小中学校、寄宿舎、寺、ストゥーパなど多数。(写真:野田雅也撮影)